犬・人・国・記

since 1998.10.1



落とし穴に落ちてしまいましたね。ようこそいらっしゃいました。
ふふ、驚かれました?

民話の世界でしたらねえ、ここで心尽くしのごちそうや温かなもてなしを受けてすっかりいい気持ちになった「人のいい」おじいさんは、ほどほどのお土産をもらって帰りました、とさ。
・・・ということになるんです。話題は、お土産の中身に移るわけなんですね。
ところがねえ、そうなんですよ、ここではそうならない。金銀のお宝をもって無事にお帰りにはなれないんですよ、お客さん。
穴に落ちる寸前にちらとだけ聞こえた「ゆき」ちゃんのセリフ−−−「なによねー。連載を始めたからって・・・」。そう、気が大きくなったのも少しの間だけで、黙ってペンを動かしていればいいのにそうできない。自分の立っているところをきちんとお話ししなくてはと、穴を仕掛けてたってわけで。

え、お帰りですか?
残念ですね、せっかくのご縁でしたのに。そうですか、どうぞ気をつけてお帰りください。気が向いたら、また来てください。

出口はこちら



残られた方はもっとお近くまで。どうぞどうぞ、そんな隅っこじゃ声も届きませんて。
え、牙が光って恐い?
そうですか、そのことばで昔のやり取りを思い出しましたよ。だいぶ昔のことですが。

「ねえ、おばあさんのお口はどうしてそんなに大きいの?」
「それはね、かわいいおまえの頭がすっぽり入るかどうか確かめるためだよ。大きくなったからねえ」

「おばあさん、おばあさんの歯はどうしてそんなに光っているの?」
「それはね、赤頭巾や。おまえが夢の中の暗い道を行くときでも、おまえの足元を照らすためだよ。
目をつぶって、そしてまぶたの裏でそっと目を開けてごらん。そうだよほら、さっきの光が見えるだろう、ぼんやりとね。すぐにもっとはっきりと見えるようになるからね。
よしよし、いい子だ、もっとこっちへ来て。さあ、もう一度目をつぶってごらん。そうだよ、見えるかい、光が。そのまま目を開けて、お眠り・・・」

ガブリ!・・はっは、食いつきやしません。血はきらいだってことにしてるんですよ。赤頭巾や7匹の子やぎだって、わざと丸呑みしたんでね。今回も・・・。
冗談ですってば。


●FLASHの光に目がくらみ●

この「ゆき」のデジタル絵本は、みなMacromedia社のFlash(今のところ2J)で作られています。
わたしのように他に画像ソフトやオーサリングソフトを扱ったことがなくても、それだけで絵が動かせ、ページめくりやその他のちょっとしたびっくり仕掛けまでできる・・・小ぶりながら、作って順番つけて注文つけたりして、自分の思うままに芝居をさせられるっていうんですから、うれしかったですねえ、こいつのうわさを聞いたときには。
だいぶ昔のことだけど、私的な同人誌なんかを紙の印刷物として手がけて、作ったり配ったり委託したりの手続きのめんどくささに、ついつい溜息をつかざるをえなかった身でしたからねえ。
もっとも、そいつは挿し絵はあるもののテキスト主体のものでしたが。

ここでわたしは、自分が送り出した「ゆき」の絵本について、話をしておきたいのです。
(ちょっと口はさませて。皆さん、こいつの話はね、いいかげんに聞いといて、適当なところで「出口」に向かったほうがいいよ。
いや、知ってるの、こいつの話が長くなるってのは。悪いこといわないから、腰を下ろさないで。あ、下の方にも「出口」はあるよ!)

・・・どうも、ご親切に、いちばん前のお客さん!
ええ、それでですね、デジタル絵本のことを語るには、比較の対象として紙のマンガのことを語らねばなりません。
というのは、後世の勉強家の学者さんが「デジタル絵本の出現とその世紀末的背景について」なんて研究をまとめることになったとしましょう。
(ちょっと待てよ、おい、1999の7の月の後がないんだろ? 後世っていつだ?)

・・・ま、それはこっちに置いといてもらって、と。
そのころにはデジタル絵本の進化の系統図なんてものができていて、それを見るとデジタル絵本にもっとも近接していたのは、紙の絵本ではなく紙のマンガであった・・・というような「証言」が必要になるかもしれないでしょ?
(オイオイ、・・・こいつけっこう本気だよ!)

つまり、本日できますものは、紙のマンガとデジタル絵本、その似てるところと違ってるところについての「考察」・・・と、こう来ます。
もしくは、紙という地球には同化できずに宇宙へ飛び出していこうという、デジタルの鬼っ子についての「考察」・・・のようなもの。
(のようなもの? なんだ、その鬼っ子てえのは?)
で、鬼っ子はこのあとどうなるかっていうと月になる。「ゆき」は実は、月よりの使者「嗅ぐや姫」だったという・・・
(オイオイ、そっちの方が面白いよ!)

ええ、あたしもそっちの方が面白い。面白いんだけどね、一応なんつーか、「口上」ってのをやっておかないとどうにも納まりが悪い。それじゃちっとも向上してねえじゃないか!ってんで文句が出て、跡地に工場が建たない。ひとつ皆さんのご厚情をもちまして・・・
(オイオイ、どっち見てしゃべってんだよ。前ぶりが長くっていけねえや。わかったよ、わかったから早くやれっての、聴いてやるから!)
ありがとうございます。これであたしも生きて地上に出られます・・・。
(なんだよ、オイ、泣いてやがるよ。)


●マンガ家の傾向を大雑把に分けますと・・・●

マンガを描く人にはいくぶんか傾向の違うタイプがあるようで、大雑把に言うと3つくらいに分けられます。
まず「線画(ポーズ)」としての美しさを追求する人がいます。イラストレーター的というのでしょうか、最近人気を集めているマンガ家さんたちは、この要素が強いようです。
「キメ」がうまい。読者も同じなのでしょう。いつでも自分のいるところが舞台、スポットが当たるところ、というわけなんでしょう。
次に、静止していた絵が「動くこと(アクション)」に面白みを見る人がいます。これは本来のアニメーターに近いと思います。動かすこと自体が好き、面白い。もとより初期のディズニーがそうですが、手塚治虫氏もその核には不滅のアクション魂がありましたよね。
あるテーマ、あるいは意図を場面の「展開で表現(ストーリーテリング)」するところにいちばん快感を得る人もいます。絵をくずす。動きを抑える。演劇や小説のライター的と言えるでしょうか。

この3タイプ、もちろんそれぞれのマンガ家の中に要素としての濃淡があるんで、どのマンガ家がどのタイプと簡単に分類はできません。
でも、確かにそう言われりゃっていう、思い当たるフシはあると思います。

で、「ゆき」の場合。
「ゆき」の絵そのものはそれなりで下手ではないけれど、静止した1枚絵として独立した価値を主張しようというほどのことはありません。こちらもそのつもりのエネルギーを注いでは描いていない。あくまで「素材」として、動きの中に置いて見るべき絵です。
じゃその「動き」はどうなんだっていうと、もともと運動神経が鈍い(だれが?)うえに、ディズニーからこっち国産のアクション主体のアニメでもういいやって気分で、これもノレない。これもまた「素材」としての動きです。
ですからまあ、見るべきは「展開」かってことになるわけですが、まあそれしかないでしょうね。「展開の発想」といってもいい。
まあ、こんだけしかない・・・・・・と言っていい。
(オイオイ、ずいぶん低姿勢だね。オスワリどころか、自分でフセしてやがるよ!
おう?しっぽをおっ立ててるのは、どういう料簡なんだ?)

へへえ、バレました?
ま、とにかく、ここに見本みたいに提示したいくつかの作品タイトルに対して、構えずごく単純に向かい合ってくださいよ、と。
そうすると、その展開の中から立ち上ってくる新しい「物語」の感触というようなものが、なんとなく感じられるんじゃあないでしょうか。どうでしょ?


●新しい「物語」の感触が・・・さわれました?●

わたしは「ゆき」の絵本で、低い声ではありますが、マンガに対する自分なりの見解を述べているつもりがあります。今までの「紙」のマンガと違う感触があるはずなんだから、その違いをサンプルで味わって、「ちょっと新鮮!」とか思ってくれと言ってるんです。

(・・・あつかましいやね。黙って聞いてりゃ、言いたいこと言いやがって。
そんなことは余計なお世話だね! こっちは楽しめればいいんであってね、現在のままの感覚で。
感心させたいなら、もっとほかのことをやれっての! あくまでエンターテインメントなんでしょ?
だいたいマンガというからいけない。コミックスと言ったらどうなの、そのほうがわかる。
あんたの言ってんのは、現在流通しているコミックスと違うものを狙ってるよ、デジタルだとその可能性があるよ、ってんでしょ! あんたの手柄でもなんでもないじゃないか!)

ええ、全くそのとおりで・・・動くマンガというか動きの少ないアニメというか、そういう全体の印象があるところで、とにかく新しい「驚き」が提示できているのかどうか。それも含めてお願いします、と評価を求めているわけなんです。
この、えーとさっきの系統図の話を離れて、わたしが構成したり演出したりのイメージだけで言うなら、既存のジャンルのうちでいちばん近似しているモノは「紙芝居」、あるいは「無声映画」なんかじゃないかとも思ってるんですが。
このデジタル絵本はどう?面白い?と、こう尋ねてるわけです。

で、このデジタル絵本は・・・。
(いちいちまわりくどいやつだな、自分で紙芝居風だって言ってんなら「デジタル紙芝居」だろ、そう言いなよ!)

ええ、そうですね(・・・なんだかやりにくいね、このいちばん前の客は。さっきから恐い顔でにらんでて・・・)

そのデジタル紙芝居。これは、時間軸を送り手側が設定する。そこは、観客は映画やテレビやビデオなんかで経験済み。驚かない。
それを一方的に垂れ流すのでなく、観客にも割り込ませるインタラクティビティっていう要件が用意してありますってのも、パソコンやTVゲームなんかで経験済みだ。
じゃ何が違う? 何が新しい?
違いの一つ。貧弱な環境でのシロートの観客側からの手作りだよってところ。もう一つ。グローバル・ブレインだか何だか知らないけど、それはそれでいいけれど、こっちはほとんど町内の回覧版のレベルで始まってるよ、っていう意識のありどころ。

言ってみれば、グローバルな町内。そこで手渡す手書きの回覧版。手渡す人の顔がぼんやりと見えてます。
そこでもう一つ付け加えると、ページめくるように読み聞かせする「物語」のスタイルが可能なのではないかな、と考えるのです。
膝の上に乗せた子どもと一緒にね、「絵本」のページをめくるような。鼻をたらした子どもたちが覗き込む木枠のソデから、1枚ずつ「紙芝居」の絵を引き抜くような。
つまり「これが原点だよ」ってな気持ちもちょっとある。
えーちょっと、へへへ・・・ちょっとだけよ、なんて(あ、全然ウケないや。ますますにらんでるよ)。

それで、この「手作り紙芝居」風ってところを面白がっていろいろやってみると、今までにないオリジナルな「展開」の仕方になってしまうんじゃないでしょうか・・・ってのが、まあ、こちらの予感みたいなもんで(ありゃあ、でっかい目で、まだにらんでるよ)。
何てんですか、送り手と受取り手の間に今まで成立していた紙の上での「意味」の約束事とも、映画やテレビとかの映像の方での枠組みとしてあった「形象」の約束事とも違ってくる。
そこいらへんの上流下流を設定した約束からきてた「質量感」みたいなものから逸脱するというか、解放されるものになり始めてしまっているのではないかと。こちらの思惑と関係なく、メディア自体のなりゆきで勝手に・・・えー、思うわけで。
そいつをちゃんと意識して組み立てていきましょう、そうしましょう、そうしませんか、と、そういうわけで。

まだまだ試みのレベルで、いろいろ手探りしてる段階なんで、はっきりと「これだよ」と言えるだけのものを提示できてるとは思ってないもんで、そのためちょっと自信なげではありますが・・・。
(予感だか、悪寒だか知らねーが、自信なげはよーくわかったよ!)
・・・やりにくいなあ、どうも。


●フレームが目にしみるぜ●

わたしは「ゆき」の絵本、あ、紙芝居でしたね。これついては、このインターネットのWEBでの表示を意識した上で絵を描き、動きをつけ、場面を構成していっています。だけど観客はせいぜい数人だよ、ってつもりで。
内容的には、今のところ多くを既存の表現物(特に紙マンガ)の表現文法に従わざるをえないわけですが、そのとき、紙マンガでいう1コマの中での動きばかりでなく、コマとコマの間に動きをつけていくときに、画像が映し出されるディスプレイの「フレーム」を絶えず視野に入れておく、ということなどもあるわけです。

これから後、デジタル世界では表現技法というか文法が進化してゆく、その進化を見通そうとしたとき、このフレーム(=枠)が視野に入ってきてしまうという状態は相当決定的に働く因子であるのではないかと考えます。
「物語」が限定されるのです。見る人の想像力の範囲に、最初からタガ(あるいは枠)がはまってる。
フレームを意識せざるをえないままで、どこまで表現の蝕指を延ばすことができるのか。この先は袋小路かもしれないなと思う気持ちも強いのですけれど。
インターネット街という、昔で言う玉ノ井みたいなところで「抜け道」を探り当てられるかどうか、とりあえずやってみるしかないわけですが。

(えー、玉野井だろ? おめーの変換辞書おかしくねーか?
それにしても、どーでもいいようなことしゃべってるね、うさんくさい「用語」ばかり並べやがって。
いいから、もっとテキトーにかいつまんでやってくんな、頼むぜ!)


●少女マンガ家が作り出した「踊り場」●

直接比較できる事柄ではないのですが、「フレーム=枠」と表現意識のせめぎあいということでは、歴史的な跳躍の時期というものはありました。
1960〜70年代に、特に少女マンガの世界で起こった表現意識の拡大は、テーマや描写法に新しい試みを要求しました。コママンガの枠線破りがさまざまに試みられたのも、その著しい現われです。
その後、ムーブメントの揺り戻しがあったにしても、そのとき獲得された枠線取りの多様さは、マンガ文法の財産として、現在の「少女マンガ」家たちには共有されているようです。

マンガに限らないのでしょうが、表現はすべて先例のコピーから始まるため、財産が受け継がれているかどうかはそれぞれのマンガ家のペン先でしか確かめられませんよね。「少女マンガ」を技法の面からコピーする少年・青年マンガ家はいないようですね。マーケット面でも、いろいろ反発のほうが大きそうですしね。

当時から「少女マンガにはついていけない」と拒否反応症状を口にしていた論者は、瞳の中の星、突然背景に描き込まれる花々などと一緒に定番的に「枠線破り」の技を、許容できないものとしてあげつらったようです。
前後の筋の展開のリズムを故意に乱すかのようにさしはさまれる、「階段の踊り場」のような段抜きのコマの描出、がそれです。

これらは当時の少女マンガの送り手と、そこに想定された意識の高い受取り手(実際には送り手たち自身が主体だったようですが)にとっては、十分に意図的な構成法だったと思われます。表現しようという意識が確立させようとした表現文法でもあったでしょう。

「踊り場」のコマで語られるのは、多く登場人物に寄り添って、プロンプター(舞台上の役者に対して物陰からセリフの口添えをする人)のような位置から書き記される登場人物の内面の声(あるいはその物語のマスターの声)です。
絵はことさらに脈絡から切り離されて静置され、テキストが(ときに無音記号として)その場で刻々と印字されたかのように表示されています。

ほら、マンガの主人公ってよく虚空を見つめて独白するでしょ。あそこに読者と作者の通信回路っていうか、バーチャル(?)な観客席が開かれてるからだと思うんですよ。その観客席のいちばん前の席で、両手を握り締めて張り番をしてるのが、その物語のマスターってやつで。たいてい作者がやってんですけど・・・あのー、言ってることわかりますかね?
手塚さんのマンガなんかでも、時々舞台の上まで出てきちゃうでしょ、マスターが。あれですよ、あれ。
(ほんとかなあ。自分で言ってても、相当乱暴な物言いだね。まあ、作る側の意識の上ではまちがってはいないと思うけど。)

頭をかきながらコミカルなピエロ(狂言回し)の役割で出てくる約束事にしていたのを、そのときの少女マンガは違うやり方にして見せちゃった。
最前列のマスターがいきなり立ち上がって、オペラを歌い出すんですから。

文学的なジャンルの概念を当てはめて言うと、これは「詩」ですね。小説など散文の時系列世界の展開の中に、突然「詩」がさしはさまれるってわけです。
ここに多くの論者はつまずいた。面食らった。ついていけなかった。いくらなんでも約束が違うだろう、と。
当時は「マンガ」を論じること自体がヤツシだったでしょうから、その辛抱の限界外に「枠線破り」はあったのでしょうね。無論「星の瞳」も「花の背景」も。
このあと感性的についてゆけますという論者が出てくるのは、それらの少女マンガが読者の少女に支持され、ある程度のマーケットの見きわめがついてからのことですものね。


●皮膚の下の時空間をどうやって絵にするか●

こういうのって、しいて映像の世界の文法でいうと、「ストップモーション」ということになるのでしょうか。「動く」約束のムービーに突然、「静止画」がさしはさまれる。たとえば、厳密には静止画ではないけれど、『戦艦ポチョムキン』のオデッサの階段を落ちて行く乳母車であるとか。
(うーん、でもあのシーンはフレーム自体が動いていってるので、やっぱりここでいう「静止画」ではないのかな。物語の時間の流れを激しく切り替えてるんだけど。)
実写よりもさらに「アクション=動き」によって語ることを期待されるアニメ映画で、近年では果敢にも『攻殻機動隊−Gohst in the shell−』が、この「静止画」に挑戦していましたね。それが作品世界の展開上必要だったからでしょう。そしてうまくやれていたと思います。

「マンガ」や「アニメ」ばかりでなく「文学」においてもなお、現時点でもまだまだ求められ続けているのは「ビジュアル化されない真実=内奥の非言語的な声=個々人の皮膚の下に流れる固有・非固有の入り交じった時空間」の描出であり、その方法の創出にほかならないと考えます。
「デジタル紙芝居」もまた例外ではありえないでしょう。目に見せられる限られた材料で、普通は目に触れることのないものをどう表現するか。4次元の事象を2次元あるいは3次元的にどう表現できるのか、という課題です。
文学がすでに自明の方法として獲得し、そして陳腐化してしまっている「作品マスターのつぶやき」も、新しく目に見える形で描出できなければ、アナログだろうがデジタルだろうが、「物語」の明日はないのだと思います。

しばらくは今までにない絵や動きで目くらましができても、他のメディアの表現が到達している地平に顔を突き出せなければ、このステージでは生き残れない。せいぜいテキストなどに添える「絵解き」として使われるだけでしょう。
とにかく表現物を受け取る人々は、新しい楽しさや面白さ、つまり新しい「驚き」しか受け取らない。他の表現物と同じほど、いえいえ他よりももっと、それを突き出してみせなければ納得しないでしょう。
同じエンターテインメントという条件の中で評価は受けなければならない。
何万人もの人に足を運ばせる映画、何百万もの部数で売れるコミックス、そしてテレビ、TVゲーム。
同じ条件だけど、上がるリングは違うのさ。ミニメディア、ミニメディアと、オマジナイのようにつぶやいちゃいます。これがリング、これが原点。

それでもやることは基本的に同じ。積み上がった表現方法という財産と、それでも「それ」は表現されていない、という認識のスタートラインから始める。
文学の援軍をあてにして「テキスト」を表示する、映画(トーキー)をまねて「音声」をかぶせる、マンガのように「動きと画面のカット割り」で伝える・・・試行錯誤でしょう。
デジタルの舞台はせり上がったばかり。なんたって長年培われた共有財産なんだから、紙などでの財産をとりあえずそのまま持ち込んで試してみるところから始めるしかない。

だけど、その今までのメディアで恩恵にあずかれた環境は、デジタル世界には必ずしも持ち込めない。
たとえば・・・、決定的なんで何度も言うけど紙の「余白」や映画館の「暗闇」は、ここにはない。テキストの「改行」とか、映画館の「音響効果装置」とかも、代替物を作り出さねばならない。
紙マンガの「擬音効果文字」(オノマトペ)とかも、紙マンガのレベルと同じわけにはいかない。

(余談ですけど、井上雄彦の『SLAM DUNK』の終盤で、この「擬音効果文字」は非常に意識してコマが展開されていました。それとやはりストップモーションと。
彼が一時インターネットで「マンガ」を試みたのは、面白がりという偶然ではないと思います。彼の創作時の意識に、「紙」の表現の約束事を脱ぎたい瞬間があったからだと想像しますが。)

(もう一つ。現在の段階では、デジタル紙芝居でこの「擬音効果文字」は、現今の紙マンガのようには使えません。使いたいのだけれど、使うと目立ちすぎるのです。文字が単体で自己主張してしまって、物語の語りの焦点が拡散するのです。
実際に描画・構成してみる側に身を置いてみるとよくわかります。
したがって、物語を語るときには使えてません。ギャグ物というかコミカルなものには、逆にその拡散が「効果」として使えます。ご覧になるとき、ちょっと気をつけてみてください。)

そうなのです。このデジタルのエンターテインメントの世界では、誰もまだ「物語の語りのパターン=定型文法」を作り出していない。物語の外側を流れる時空間と、内側を流れる時空間とがクロスする結節点の表現方法、を。
わたしもまた、始めたばかり、なのです。

で、・・・(お、前の席のおっさん寝ちゃってるよ。よかった・・・ん?よくないか。)


●物語を語る者をきどって●

紙メディアや映画メディアでの表現水準に慣れ親しんでしまっている読者あるいは観客に対して、インターネットが新しいメディアだからといって、そこで提示する表現物がそうした水準よりも後退した表現であるわけにはいかない。
マンガやアニメの現在の表現水準は、(無視するにしろ手抜きするにしろ援用するにしろパクるにしろ)前提として踏まえていなければなりません。
ネットでも、いつまでも絵が「動く」だけで面白がっている地点にとどまっているわけにはいかない。
だからといって、たとえば絵や動きの擬似的なリアルさを追求していっても、せいぜいデジタル作画術での「それっぽいモノマネ作り」の名人芸という袋小路に入り込むのがいいところでしょう。

(・・・まあそれも試行錯誤のうちだからなあ。
ただ、そこに早めに金のやりとりが動いちゃってると、つまりビジネスに仕立てちゃってると、そこからの思いきった撤退や変更はできない。つまり大勢(たいせい)が動いている中で、その流れにあえて逆らい、さかのぼってまでの軌道修正はしにくくなるよね。せいぜい絵や動きや展開の印象を変えて、既存のものと違う流れを作り出そうというようなことで。
ほら、昔よくやったでしょ。雨上がりの水たまりで、泥土に新しい溝をつけてやると、水がすーっと流れ込んできてというような。せいぜい泥土の、あんな感じで。
TVゲームのように、絵や動きは擬似的なリアルさを追求していって、話はその絵や動きを見せるためにパターンを借用するみたいなことしてるだけだと、「物語」を生み出す力を衰えさせることになってしまうんじゃないのかなあ?)

(文学にしろマンガにしろ映画にしろ、作者の側は見る側がある素養をもってることを前提にしてる。ゲームの作者だってそうでしょう。
それは一言で言ってしまうと、「物語」ってことなんだけど。ひとりの人間の中で何重にもなってるものがあってさ、それぞれに別々の時間が重なって渦巻いてる。その渦巻きは誕生点から死亡点に流れを作っていて、それがその人の「物語」。
そのひとりひとりもまた、人同士の群れが作る「物語」の中で、あるいは時代の「物語」の波の中で動いている。そういうふうに人間はできている、と。そういう前提で作ってる。
その流動する「物語」に結節点を設定して、そこからから取り出したものを擬似的な「物語」としてビジュアル化してきたわけだ。
見た人たちがまた、それを取り込んで自分の「物語」に還元させてゆく、というように循環して。)

(とてもトータルなビジュアル化はできない。制約されざるをえないんだけど、そこでの制約との間に生じる抗争劇が表現方法の獲得物としてフィードバックされてきたわけでしょう。
そう考えたとき、ゲームってのは何なのだろう。この内在的な意味のなさ、「物語」の外在性ってのは?
結局、子どもあるいは子ども大人にとっての「アダルトビデオ」のようなものなのか?
・・・なんか『ネバーエンディングストーリー』の「ファンタジェン」みたいな話になってきたな。でもほんと、それに近い気持ちだな。)

近代とかいわれたものの頂点を過ぎて、「進歩信仰」や「予定調和」の神のパワーも衰えにけりの「この地点・この時点から」、いったい何を神としてゆくのか、てな話ですのでね。
それは少なくとも「紙」ではない・・・・・・あ、展開が読めてた?ひでえダジャレだって?
いやー、この稚拙さも芸のうちなの!

で、稚拙だろうがチープだろうが目をつぶり、プロンプターの声がかすかにでも届きそうなところへ「物語」を突き出してゆく。
そういう情況に、わたしの「デジタル紙芝居」も位置しているのだ、ということを強く意識してるわけです。

別の声が聞こえる。
・・・いいんだけどさ。ネットというのは結局はトンネル、せいぜい書庫だよ。早晩、落ち着くところに落ち着く。
内面の声ねえ?この手の表現には不適切な媒体なんだよ、そうだろ?無駄な労力かけるのはやめときな、金にならんぜ。・・・という声が聞こえます、わたしの内側からも。
・・・だろうね、たぶん。でも、ま、やってみるしかない。まだわからない。他のメディアと同じく、送り手も受け取り手も(画面を通してにせよ)1対1で向き合うというその形に望みをかけて。
なんたってネットはこの先、暮しのすみずみまで入りこむ。そういう方向で歴史は動き出している。行き着くところまで行き着かせるしかないのでしょう。「広大なネットの海」に漂いつつ。

それよりも何よりも、同じ環境や状況の中にいたら手塚氏だってここから始めたろうと思う思い込みもあるし、ね。(はっはあ、めちゃくちゃ身勝手な思い込みだぜ!)


●ページ余白も映画館の暗闇もなく●

この「紙芝居」は、紙媒体のマンガで利用することのできたページ余白もなく(物語に入ってしまっていると、余白も物語の時空間になるけど、それがない)、映画がそもそも用意し抱えている映画館の暗闇(これも、そういう時空間)も持っていないのだ、ということには気づいています。
ここにあるのは、いやでも視野のうちに入ってくる四角く狭いディスプレイのフレームです。つまり「箱」です。
そして、ビデオの観客よりもさらに踏み込んで、表現物を改変しようとする習性を持つに至った観客の「操作」の存在です。
そう、この「紙芝居」の相手は、すでにさんざん「TVゲーム」という別の箱世界でアクションを鍛えられたヤツらなんだよな。こちらの手技はすぐ見透かされるかもしれない、やりにくいやね。

かつての少女マンガの論者とは違う嘆き方で、舞台が違うよ、とでも言ってみましょうか。この「箱」という舞台での約束事はこれから、いやでも新しく作っていかなければならないわけなんですが。
とにもかくにも、そうした環境や状況の違いを強く意識した上で、言っておかなくちゃならない。わたしの「物語」は物語のもつ命題にしたがって、既存のお話に対して「異化」をアピールしようとするものなのだ、と。
(こんな大袈裟なセリフを吐くほどのモノを提出できてるわけではないので、それはわかっているので、とても恥ずかしいのですけど。とりあえず大声で言っておかないと、「こんなものかい」で見過ごされちゃいますからね。でしょ?)
「物語」は今、見た目だけかっこよさげなものを直接消費に向かってプロダクトしたら死ぬよ、と。そのことを言いたかった・・・のです。
さしあたっては町内だけでもいい、お互いちゃんと批判しあうためにも、ね。

わたしは自問します。
この「箱」という舞台で、表現衝動に見合ったオリジナルな表現方法を提示できているのだろうか。つまりデジタルな「ことば」あるいは「語り」を。
送り出そうとしている「物語」は、ひとりよがりでなく、同時代の人たちに伝わるものになっているのだろうか。共鳴してもらえるものなのだろうか。
それは、いくぶんかでも初めて提示されるもの特有の表情をもっているのだろうか。その表情は内在するもののアウトプットとして「魅力」をもち、そのために支持されるだろうか。
支持されるにしても、こちらの意図とは別の違う理由なのだろうか。
あるいは支持されないまま排除されるのだろうか。
それは、他の媒体では困難であり、今この媒体でなければ表現できるものになっていないせいなのだろうか。

・・・問いは果てしなく同じところに群がり、その答は答えようとする手技の先にしかありえない。
古い器に新しい水は注げないというのなら、とにかく注ぐ手の形に新しい物語を作ってやらねばならないでしょう。
その先にやがて器が−−「箱」を超えた器が形作られてくることに思いをこらしつつ。

(いやーカッコイイなあ、われながら。一度言ってみたかったんだ、こういうキメゼリフ。
「テキスト」の力だよねー。
「絵」に描き込むという手法では、コミックスの主人公に言わせるって手もまだありなんだろうけど。そろそろ賞味期限が切れてきてます、そっちの世界でも、このての芸は。すぐに、こんな楽屋裏くらいでしかお目にかかれないシロモノになっちまうんだろうね。
「・・・ナンチャッテ」とか付け足しても、お客さんたちに鼻白まれるだけでしょうし。
まあとにかく、これらの自問の言葉の十分の一、・・・いや二十分の一くらいは意識してやってますから、ほんと。コミカルな展開をああでもないこうでもないとひねってる、その瞬間瞬間の「にらみ」としてね。
・・・てなこと言うと、さっきのお客さんに「てやんでえ、新しくモノをつくろうってやつはみんなやってるよ!当たり前だよ、そんなことは。御大層なことぬかすんじゃねえやい!」なんて怒鳴られそうだなあ。)

先ほど、ここに落ちてきたときに、「ゆき」はこうも叫んでいたんです。
「あんなの、ほんとの紙芝居にしたらただの1場面よ!」。
つまり紙メディアの歴史の堆積物に換算すれば1枚、1画面、あるいは1コマにすぎない、と。

もとより自身が書きつけたことばではありますが、自ずから生れてきたことばでもあります。自戒として、また反発の種として抱えていきたいと思います。
「違うんだよ、ゆき。おめえにゃ、わかるめえが!」。
もとより犬でありますれば、わかるはずもなく、わかる必要もないものを、あえて。
だって、この「ゆき」は、今ドアの外で寝そべっている犬とは違う「生き物」なんだから。
あの犬も「ゆき」っていうんだけどね!

(あれ?さっきの前の席のお客さん、いつのまにかいなくなっちゃったよ。ちゃんと出口に行けたのかな?)



●そして誰もいなくなりましたとさ●

さて、長いことお付き合いくださって恐縮です。
お疲れになったでしょう?それでそれがどうしたってな、つかみどころのない話で。
勝手な講釈はいいから、実践の結果を「芸」として見せてくれよ、え?・・・そうおっしゃりたいんですね、お客さん。
ええ、ええ、そうさせてもらうつもりですとも。それは次の機会にということで、まずは、ゆっくりお休みください。
出口は、ほらその足元あたり、ほの白く明るみが感じられるでしょう。
そこまでお見送りしますよ。

先のお客さん、ええ、来て早々に帰られた方。それと、後から帰られた方。
ここから無事に出られたと思いますか?
どう思います、ねえ?



<−−−「とも・ゆき」、薄く舌なめずり。目が青白く光る。>



(・・・というト書きを読んで情景を思い描くより、ここは直接的に絵がほしいと思いません?
前を行く客の肩越しに、うつむいて従っていた影身がかすかに頭をもたげる。薄く開いた口が異様に赤い。
その口角を舌がゆっくりと這う。目のあたりがかすかに青白く光って・・・。
どうかな?)

(もう一つオマケ。この場面をこの「絵」にするのはダサイとか言ってもらうのは、こちらとしても望むところで。
まずト書きだけの方がカッコイイと思う感性はあるわけです、わたしにしても。もともとテキストから入ってきている人間なんで。)

(たとえば絵にするにしても、こんなのはどうかな。
わざとト書きをそのままテキストで見せて、すぐにそれが化学反応のような様相を示しながら溶け始めるようにする。やがて溶け落ちて穴が開いた向う側に暗闇が現われ、そこで青白く光る目がこちらを見ている。溶けた個所からは赤い血が・・・。
なんて、これもダッセーとか言われそうだけど、考えれば他にも絵の出し方はいろいろありでしょう。自分の案を工夫してくださいよ。)

(そう、あたりまえなんだよ。紙のメディアでだって映像でだってみな創意工夫しているわけなんだから。こっちだって必死に考えるってこと! いやでもいろいろ考えられるんだから面白いじゃん! 絵作りもシナリオのうちなんだからねー。
さあて、このつづきは『B・P・S構想−予告篇−』あたりで考えてみることにしようかな?)

(それにしても、話つくる人と、動きつける人と、絵かく人と、ぜーんぶ一人で抱えてやれるヨロコビをさっき語ったけど、ゲーム業界のほうじゃすっかり分業に走っちゃってるようだし、いつまでシロートが面白がっていられるんだろうね、このネットの路上で。)

(で、最初の「絵」の話に戻るんだけど、わたしはあえてダサくいきたい、と。理念としても嗜好としても戦術としても、ここはダサくてチープなほうがいいんだ!と強く思う。)

(リアリティを出すってのは、そのものの見た目にどんどん近づくことじゃないですよね。そのものとの埋められない隙間をきちんと認識して、観客の皆さんの想像力にバトンを手渡すことでしょう。それが芸でしょ?
なんか間違ってないですかね、最近の方向って。こちら側からだけハシゴをかけていって。現実のリアリティに近づこうとすればするほど、獲得するのは「やっぱりニセモノ」というリアリティでしかない。)

(わかってやってるのかな? 現実のものとの間にある隙間をどんどん削っていくと、必ずニセモノのリアリティのほうに合わせて、本物のほうを改変してしまいたくなるよ?
つまり、バンパイアになってしまう。そしてずっと言い続けることになるんだ、これじゃない、これでもないって。
いいのかな、それで? それとも、もう行き着くところへ行き着こうというプログラムが、風車のようにゆっくりと回り始めてしまっているのかな?)

(・・・だとすると、ここで言ってる芸としてのチープさは、もはや適応力のメモリのない旧式の概念かもね。相手を信じてのチープさだから。
つまりほら、ピッチャーがまず肩ならしにストレートの感触を確かめるってやつ。
だって、ここにはまだバッターどころか、キャッチボールの相手さえいないんだから。)

(え、ボールを受けとめてくれるんですか?
はっは、では返球はちゃんと胸元を狙ってくださいよ、「後世」を生き延びようとしている、お客さん!)



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