G線上のアリアの知識



G線上のアリアは大好きなんだけど、実際自分が何か演奏できるわけでもなく音楽音痴の私です。

こんな私がわからないなりに図書館に足を運んだりして、私なりにまとめてみました。

G線上のアリアの歴史(G線上のアリア誕生のエピソード)


穏やかで優雅で荘厳な美しさに溢れているメロディ-でみんなに”G線上のアリア”で親しまれているこの曲は
ヨハン・セバスティアン・バッハ(1685年から1750年)がケーテン時代におそらく36才から37才の頃、管弦樂組曲第3番二長調.BWV1068の第2曲(=エア(アリア))として書かれたものが原曲でとなったものです。バッハが生きていた時には評判にもならず、バッハが亡くなって100年のちに発掘され曲を演奏されることによってやっとこの曲にスポットライトが当てられました。まだこの時はほぼ原曲のままだったと思われます。



ヴァイオリニストの地位も確立して来た頃、G線だけで演奏するという事が話題に上っていたそうです。流行にのって1871年にドイツのヴァイオリニストのアウグスト・ヴイルヘルミ(1845年から1908年)がバッハのアリアを原曲にバイオリンのG線(=テーマメロディがバイオリンの四本の弦の一番低い音のG弦)だけで弾けるように編曲することで、世の中に広く”G線上のアリア”として知られ親しまれる曲となりました。現在では広くヴァイオリンや他の楽器が他の線で弾く時にも”G線上のアリア”として紹介されるようになり、”G線上のアリア”と言う名が世に浸透したということです。



アリアとは.......


この場合のアリアとは美しい旋律のゆっくりとした舞曲を意味していると思われます。



管弦樂組曲第3番二長調 BWV1068とは...


序曲、エア(アリア)、ガヴォット、ブ―レ、ジークを集めた五曲でできている管弦樂組曲でバッハが37才の頃書いたものと思われます。



G線上のアリア誕生に関わった音楽家


アウグスト・ヴィルヘルミとは....


19世紀後半に世界的名声を得たドイツのヴァイオリ二ストです。9才の時すでに天才少年としてデビューし、リストにその才能を認められライプティヒ音楽院に入学し、その後世界各地で演奏活動を行い評価を得たようです。
そして、たくさんの有名な名曲を掘り起こしヴァイオリン演奏用に編曲したそうです。その中で注目をあびたのがこの”G線上のアリア”だと言うことです。




ヨハン・セバスティン・バッハとは....


バッハはいうまでもなく、バロック音楽の最後で最大の巨匠です。彼は音楽史上かかせない存在で最高の作曲家と言われています。また、”音楽の父”と呼ばれています。



***バッハについての人間史と音楽の功績を簡単にまとめてみました。***


バッハの幼い頃

バッハは1685年ドイツのアイゼ・ナッハの音楽一族に生まれました。一族はプロテスタントだったそうです。彼は音楽好きで、読書好きで生涯を通して良く読書をしたようです。このことがバッハが晩年、眼を悪くするということに関わって来るような気がします。
幼い頃の彼はクラヴィ―ア、オルガン、ヴァイオリンなどの演奏に神童ぶりを発揮し、また、美しい声を持っていたそうです。

9才の時に母を、10才の時に父を亡くしました。不憫な子供だったようです。しかし、幸いにも兄弟の仲が良く、兄に引き取られオールドルフに行きますが、生活は大変だったようです。学校へ行きながらも、バッハが美しい声を持っていた為、合唱団で歌を歌ってお金を稼ぎ家計を助けたそうです。この頃彼は必死に勉強をしたそうです。そんな彼の”月光写譜”と言う有名なエピソードも残っています。



音楽家への第一歩


それから、オルガンの名手だっだ兄の導きとバッハの才能により、幸運なことに推薦されリューネブルグの聖ミハエル学校で15才にもかかわらず歌手として採用され給費生として学校に通うようにもなったそうです。音楽の知識も身につけ、また、オルガン演奏やヴァイオリンの演奏にもめきめき磨きをかけヴァイオリンで樂士の仕事をし、この頃、創作活動も開始し大音楽家への第一歩になったそうです。



ワイマール時代


音楽家を目指した17才のバッハはワイマールの南にあるアルンシュタットに行きヴァイオリン演奏の仕事で生活をした後、教会の音楽家として地位と名を挙げていきます。この地でマリア・バルバラに出逢い、22才の時ミュ―ルハウゼンの教会のオルガニストになり彼女と結婚しささやかで幸せな家庭を築きます。しかし、いろいろあってこの町を去り、ワイマールに戻って宮廷での職にて活躍、また、音楽の成長も遂げていきます。それとは裏腹に人間関係のごたごたに巻き込まれ、ケーテンに行くことになります。


この時代の功績:

オルガン、クラヴィ―アの主要作品を多く作曲。コーラルやコーラル前奏曲も作る。



ケーテン時代


ケーテンでは宮廷樂長の職につき沢山の名曲を作曲し、家族との生活も愛情に満ち幸せだったそうです。しかし、不幸が訪れます。13年連れ添ったマリアの死です。子をかかえ彼は悲しみと途方にくれたと言われてます。その後、声楽家のアンナ・マダグレーナと再婚、彼女の美しい歌声と子供達の音楽での成長が彼の喜びとなり再び幸せな生活を送ったそうです。そう言う事で、ケーテンは悲しみと喜びがぎゅーーと詰まった人間的な幸せな時代だったようです。そして、この時代に”G線上のアリア”の原曲となる管弦組曲第3番二長調BWV1068も誕生したそうです。


この時代の功績:

最も多くの作品を作った時期。ヴァイオリン、チェロ、クラヴィーア、フルート、オーケストラのための名曲を作曲。カンタータや協奏曲の重要作品も作曲。



ライプチヒ時代


その後のライプティヒ時代は絶えずいざこざに巻き込まれ、苦しみや迫害を与えられた時期でとても気の毒に思えてなりません。そんな中、聖トマス教会の付属学校のカントール(教会の音楽監督/作曲家兼付属学校の教師)を長く勤め学生に尊敬され、また地位のある人にも理解されていたそうです。また、家庭も平和で幸せだったみたいです。そして、65才の彼は眼の手術の失敗がもとで完全に失明し不運にも体調を壊し死に至ったそうです。


この時代の功績:

ザクセン選帝候の宮廷作曲家の称号ももらう。ヨハネ受難曲、マタイ受難曲、カンタータ100曲以上、オルガン作品、平均律、クラヴィーア曲第2巻、世俗曲などなど。...



バッハについて思うこと


私なんかの凡人から見ると、人としてのバッハは生まれた時から人生を終える時まで音楽の中に身をおいてた音楽人生だったんだなあーと思います。
バッハの周りには主に音楽関係の人間関係のもめごとがよく起き,それがもとで住む場所を変えたり、職を変わらざるおえなかったりということがありましたが、私が思うその原因は、バッハが周りの人より音楽的成熟が早く、どんどんと自分の意思や世界を持ち、それを頑固とまでいえる姿勢で貫いたからではないかな?と思います。
それから、早くに両親を亡くしたけれど家族の愛には恵まれ、また、家族を愛し音楽を愛した人だったんだなあーと思いました。




<参考文献>

*CD解説書(ロン・カーター・ミーツ・バッハ)*
*CD解説書(これがバッハだ!)*
*CD解説書(G線上のアリア・オンパレード)*
*CD解説書(G線上のアリア・100%)*
*読売新聞社/バッハのすべて/堀内稔著
*偕成社/伝記・世界の作曲家・バッハ/シャーロット・グレイ著、秋山いつき訳*
*全音譜出版社/バッハ/イモージェン・ホルスト著・大津陽子訳*
*音楽之友社/聴いておきたい究極のクラッシク80曲/宮本英世著*
*NHK社/名曲アルバム120/NHK監修*
*音楽之友社/大作曲家の死因を探る/エルネスト・W・ハイネ著、市原和子訳*
*丸善ライブラリー/大作曲家の知られざる横顔/渡邊学而著*
*春秋社/バッハ探求/樋口隆一著*
*音楽之友社/音楽の父バッハ/やなせたかし著*
*白水社/バッハ(上)/シュウァイツァー著、浅井真男、内垣啓一、杉山好訳*
*中央公論社/大作曲家の少年時代/ウイリッヒ・リューレ著、鈴木皓訳*
*芸術現代社/クラシック音楽エピソード面白全集ーものしり瓢箪/武川寛海著*


なかなか調査が行き届かず不足の点、あるいは間違った点などあるかもしれません。参考となる情報を寄せてください。お手数ですがメールをお送り下さい。

**私達のHPご利用にあたっての注意事項****各ページに掲載の記事・画像の無断転用は御遠慮下さい。 **




ホームへ