天王寺村

 天王寺町の前身である天王寺村は、江戸時代における行政自治体名であって、その歴史はかなり古いようである。
 いつごろから天王寺村と呼ばれるようになったのかは、延宝7年の霊元天皇の時代における検地帳の中に「東成郡闕(かけ)郡天王寺村」という村名が見られることから、恐らく足利時代から徳川時代にかけてだろうと思われる。
 天王寺村も明治40年に至って世帯数約1,522、人口34,900、大正13年には人口58,000となって、まさしく日本一の巨大村となった。当時の大阪市は未来の大都市大阪を目指して、天王寺村を併合。全国的にも知られたこの村も大正14年3月31日をもって解村された。
 解村当時の高松地区の要職(公人)は次の各氏であった。
天王寺村村長・初代区長、武岡充忠(大正14.4.1〜昭和6.5.10)。
第21区長、熊見亀三郎・小池広三郎。
第22区長、置田捨治郎・前田浅次郎。
高松尋常小学校新設委員、置田捨治郎・熊見亀三郎・和田昭三郎・会津徳之助・大島音治郎。
三ツ池普通水利組合役員、樽本正次郎・高見伊之助・佐谷駒二郎・置田捨治郎。
農会委員、栗谷常二郎・平田竹次郎。
帝国在郷軍人会天王寺村分会役員、前田安治郎。