04/18
「正しい」と円錐と2



そもそも正邪や善悪は時代により変わるモノだ。宗教や価値観の変遷はローカライズの歴史であり、常に強い勢力(国家)の影響を受けながら変化している。敷居を踏む、彼岸の時期に引越し等、昔は避けられていた事が普通になるように、決して常に「正しい」が残るわけでも、「正しい」方向に進むわけでもない。もしも過去に食人種が隆盛を誇っていたら現在食人が一般的な風習になっている可能性も十分考えらるのだ。それを考えれば「正しい」と主張することにどれだけの意味があるのか疑問に思えてくる。

と言ってみたところで宗教な人にしてみれば私のような考え方は「間違い」であって、「真理」も「正しい」のも神だ仏だ大聖人(日蓮のことらしい)だ、なのだろうけども、少々暴力的な感想を言えば、それは思考や考察を他人任せにしている様に思える。更に悪い言い方をすれば悩むことを避け安易な道を選んでいるのではないか、と思うことがある。宗教のように絶対的な価値基準がなければ、複数の思想や宗教の考え方から状況に適当だと思えるモノを自分の責任においてローカライズ又はカスタマイズして適用しなければならず、その判断は宗教の威で正当化することのできぬ自分により重い責がかかるモノになる。実際は宗教の人にとっても教義も価値基準の一つにしか過ぎないとは思うけれども、絶対視するものがある性質上、他の思想宗教を受け入れにくい分だけ選択肢は少なくなる。選択肢が多ければ多いほど判断が難しくなることを考えれば強ち的外れじゃないと思うのだが、どうだろうか。

一つの考えに傾倒し絶対視してしまうと縛られてしまい、他の「いい考え」を見逃し更に上に行けなくなってしまう。だからと言ってころころと宗旨変えしたらコメディだけれども、その場その日で「意見」が変わってもいいんじゃないだろうか。単にいい加減なだけなのとは違い、時間が経過して視点が増えた結果ならばどうだろうか。神や聖人ならざるフツーの人間には事象はいつだって2次元で極一部しかわからない。それでもなお全体を見ようと思ったら前後左右天地無用彼方此方方向問わず見る以外に手が無いのだ。

ついでに彼方此方をかなたこなたと読んだ人、アウトですぅ。



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