02/23
「正しい」と円錐と



高校数学で聞いた人もいるだろう、円錐は切断する位置と角度を変えていけば点、直線、三角形、円、楕円、双曲線、放物線が得られ、投影図を見れば円、三角形、アイス型(コーンに半球状のアイスが乗ったもの)と、その単純な形状とは裏腹に様々な図形が潜んでいる非常に面白い物体である。
断面の式は空間図形の知識が、投影図は三角関数と一次変換の知識があれば簡単に計算できるので、興味のある人は一般式を出してみよう。



私という人間をパンに例えると、幾重にも重ねられた生地がおもいっきり捩れていてしかも歪みねじ曲がり、表面はボコボコで更にフランスパンの如くカチンカチンで、一口かじるだけで口内に切り傷てんこ盛りになるという、それはそれはえげつないパンである。それ故にその筋の人には「私が救ってあげなければ」と思わせる、許すべからざる存在であるらしい。それ故に宗教系の知り合いは(ほとんど創価学会)、私がそれまで被っていた猫を脱いだ途端に勧誘の嵐を起こし、私が大人げなくくそ味噌に言うものだから、基本的にテンポラリな付き合いということもあって失意とともに離れていく。
どちらにとっても不毛で不幸なことだ。突き詰めれば彼等と私の間には、たった2つの違い、すなわち、絶対の正義が存在するか否か、宗教を是とするか否か。たったそれだけのために相容れない。
彼等は言う、我々は正しい、と。私は言う、ずいぶん薄っぺらい正義だね、と。
創価学会の連中などは「他の仏教は発展途上の未熟な仏教であり、法華経が仏教の完成形だ。」などと言っておきながら(ほざきながら、と言いたいくらいだ)「勉強不足だから」と、その理由を答えられた人間はいない。キリスト教徒に、基本的に同じ神を信仰するイスラム教との具体的な違いを聞いたところで答えられる人間はいない。
結局彼等の「正しい」とはその程度のものだ。人から教えられ与えられた、言わば借り物の基準のみで物事を判断しているが故に、彼等の論理は一方的でリアリティのない非常に空虚なものに思えてくる。

そこで私は彼等に円錐の話をする。
視点や光点、切断位置や角度を変えていけば微妙に違う形状が無限に得られるが、それが宗派や宗教の違いに相当するのではないか。円錐のような単純な物体なら、円錐と知らされていれば投影図にしろ断面にしろ一般式に現せるが、一般式のみで元の図形を判別しろと言われたら、果たしてそれが円錐だとわかるだろうか。まして現実は円錐の如き単純な形状ではない。ほんの少し切断位置を変えるだけで、視点を変えるだけで随分違う形状になることの方が遥かに多い。
このモデルだと結局本質的に正義はひとつになりそうだが、決してそう言っているわけではない。大きさが違ってもひとつの投影図として断面として見れば同じものができるかもしれないのだから(ほんとかな?)。

重複するが、彼等が言うところの「正しい」とは視点/断面のひとつに過ぎないと私は考えている。そして仮に複数の視点で物事を見たとしても決して無限の視点を持っているわけではなく、それ故に仮に物事の全容を、特に正邪等は類推することはできても果たして断言できるだろうか。

続く



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