06/14
お姉さんの笑み



今、私は目隠しされている。体は背もたれを倒した椅子に座らされている。しかも首筋には刃物がある。当たり前といえば当たり前の状況だ。なぜならここは散髪屋。店内は少し狭いが明るく、2人のおじさんと1人の女性で営業しているらしい。ごく普通の散髪屋である。
しかし私はかつてないほど恐怖を感じている。はっきり言って並の恐怖ではない。七転八倒するほどでは表しきれぬ、かつて経験したことのない恐怖である。12メートルの高さからダイブしたときよりもかなり恐ろしい。まして清水の舞台から飛び降りるような仮想的な恐怖とは比べ物にならないほど恐ろしい現実的な恐怖である。
なぜなら私は見てしまった。鏡越しにではあるが、恍惚とした顔で剃刀を見る様を。私をニヤリと見遣っるお姉さんの姿を。
私は動転した。思わず逃げ出したくなるほど動転した。私はこれからどのような行動を取るべきか思案した。顔剃り無しでも料金は同じ。金を払わず一目散にとんずらする手もある。他に手はないだろうか。考えているうちにお姉さんが準備を終えたらしく、あいかわらず恍惚とした笑みを浮かべにじり寄ってくる。普段であれば「にこやか」に見えるだろう。しかし先の姿を見ているだけに私を利用し悦楽の世界に身を委ねるようと企んでいるとしか思えない。
再び動転した私があわてている間にお姉さんは剃刀を皮膚に当て剃り始めた。てきぱきと手を動かし凄い勢いで終わらせていく手際と剃刀さばきはすばらしいの一言につきる。しかし顔にはあいかわらず恍惚とした笑みを浮かべながら剃刀を勢いよくザーッっと動かである。お願いだ、頼むからその笑みをやめてくれ。時間がかかってもかまわないからもっと落ちついてくれ。いつ喉をかき切られるかわからない恐怖はまるでロシアンルーレットではないか。
私がどれだけ心中で叫ぼうとお姉さんは止まらない。お姉さんは私を思うがままなすがまま操りながら手際よく作業を進めていく。欲望の赴くまま進めていく。
終わった頃にはお姉さんは満足げな顔でにんまりしている。私は疲れ果てげんなりした顔をしていたが、お姉さんはこうのたまう。「だいぶお疲れのようですね。」誰のせいだと思っているのだろう。古本や巡りのついでにたまたま入った散髪屋でこんな思いをするとは誰が想像するだろうか。後悔に苛まれながら店を後にする私は二度とこの店には入るまいと誓うのであった。
既にその店の場所を忘れたので再び入る可能性は高いかもしれんが。



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