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普段は明け方に書くけれども、めずらしく日が変わる前、21時前に書いている。ついでに、今の俺にはこの時間は普通の人の0時と言っていい。結構眠いので何を書くかわからない。まぁ、あとで見たとき恥ずかしくなってちょこちょこ書き直すんだろうけど。

ようやく「アルジャーノンに花束を」を読み終えた。今月半ばに古本屋でみかけたときゆこさんのページの紹介文が印象的だったのを思い出して買ってみた。珍しく一度も読んでないのに。普段は立ち読みなり図書館で読むなりして、一回は目を通さないと買わないのだ。ふふんっ!(ナニヲイッテルンダオレハ・・・) ついでに言うと読んだ直後に何か書くのはもっと珍しい、というか、今まで「SO WHAT?」を読んだときくらいしかないのでかなり当たりかも。自信を持って人に進められる本かも。

読み終えた感想。結末は予想通りで「むぅ」というところか。推理小説と一緒にしているあたり我ながら度し難いと思うがしかし、、、長かった。文章はそれ程長いわけではないけれども、やっぱし長かった。電車の中で飛び飛びに読んでた(と言っても後半は幕張の行き帰りに一気に読んだけれど)のもあるけれど、いろいろ考えてたからかもしれない。内容についてはここのリンクページである「飛んで飛んで飛んで飛んで飛んで飛んで飛んで飛んで飛んで飛んで飛んで(以下略)」から「ゆこのなんでもノート」の本棚からナイスな紹介文を読んでいただきたい。俺もお蔵入りにした本棚を復活させよかな。まぁ、ろくでもない文章だけど。

閑話休題というか話変って

この本を読んでいる間中、「知ること」「認識すること」は良いのか悪いのか、このことばかり考える。もちろん認識する、知ることで良いこともあるし、悪いこともあるのは当たり前だけれどなかなか難しいものがあるように思いませんか?
例えば自分が明日突然死を迎え、回避できないと知ったらどうだろうか。知っていれば遣り残したことができるかもしれないけど、近い将来確実に来る死っちゅうのは、死刑囚の談話を読む限りかなり恐ろしいものらしい。反対に明日死ぬことを知らなければ遣り残したことはあるかもしれないけど、死はごくごく短い間だろう。あなたはどちらを選びますか? ん? 中間があるな、「いつ死んでも良いように遣り残したことはないようにする」これだ。うん。

老子では美や善、その他諸々の観念を持つことや知識を得ることは差別を生み出すとして、わりとネガティブにかかれている。と思う。荘子はどうだったか覚えてない。ほんとは荘子の方が好きなんだけど老子の方が解釈が難しいから何度も読んで覚えたのだ。えっへんっ・・・何度も何度もオレハナニヲイッテルンダ・・・。論語やその他学派では、逆に知識、認識は大事だとされている。う〜む、難しいのぉ・・・。今は二元論で考えてるけれども、多元で考えて行くともっと難しい。俺自身はどんなことでも、どんな結果でも知りたいと思っているけれど、上のような例ではけっこう悩むものがある。難しいのぉ。ちなみに老子では知ること、認識することに対してはわりとネガティブに書かれている。

あ、こんなときは知ってしまったことがいやだったなぁ。
ゴキブリが自分の歯ブラシにそれも、ブラシ部分に乗っかってたのを見たとしよう。見てしまった場合は当然ながら二度と使う気にはなりませんよね。少なくとも俺は触る気にもならず未だに放置している。ちとまずい。しかし、知らなかったらどうだろうか。使ったとしても所詮ゴキブリが乗っかってただけである。それを口に入れたところで死ぬわけでなければ病気になるわけでもない。知らなければ普通に握って普通に口に突っ込んで普通にわしゃわしゃ動かすだけなのだ。この場合、ゴキブリが乗っかったことを知ったこと、ゴキブリをゴキブリだと認識したことが心の平穏と財布の平穏を壊す。
なんか話が変な方向に進んでしまった。もとい。人間関係で相手の心の機微に気付かないときは相手を傷つけることもある。こういうときは気付かないことはあまり良くないことである。まぁ、場合によりけりだと言われればそれまでだが、ゴキブリのことはともかく人間関係では、その「場合」の判断が適切でなければやはり相手もしくは自分が涙することになるのだ。うん、堂々巡りだのぉ。経験を積み重ねて、できるだけ判断ミスを少なくできるように悩んで努力するしかないのだろうか。


なんか話がわけわかめになってしまった。この辺でやめよう。


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