11/09


もうひとつ、「尊敬している人が入信しているから」という、極めて阿呆な理由で入信した人に付いて言っておこう。某S価学会ではこの理由で入信する人が多いらしいが、他の団体もそうなのだろうか。先にも書いたが、かのロベルト・バッジョ(イタリアのサッカー選手)もそうであるらしい。全く「何を考えているのやら」。彼らは自分で考えずに人に判断を委ねたわけだ。尊敬している人だから間違い無いと思う(思った)らしいが、その場合は尊敬=信頼ではなく信仰になっているのではないだろうか。これは私が人を信用しないからかもしれない。
判断を委ねるのは入信後も同じであり、教団から与えられた教義、情報を疑い無く受け入れるのは先に述べた通りである。これも「信仰」とである所以と言われればそれまでだが(笑)。

〜ちょっと一服〜
キリスト教/ユダヤ教では「神を疑う莫れ」と明言している。仏教で唱えるのは「御経」であり、某S価学会で唱える題目は「南無妙法蓮華経」、イスラム教であれば「コーラン」である。決して「眠い!」と連呼してはいけない。「無為自然」「万物斉同」も不許可だ。
倭の人は八百万の神を、太陽や山や竃など全てのものを敬い、仏教が入ってくれば、キリスト教が入ってくればその都合の良いところを柔軟に取り入れてきた。その結果、盆暮れ正月冠婚葬祭で宗教をころころ変え、無宗教だとか宗教に寛容であると言われる。しかし、おかげで我々は宗教と言う枷を填められることなく、且つ(完全では無いものの)仏教、神道、キリスト教と言う3つの異なる宗教の見地から物事を見ることができるのだ。それなのにわざわざ自ら枷を填める必要はあるまい。


中庸が良いと言うように宗教も程々が良い。程々であれば冷静でいられる。公平でいられる。これがベストでもワーストでもなく、最上のベターなのではないだろうか。

Fin


10/13からの文章も手直ししてたら23時を過ぎて昨晩(11/09)はFTPできなかったので月曜アップです。 風邪でサボったのも含めると5週も使ったのに強引な締めにならない締めで終わってしまった(笑)



無為自然:老子にでてくる言葉。作為無く自らは何もしないが自ずと為されるの意
万物斉同:荘子にでてくる言葉。遥か遠くから見れば全ては同じに見えるの意


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