
「ブラッディー・マリー」
人よりもゴキブリのほうが多そうな腐りかけたビル、その地下にバーはあった。
ひどい店はいくつも見てきたが、ここまでひどい所はそうそうない。哀は何を考えてここを待ち合わせ場所に指定したのか、疑問が頭をもたげる。
マスターに「ビール」と言って、おれはカウンターの一番奥に腰掛けた。
しばらくすると、店の扉が開いた。哀かと思ったが、そうではなかった。店内に足を踏み入れた男はキョロキョロと辺りを見回し、「あっ」と声を上げて近寄って来た。
「どうしたんですか、せ、先生がこんな所にいるなんて?」
男に見覚えはない。だが、見当はつく。患者の一人だ。
「ぼくですよ。ほ、ほら、肝臓の移植してもらった」
移植という言葉でようやく思い出すことができた。”あほの甥”だ。金持ちのおじさんを持つこの男は、いくらでも金を出してくれるいい患者だった。しかし、あほの甥は一年前に手術をしてから、姿を現さなくなっていた。おれはずいぶんと心配した。手術でぼったくった分でおじさんの金も打ち止めになったんじゃないかと。
「座れよ。ずいぶんと顔色が悪いぞ」
「ええ。ど、どうも調子が悪くって」
あほの甥は恥ずかしそうに顔を伏せて言った。昔から極度の上がり症なのだ。
「よかったら、また薬の都合をつけてやろうか?」
同じセリフを何度もこいつに耳打ちしたことがある。そして、薬を渡すときに笑いをこらえて言う。
「これはまだ認可されてない薬なんだ。マレーシアと中国を経由して取り寄せたから、少々高く付いたが、なに命には代えられないからね」
もちろん、渡すのはラベルをはいだ市販薬だ。あほの甥が信じている不治の病はそれで治るのだから、百万や二百万など安いものだっただろう。
しかし、今回はそう簡単にはいかないらしい。あほの甥は言った。
「い、いつも先生に頼ってばかりじゃいけないから、じ、自分で治してみたんです」
「自分で?」
「ぼくは……」
ビールをおれの前に置き、マスターは新しい客に無言で注文を促していた。
「ブ、ブラッディー・マリーありますか?」
皮肉なものだとおれは内心苦笑した。こいつの肝臓の元の持ち主もブラッディー・マリーが好きだった。
マスターはカウンターの奥へと引っ込んだ。
「ど、どこまで話ましたっけ?」
「自分で治したというところまでだ」
「そう、そうです。ぼくは手術をしてから調子がよくなかったんです」
こいつとドナーとは、ほとんど抗原が一致していなかった。それを無理矢理、免疫抑制剤で押さえつけたのだから、調子が悪いのは当然だった。むしろ、今でも元気なのが不思議なくらいだ。
「なにか体の中に違和感があったんです。ぼくはきっと新しい肝臓のせいだと思ったんだけど、せ、先生には移植のことは口にするなと怒られて、い、いたから、それで、ぼくは自分で調べたんです」
どうやら、口止めしたことが裏目に出たようだ。しかし、それは仕方のないことだった。移植は非合法なものだったのだから。
「しゅ、手術をした他の先生が教えてくれました。こ、この肝臓は先生の病院で脳死した人の物だって」
植草か。直感的にわかった。手術に携わった人間は他にもいたが、金に目がくらんで後先考えずにしゃべるのはやつだけだ。手術後、姿を消したところをみると、やつめすべてを話したに違いない。おれの考えは、あほの甥の次の言葉で証明された。
「の、脳梗塞だったそうですね。せ、先生の弟さんが脳死したのは」
「それがどうした? 余った体を有効に使わせてもらっただけだ。その肝臓がいやなら、持ち主の墓にでも戻して来たらどうだ」
あほの甥は真っ青になって手を振った。
「お、怒らないでください。ぼ、ぼくはこの肝臓を前に使ってた人が、ど、どんな人か興味があったんです」
ムキになるとはおれらしくなかった。おれは知らなくてはならない。こいつがどこまで知っているか。
おれは時計を確認した。哀との待ち合わせ時間はとっくに過ぎている。しかし、今日だけは遅刻も歓迎だ。
「それで、調べて何がわかった?」
「は、はい。せ、先生の弟さん――京介さんは、ず、ずいぶんと恐い人だったみたいですね」
あほの甥は逮捕歴でも調べたのだろう。だが、そんなもので京介の本当の恐ろしさがわかるはずもない。
まだ、あいつと同じ家に住んでいた頃、京介の車に悪さをした男がいた。おれ達がガレージの中に入ってきても、男は車の中に頭を突っ込んだまま気づきもしなかった。
京介は顔色ひとつ変えずに、男を車から引きずり出した。そして、男に逃げる間も許しを請う機会も与えず、枯れ木でも折るように男の関節を逆に曲げた。
悲鳴を上げ、地面に転がるこそ泥の手から千円札が数枚落ちた。男を見下ろす京介の顔は、実験動物が死に行く様を観察する学者のそれだった。
「高く付いちまったな」
京介はそう言って、もう片方の腕も折った。
「で、でも、ぼくは京介さんの写真を見てわかったんです。『ああ、これがぼくなんだ』って」
「なんだって?」
あほの甥が何を言い出したかわからず、反射的に聞き返していた。
タイミング悪く、マスターがブラッディー・マリーを持ってくる。
「あ、ど、どうも」
ブラッディー・マリーを一口飲むと、あほの甥の目つきが少しおかしくなった。いや、おかしくなったのは目つきだけではない。
「ぼくは京介だったんですよ。だ、だから、調子が悪かったんです。だって、そうでしょ。ぼくには、体の中には、肝臓しかないんだから。ほかはみんなゴミみたいなものなんだ。気持ちが悪いはずだよ。ぼ、ぼくはどうしても我慢できなくて、元の臓器を集めた。せ、先生がどこの誰に売ったか、し、調べて」
驚きは一瞬だった。すぐに分裂病という単語が頭をよぎった。前から兆候はあっただろうか。いや、あったとしても気付いていないだろう。おれは精神科医でもなければ、患者を気遣うタイプでもない。まして、相手があほの甥ではからかうので手一杯だ。
「それで、京介の臓器は集まったのか?」
「集まりましたよ」
うれしそうにあほの甥は返事をした。
「すべてね」
そう言って、服をめくった。生々しい手術跡がいくつも姿を現す。おれがもう少し酔っていたら、笑い飛ばしていたかもしれない。だが、今のおれは、その手術跡が正確に肺・腎臓・膵臓・心臓を移植するためのものだと判断できた。傷はそれぞれ古さが違い、ひとつひとつ順番に入れ替えていったのがわかる。
この非合法な手術を行うのに、どれだけの金と執念がつぎ込まれたか考えると寒気が走った。おれは、さらに重大な事実に気が付いた。やつはこの手術をするために、少なくとも四人の命を奪っている。ただ、京介の臓器を集めたいがために。
「そんなに驚かないでくださいよ。ぼくが執念深いことは知ってるでしょ?」
京介に成りきってるのだと、わかっているはずなのに「まさか」という疑念が頭をかすめる。しかし、そんなはずはなかった。京介の体からすべての臓器を取り出したのはこのおれだ。まだ温かさの残る心臓を取り出したとき、手袋を伝って血が流れ落ちたことさえ覚えている。それでも、なお不条理な疑念は消えなかった。
「どこに行くんですか?」
無意識のうちにおれは腰を上げていた。そのまま、店を飛びだそうかと思ったとき、男の手に握られているナイフが視界に入った。
「トイレだ」
おれは平静を装ってトイレへ向かった。出口と逆方向だからだろう。男は襲ってくるような素振りは見せなかった。
掃き溜めのような個室に入り、おれは息を吐いた。びっしょりと汗が体を濡らしているのがわかる。蛇口をひねり、錆びた臭いのする水を顔にかけると急速に頭が回転を始めた。
男は分裂病だ。それも重度の妄想型だ。思い出せ、妄想型の特徴はなんだ。そう、被害的なものが多いことだ。被害的な妄想はときに、相手に対して攻撃的になる。やつが暴れるのは勝手だ。しかし、その場におれがいることはない。
おれは店内の様子を頭に描いた。ここは地下だ。出口はひとつしかない。男に追いつかれずに扉までたどり着けるだろうか。おそらく大丈夫だろう。しかし、扉を開ける前に背中をズドンだ。
ふいに哀のことを思い出した。携帯電話は当然圏外だったが、彼女がここに来るのはわかっている。
おれはひとつの可能性を思いつき、上着のポケットを探った。幸運にもボールペンがひとつ紛れ込んでいた。財布から取り出した一万円札の裏に大きく走り書きして、慎重に裏表を確認してからポケットにしまった。
「懐かしいやつにあったんだ。悪いけど、先に帰ってくれ」
そう言って、タクシー代を渡す。あとは、哀がメッセージに気付いて警察に連絡してくれるのを祈るだけだ。
おれは時計を確認した。待ち合わせ時間を三十分過ぎている。あいつが遅刻の新記録を狙っていなければ、十分以内にここに来るはずだ。
おれはトイレを出て、まっすぐ男の隣へ腰を下ろした。何もなかったようにビールをあおる。男はまだカウンターの下でナイフを握りしめていた。
「おれは、京介に恨まれるようなことはしてないつもりだがな」
男はくっくっと笑った。
「兄さんは、いろいろ盗っていったろ」
兄さんときたか。京介に成りきるならそれもいいだろう。よく思い出せ。京介は相手を痛めつけながらゆっくり殺すんだ。けして、すぐに殺したりしない。
「臓器なら返しただろ」
「違うな。おれが自分で、取り返したんだ。肝臓以外は全部な」
沈黙が続いた。ふいに張り詰めた心へ眠気が襲った。
男がグラスを傾けた隙におれは時計に目をやった。哀の顔が浮かぶ。あの高慢な顔を力一杯引っぱたけばどんなに気持ちがいいだろう。新記録、達成だ。
「待っても無駄だよ」
「なんの、ことだ?」
舌がうまく回っていないのが自分でわかる。動揺のためだけではない。体全体が錆びたように重かった。男は見下すように言った。
「おれが、偶然ここに立ち寄ったとでも?」
哀に裏切られたのだとすぐにはわからなかった。男は全部取り返したと言った。それには当然、哀のことも含まれていたのだ。そう、哀は京介の女だった。おれは、京介を葬ることであいつを手に入れた。しかし、今は自分が京介だと思いこんでいる狂人にすべてを奪われようとしている。
思考を現実につなぎ止めることが難しくなっていた。気付くのが遅すぎた。薬だ。トイレに入ったとき、あの隙にビールに入れやがった。
男が傾けているブラッディー・マリーが血の色に見えた。血の合間から見える氷はさしずめ、白い組織といったところか。血も組織も、徐々にぼやけて混ざり合った。
景色が急速に色を失い、男の声だけがどこか遠くから響いた。
「高く付いちまったな、兄貴」
>>>あとがき
![]() |
![]() |
| To Menu | To Top |