現行憲法の成立過程について
憲法改正の要点について順に書くのが、自然な流れだとは思いますが、いわゆる「改憲派」の中に「現行憲法は押しつけ憲法だから改正すべきだ」という敗戦のトラウマから自由になれない哀れな人たちがいくらかいて、この人たちの中には自分の主張を強調するために事実をねじ曲げて伝えるアンフェアな態度さえ見られます。
わたしは、前項「憲法改正のすすめ−憲法見直しの基本的考え方−」にも書いたように、現行憲法の改正が必要だとする意見ですが、「押しつけ憲法だから改正すべきだ」という考え方ではありません。むしろ、「押しつけ憲法を理由とする改憲論」は改正の要点を見失わせる誤った考え方だと考えています。まして、押しつけを印象づけるために、事実を歪曲するなど、もってのほかだと思います。
ここでは、まず一部に流布しているらしい(?)「素朴にして、事実を無視した改憲論者」の妄説(サンプルはここ−>いまは削除)を正すことからはじめましょう。なぜなら、そういう歪曲された事実をベースにして憲法問題を考えはじめると、大切な論議が道を踏み外すかも知れないと考えるからです。
現行憲法の原案がGHQによって作成されたものであることは、現在ではほとんどすべての人が知っていることでしょう。しかし、GHQが原案として作成したものが、まったくそのまま憲法になったわけではありません。「押しつけ改憲派」の多くが好んであげる第9条を例に、憲法の成立過程をトレースしてみましょう。
注)Aの全文は日本訳つきで、ここで見られます。
他の条項についても、比較対照なさりたい場合は、どうぞ。
概略を説明しましょう。(以下に説明することを少し詳しく、なおかつ、非常に手際よくまとめたものが、ここにあります。参照をおすすめします)
日本が受諾したポツダム宣言(ここで全文を見ることができます)には、
などが書かれていました。
したがって、法体系の中でこれらを保証するために憲法を改正すべきことは、論理的に考えれば自明のことでした。しかし、最悪の状況を迎えない限り「弥縫策でOK」と考えるのが今も昔も変わらぬ日本政府の体質なのでしょうか、改正の検討はスローモー、その内容も帝国憲法のパッチワークというお粗末きわまりないものでした。そのお粗末な改正案が、1946年2月1日付の毎日新聞に特ダネとして報道されてしまいます。
驚きかつ落胆したのは国民(当時の状況からすると限られた人々というべきでしょうか)とGHQでした。GHQ、特にマッカーサーにとっては、それは「落胆」だけですむ話ではなかったのでした。というのは、その前年(1945年)末に設置が決定した極東委員会(FECと略される:第1回委員会開催が1946年2月26日)がGHQをコントロールする上位機関になり、マッカーサーはその決定に従うことになったばかりだったからです。
大雑把にまとめると、マッカーサーはそのとき既に天皇を戦犯から外し天皇を利用する形で占領政策を遂行する構想であったようです。一方、FECのメンバーには天皇の戦犯指名を求めるソ連、オーストラリア、ニュージーランド、フィリピンなどの国々が入ることになっていました。というわけで、FECの第1回委員会が開催される前に、彼らが受け入れやすい民主的な憲法が日本政府から自主的に提示されているという状況こそ、マッカーサーが望むものだったのです。ところが、日本政府が準備していた改正案は、天皇制の維持に腐心するばかりで、下手をするとFECの強権発動を引き出しかねないほど非民主的な内容だった・・・。
マッカーサー、GHQが、「もう待ってはいられない、これがアクセプトできるレベルの憲法案だというものを突きつけなくては、保守的な日本政府の石頭どもは目を覚まさないのではないか」という危惧からまとめさせたものが、AのGHQ案です。英語が苦手な人にでもすぐに分かる現行憲法との違いは、第9条「戦争放棄」条項が、この原案では、第8条になっていることです。(Aの第3条が、Bの段階で第3条と第4条に分けられたため)
Bは、日本政府が(自主的に)作成した憲法の改正要綱という位置づけのものです。一般的には、Aをそのまま和訳したものというように考えられていますが、細かな部分に当時の法制局官僚の苦心が読み取れるものです。(具体的なことは、古関彰一「新憲法の誕生」の「Y 日本化への苦闘」などを参照されたし、多少感動的なシーンあり)
Cは、Bをもとに日本政府とGHQの間でさらに詳細を詰め、最終的に帝国議会の審議にかけられた政府原案です。国民が憲法改正案の全条文を知らされたのは、この段階からです。この憲法改正案は、このときまで法律といえばカタカナ文語体と決まっていた(民法・刑法などを想起されたし)ものが、ひらがな口語体が採用され、国民にある種の親近感を与えたといいます。
この政府原案は、その公表の直前に実施された選挙(戦後はじめてかつ婦人参政権成立後はじめてのもの、したがって、憲法案の審議には初当選した女性議員も加わった)により選出された議員による衆議院審議にかけられました。
Dは、衆議院の委員会審議において修正された部分のひとつです。第9条の修正は「芦田修正」と呼ばれるもので、およそ制憲過程について調べたことのある人ならば、誰でも知っているものです。段落をつなぐ箇所の「前項の目的を達するため」という文言の挿入、これがポイントです。
Eはご存じの現行憲法条文、Fはその英訳版です。A〜Fは、時間順に並んでいます。
衆議院可決後、貴族院審議を経て、憲法は成立したわけですが、口語化などの形式的な修正を除く実質的修正項目数は、
AからBになるまで・・・・・・・・・22項目
B以後Eに至るまで・・・・・・・・・16項目
でした。(田中英夫「憲法制定過程覚え書」に収められた「附 総司令部案から日本国憲法にいたるまでの条文の変遷」による)
繰り返すことになりますが、GHQが日本政府に手渡した憲法改正案がそのまま和訳されて現在の憲法になったなどということはありません。
GHQ案は、いくつかのフィルターを通り、それなりの修正を受けて、現行憲法になりました。
押しつけ憲法論者の書いたものに、現行憲法はGHQの憲法案をそのまま直訳したものだとか、はなはだしいものに至っては、Fが先にあって、これを和訳してEができたなどという、あいた口がふさがらないほどひどい事実誤認を吹聴している人もいます(サンプルはここ−>いまは削除)が、それは憲法の成立過程について何も知らない無知の人か、知っていながら自説のためにウソを承知で押し通そうとしている無恥(はじしらず)の人です。
ここまでお読みになって、わたしが些細なことにこだわっているように感じられる方もおいでかもしれません。
しかし、CとDの間には、かなり大きな違いがあるのです。
戦争放棄を例にとりましょう。ひとくちにいうと、「芦田修正」、つまり、「前項の目的を達するため」という言葉の挿入により、自衛のための戦力の保持は留保していると解釈する可能性が生まれたのです。この修正はそののちの貴族院審議における、第66条の「文民規定」の挿入修正につながります。これは、芦田均に明確な狙いがあったかどうかということとあわせて、非常に興味のあるところなのですが、ここでは踏み込みません。(とりあえず参考文献を上げておきます)
強調しておきたいことは、AからEの間には我が国のアイデンティティをそれなりに確保しようと務めた関係者の努力のあとが認められるということです。そういう視点に立つと、「Fを和訳してEができた、現行憲法は押しつけだ、だから改正すべきだ」などという主張は、憲法改正のポイントをとんでもないところにもって行く、三流の政治的デマゴギーそのものです。
事実を歪曲したり、捏造する人々の主張と意見は、間違ったものであることが多いというのが、わたしの経験です。それはある意味で当然でしょう。なぜなら、正しい主張と意見は、歪曲、捏造した事実などで人をだまさなくても、本来、十分に説得的なもののはずですから。
参考文献