沖縄戦における第32軍の「守備隊」が「守備」したのは島民などではない。

 沖縄戦の実態について、系統的な読書はしていません。ここでは、比較的手軽に、その概略を知ることができる本として、田中伸尚「ドキュメント 昭和天皇5」(緑風出版 1988)の一部を紹介します。
 なお、梅沢裕が「守備」していた座間味島は慶良間諸島の中の一つの島です。

************(括弧内は著者田中伸尚の記述、太字は引用者)************

 このように慶良問の日本軍は、その構成を見れば分かる通り、あくまでも特攻のための部隊で島の人びとを守るために配備されたのではなかった。たまたま慶良問諸島が特攻基地として適地であったから、その地を利用したにすぎないのである。しかも特攻は出撃と同時に消滅するわけで、慶良問の部隊には地上戦を想定した火器類はほとんどなく、まともな戦闘訓練さえしていなかった。

 ところが慶良問の人びとは陸軍部隊の配備によって戦争が身近に迫りつつあることを肌で感じる一方、「友軍はこんな小さな島まで守ってくれる」と感謝していた。住民は日本軍を「友軍」と呼び、絶大な信頼を寄せ、住家や労力を惜しみなく提供し、食糧の供出に進んで協力した。軍の命令や指示は「天皇の意」と理解していたから、たいていの要求、注文に積極的に応じた。この「天皇の軍隊」に対する親しみや絶大な信頼感は、慶良問の人たちの特殊な感情ではなく、当時の沖縄県民に共通していた。そこには献身することによって「ヤマト」からの長い差別と抑圧から脱却したいという屈折した、しかし必死の思いも込められていた。

 だが海上挺進戦隊の任務は、前述したように住民保護のために戦うことではなく、特攻作戦の準備、実施、成功だけだった。もちろん住民の生命や財産の保護を天から考慮しないのは、特攻基地という慶良問の特殊事情からきていたのではなく、外征用、つまり侵略のために建軍された「天皇の軍隊」の特色であった。軍人勅諭通り、天皇の手足となって天皇を守るためにのみ命を投げ出すのが「天皇の軍隊」であったからである。沖縄戦ではこの特徴がさまざまな場面でむき出しになった。

 第三十二軍の参謀長、長勇(ちょう いさむ)は県紙の「沖縄新報」(沖縄日報、琉球新報、沖縄朝日の三紙の統合紙)紙上で沖縄戦の開始前から「一般県民が餓死するから食糧をくれといったって、軍は、これに応ずるわけにはいかぬ。軍は、戦争に勝つ重大な任務の遂行こそが使命であって、県民の生活を救うがために、負けることは許さるべきものではない」と強調したが、これも「天皇の軍隊」の特徴を端的に示していよう。

 また県内での疎開についても住民の安全をほとんど顧みない軍の姿勢が浮き彫りにされた。たとえば主戦場からいくらか遠くなる、と予想された本島北部への疎開の輸送手段は県営鉄道だったが、鉄道は軍が管理しており、疎開に使用させなかった。このため住民は「徒歩によるしかなかった」のである。こうして多くの県民が主戦場に置き去りにされたままになった。

 慶良問では、特攻基地づくりに島民を協力させたために、秘密が漏れるとして島外への疎開は許されなかった。米軍は沖縄の住民保護のために数千人の軍政要員を配置したり「住民用の食糧や医薬品まで、わざわざ別途に用意」し、運び込んでいる。実際に米軍の食糧によって餓死から救われた住民も多数いた。もちろん米軍が民間人対策をした最大の理由は、戦後の沖縄占領を前提にし、政治的な効果を考慮していたからだが、「天皇の軍隊」が侵略地の住民保護のために要員や物資を用意したことはなかった。

 沖縄の「天皇の軍隊」は、当初から住民を別の角度から捉えていた。戦力化することである。「一木一草」を戦力にして戦うことを目ざし、その通り実行した。子どもであろうと年寄りであろうと、また女性であっても、体を動かすことのできるすべての県民を防衛隊、学徒隊、義勇隊、救護班として組織し、さらにスパイ監視班などに動員し、土地や住家を徴発し、食糧を供出させ、あらゆる生活用具を動員させ、戦力化した。文字通りの国家総動員であった。

 慶良問諸島でも「一木一草」の戦力化が図られはしたが、挺進戦隊は地上戦闘用の部隊ではなかったから、住民に支給するような武器はない。竹槍やカマ、クワなどを住民に用意させるしかなかった。阿嘉島で青年義勇隊にさせられた当時一五歳の中村仁勇は『沖縄県史』の中で証言している。

 「私らには銃はくれませんでした。手榴弾二個とカツオ節一本と乾メン包二袋ずつ渡されて、合言葉を教えられました。『一人』と呼ぶと『十殺』とこたえるわけです。この合言葉は部落民にも徹底して教えられました」

 虎の子の特攻艇を喪失し、地上戦の武器も十分でなかった慶良問諸島の戦闘は、あっけなかったが、それでも26日から31日までの6日間で530人が戦死し、121人が捕虜となり、1195人の住民が保護されたと米陸軍省の戦史は記録している。がこの数字の中に含まれていない死者がいる。

 それは事実上、戦いが招いた渡嘉敷、座間味、慶留間、屋嘉比の四島で起こったいわゆる集団「自決」である。「自決」による四島の死亡者数は、いまもって正確には分かっていない。その一つの理由は、「自決」が家族や一族同士で行なわれたために、生き残った人たちの中には自ら手をかけて子や兄弟や親を死なせてしまったという取り返しのつかない悔いを持ち続けている人が多いからだ。「自決については絶対に喋りたくない。思い出したくもない」という人はいまも少なくない。

 それでも浩瀚な『沖縄県史』はじめ多くの証言記録をつき合わせて調べると、渡嘉敷島では300名以上、座間味島で180名弱、慶留間島では53名、屋嘉比島で10名、合わせて少なくとも540名以上が「自決」によって死亡したと思われる。

 もちろんこれは死んでしまった人たちで、「自決」に加わった人たちはこれよりもっと多い。失敗して運よく助かった(多くは米軍の手当てを受けた)人やあまりの凄惨さに怖くなって逃げた人もいるからだ。さらに阿嘉島のように心理的には「自決」寸前にまでいっていたが、降伏によってまさに間一髪で食い止められたところもある。「自決」は死者が出ていないところでも追いつめられた住民に共通した選択″であり、その背景をさぐっていくと「自決」による死者は、紛れもなく戦死者だったことが分かる。「自決」には手榴弾、クワ、ナタ、小刀、カミソリ(座間味)、縄(慶留間)、ネコイラズ(座間味)、木などありとあらゆるものが使われた。本島南端の糸満市にある県立平和祈念資料館にはこれらの「自決」道具が展示されている。四十余年前におびただしい血を吸ったであろう錆びきった道具″を見ていると、凄惨だったにちがいない「自決」の情景を思い描き、身が縮む。

 人口わずか100人そこそこの慶良間島ではほぼ全員が「自決」に加わり半数以上が死亡した。生き残った人たちは、当時は死ねなかったことを悔やみ、そして戦後も原罪を背負っているかのごとく苦しみ続けた。たとえばそのうちの一人、大城昌子の証言をみよう。

 「三日間の空襲が続き26日早朝になって部落民の一人が米軍の上陸を知らせてきました。それからというもの、全員騒然となり、できるだけ山奥へ、家族をつれて逃げられるだけ逃げようと赤ん坊をおぶり、幼児の手をひき、山をはいずりながら、みんな懸命に走り出しました。……あの大多数の米軍にたちむかっていったって勝てるはずがありません。部落民が最終手段として考えついた事は玉砕でした。

 前々から、阿嘉島駐屯の野田隊長(野田義彦=中佐=率いる海上挺進第二戦隊は阿嘉、慶留間の両島に特攻基地を設けていた)から、いざとなった時には玉砕するよう命令があったと聞いていましたが、その頃の部落民にはそのような事は関係ありません。ただ、家族が顔を見合わせて早く死ななければ、とあせりの色を見せるだけで、考えることといえば、天皇陛下の事と死ぬ手段だけでした。命令なんてものは問題ではなかったわけです。

 米軍の上陸後二時間程経った午後(午前中の勘違いか)十時頃、追いつめられ一カ所に集まった部落民は、家族単位で玉砕が決行されました。……
 当時、57歳で農業を営んでいた中村慶次さんは、妻子を連れて逃げられるだけ逃げようと思ったようですが、もう行く所もないということで壕にひきかえし、持っていた縄で最初に54歳の奥さんの首をしめ、次に28歳の娘さんの首を強くしめました。そしてそれぞれの死を確認したあと、自分の首を無我夢中でしめている所を米兵に見つかり、……捕虜となりました。その時のくやしさは何といっていいかわからないと言っています。

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 大城昌子は「野田隊長から、いざとなった時には玉砕するよう命令があったと聞いていましたが・・・」と言っています。伝聞に過ぎないといえば、そうも言えるでしょう。

 一方、彼女は「命令なんてものは問題ではなかった」とも言っています。逆に、それ故、「命令」の有無について「ウソ」をつく必然性はありません。つまり、軍の「命令」があったという話が、そのまま、信じ込まれるような状況があったということでしょう。

 そして、「命令」のあるなしにかかわらず、島民は「自決」にのめり込んでいった。

 梅沢裕が指揮する「守備隊」−−「守備」もしない「守備隊」の可笑しさよ−−慶良間諸島に、行かなかったならば、島民は「自決」などしなかったのではないか、そういうことも考えられないではありません。

 しかし、・・・・・・