湯田中温泉 よろづや (下高井郡山ノ内町)

湯田中温泉 よろづや本館から桃山風呂の入口

  湯田中温泉 よろづや
ロビーラウンジ(二階)
奥にあるのは 唐獅子南屏風(模写)
よろづや博物館
旬の料理が自慢
入母屋造唐破風の桃山風呂外観
正面の扁額は高橋泥舟筆の「清舎」
池泉庭園式大野天風呂
 下高井郡山ノ内町の「湯田中渋温泉郷」のひとつ、湯田中温泉は、長野電鉄湯田中駅の東側の台上にある温泉地で、現在、ここに湯田中ビューホテル」( 0269-33-4126 )、「和風の宿ますや」( 0269-33-2171 )、「湯田中大野屋」( 0269-33-3541 )、「丁小屋」( 0269-33-2501 )、「花心家」( 0269-33-2525 )、「島屋」( 0269-33-2151 )、「まるぶん」( 0269-33-3558 )、「まるか旅館」( 0269-33-3515 )、そして今回訪ねた「よろづや」( 0269-33-2111 )などのホテル・旅館が営業している。

 今回、湯田中渋温泉郷のなかでも評判のここ「よろづや」さんにお世話になったきっかけは、管理人が勤務している会社での歓送迎会を開催するにあたって、これまで活躍してくれた二人の転出者を盛大に送り出してあげよう…ということから決まったもの。少々、予算的には厳しいものがあったが、全員快く同意してくれたうえに、このような機会でなかればなかなかは薄給の我々には宿泊すらできない旅館でもあったことから、えいっ!とばかり大奮発しての決行となったのである。

 「よろづや」の歴史は古く、江戸時代の寛政十二年( 1800 )、当地の萬屋傳作という人物が創業されたと伝えられている。当時、この湯田中は松代藩の支配下にあり、藩主真田氏も「御堺廻り」と称して、たびたびこの地に従者を伴って滞在していた。萬屋傳作が活躍していたのは、松代藩第七代藩主真田幸専の時代で、「よろづや」創業の前年には、五百七十二名の従者を四十六軒に分宿して藩主自ら湯治を行っている。その際に提出された書類に「傳作」の名が見られることから、彼はもともとこの地においてそれなりの立場にあった人物だったと思われる。
 その「よろづや」が、「湯田中温泉」発展の中核を担うようになったのは、昭和二十三年に、「よろづや有限会社」に改組し初代社長に就任した小野 博氏の時代から。昭和二十八年九月、重要有形文化財にも指定されている入母屋造唐破風の「桃山風呂」を完成。また、その翌年には、吉田松陰の渡航計画に連座し、松代で蟄居を命じられていた佐久間象山の隠居所「聚遠楼(しゅえんろう)」の庭園をイメージしたという「池泉庭園式大野天風呂」(和田作次郎作)を完成させるなど、今日の「よろづや」の基礎を固める重要な建築物を残すだけでなく、「湯田中温泉」ブランドを世間に広く知らしめる効果をももたらしたのだった。
 また、湯田中温泉の生命線ともいえる天然温泉の「泉温」と「湧出量」の低下についても取り上げ、「よろづや」と「財団法人山ノ内町共栄会」との共同で新源泉の堀削に着手。事前に理学博士の小林儀一郎氏に依頼した調査から、ボーリング堀削の有効性を認められていたこともあり、ほどなくして「よろづや温泉ボーリング一号井」が噴出、翌年には「二号井」、昭和三十二年には「三号井」が噴出し、現在に至る安定した湯を供給可能としたのだった。当時、一個人が温泉の掘削をすることには、「共有」を掲げる共栄会との間に大変な確執があったとのことであるが、もしこの英断がなければ、湯田中温泉がこれほどまでに発展したか…甚だ疑問といえよう。初代社長の決心は、長い歴史を誇る湯田中温泉の存続を掛けた一大勝負だったのである。
 その後、昭和四十年には「本館」鉄筋改築、昭和五十年には「本館」向かいに「アネックスよろづや」新築、平成八年には「本館」リニューアルオープンを経て、現在に至ってる。

 「よろづや」自慢の「桃山風呂」「大野天風呂」は、本館左手にあった。この二つの風呂、「贅沢の極み」といえばそれまでだが、戦後、近代化の波が押し寄せるなかで、失われつつある職人魂を後世に残すために完成させた傑作と評価してもいいのでは…と個人的には思っている。完成に至るまでの経緯については、館内の「よろずや博物館」に詳しく紹介されているのでご覧頂くとして、ここでは、その概略だけ紹介してみる。
 戦後、伊豆修善寺にある「天平風呂」を理想とする独自の浴場建設を考えていた初代社長の小野 博氏は、日本劇場や善光寺納骨堂を設計した沖津 清氏に「伽藍建築」の洛殿設計を依頼する。これに対して、沖津氏は、今日の「桃山風呂」の原型をなす「桃山風書院造」の湯殿を館主に提案。「天平風呂」を越える風呂を考えていた博氏もこの案に賛同し、建築を市川正主氏、建具は田村金之助氏、彫刻は新潟(越後)の相崎武吉氏、野天風呂は和田作次郎氏に依頼し、昭和二十六年に起工、二年後の二十八年に完成させた。また、その前面の大野天風呂は、小布施町の雁田山の岩を調達。なかでも百トンはあると伝えられる一大巨石は、当地の湯宮神社裏から長野市の白田組がアメリカ製ブル三台+パトカー付きで、約半日をかけて三百メートルを運び入れたもので、当時としては大変なできごとだったと伝えられている。その大野天風呂も、、昭和二十九年に完成。京御影の紀州徳川家の御紋入りの灯篭、赤御影でできた五重石塔など、庭園内はまさに芸術の粋を集めた傑作であり、「入母屋造唐破風」の桃山風呂とのバランスを考えた巧みな配置には、訪れた人たちの誰もが唸らせる景観を呈している。
 脱衣所から「桃山風呂」に繋がる扉の上にある扁額は、佐久間象山筆と伝えられるもの。欄間の雉子(きじ)の彫刻は、市川棟梁宅に半年間寝泊りし彫り上げた相崎武吉氏の作品。相崎氏は、「桃山風呂」完成後に「よろづや」を訪れ、自ら彫った温泉の神ともいわれる「猿田彦」の面を館主に手渡すが、その帰途、長野駅で亡くなったという。「桃山風呂」に残された彼の作品は、まさに名人の遺作でもある。
 「桃山風呂」は、湯煙に隠れ、全体を把握することは難しかったのだが、広い円形の浴槽は五十人ほどが一度に使っても余りある大きさで、ぐるりっと囲む洗い場には、蛇口というものはなく、まさに掛け流し状態となっていた。玄関脇の出口から外に出ると、そこは「大野天風呂」。大小の岩がほどよく配置されており、自然のなかで湯に浸かっていることが実感できる趣向となっている。「よろづや」には、このほかにも、「東雲(しののめ)風呂」や桧桶のジャグジーバスがある野天風呂があり、男女入れ替えで入浴が可能となっている。こちらにも、ぜひ立ち寄ってみたい。
 最後に温泉の成分についてであるが、源泉名は「湯田中温泉」、源泉は「畔上噴泉源泉」(星川橋袂)を利用。泉質は ナトリウム・塩化物・硫黄塩温泉 (弱アルカリ性低張性高温泉)、泉温は源泉で 93. 6 度、 pH 8. 39 。

 
 湯田中温泉 よろづや 下高井郡下高井郡山ノ内町大字湯田中 3137
 TEL 0269-33-2111 FAX 0269-33-2119
 湯田中温泉 よろづやアネックス 下高井郡下高井郡山ノ内町大字湯田中 3077
 TEL 0269-33-2117
  下高井郡山ノ内町大字平穏付近 ( 1 / 8000 )
  信州湯田中温泉 よろづや

湯田中温泉・よろづやには、平成 16年 2月 20日に訪問しました。 


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