長野市

川中島合戦
〜史跡めぐり〜

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川中島合戦 史跡めぐり

松代大橋と尻巌山 (典厩寺から)
松代大橋と尻巌山 (典厩寺から)

| 八幡原古戦場 || 長野市立博物館 || 胴合橋 || 典厩寺 || 海津城 |
| 妻女山 || 雨宮の渡し || 山本勘助の墓 || 勘助宮跡 |
| 川中島合戦 |

  八幡原古戦場
 名勝負で知られる「川中島合戦」第四回目の主戦場となった場所で武田信玄の本陣がここに置かれた。中心にある八幡社境内には、有名な「両将一騎打像」や信玄が築いた土塁の跡、三太刀七太刀(みたちななたち)之碑、執念の石、周辺には首塚などが残され、激戦の跡を偲ぶことができる。
 八幡原はかつて田地のなかにあったが、上信越道の開通、市内と長野ICを結ぶ県道(アクセス道路)の拡張工事が行われた際に「八幡原史跡公園」の名称で整備され、今日では多くの観光客が訪れている。

八幡社信玄本陣の土塁跡
執念の石三太刀七太刀の碑

 三太刀七太刀
 案内によれば、紺糸鍼(こんいとおどし)の鎧に萌黄緞子(もえぎどんす)の胴肩衣、金の星兜に立烏帽子白妙(たちえぼししろたえ)の練絹で行人包(ぎょうにんつつみ)、長光の太刀を抜き放ち、名馬放生(ほうしょう)に跨った謙信が、諏訪法性(ほうしょう)の兜、黒糸鍼の鎧の上に緋(ひ)の法衣、軍配を右手に持った信玄に三太刀浴びせたところ、最初の太刀を受け止めた軍配に刀の跡が七ヶ所あったことに由来するという。

 執念の石
 信玄めがけて切り込んだ謙信に対し、武田方の仲間頭であった原大隅(はらおおすみ)が、信玄の持槍であった青貝の長柄を取って応戦したものの、全て外し、謙信を取り逃がしてしまったという。この時、無念やるかたない原大隅が、傍らにあった石を槍で突き通したものが「執念の石」と伝えられている。


胴合橋
胴合橋典厩寺

  長野市立博物館
 八幡原史跡公園内にある博物館。一階は善光寺平の自然を、二階は善光寺や川中島合戦の歴史を紹介している。土・日・祝日には、プラネタリウムの投影もある。



 <参考資料> 胴合橋
 永禄四年九月十日 川中島合戦の時、山本勘助が東福寺泥真木明神(勘助堂)付近で戦死した後、その家来が敵の手から首を奪い取り胴と首とを合わせた所という。
 朝霧の中から突如として姿を現した越後軍一万二千の大軍が武田方の備えを次々撃破し破竹の勢いで、信玄本陣目がけて突進する。これを見た山本勘助は長嘆して「甲越合戦すること十五年 その間大小の合戦十余回あったが敵の作戦を見損じたことは一度もなかった。しかし今日は、川霧のために大軍が迫るのをしらなかったのは、わが武運の尽きる時。」と言って越後勢の中に突入して 家臣もろとも首を落とされてしまったという。勘助の家来たちが主人勘助の首と胴を合わせた場所がこの胴合橋であったというが、典厩信繁という説もある。(長野市誌編さん専門委員 岡澤由往)

(長野市設置の案内板から)


  典厩(てんきゅう)寺
 永録四年( 1561 )の合戦で戦死した信玄実弟の典厩信繁の菩提寺。本堂には、合戦の戦死者供養のため造られた「閻魔(えんま)像」がある。

 [ 拝観時間 ] 8: 30 〜 17: 00
 [ 料金 ] 大人 150円、子供 100円
 [ マピオン地図 ] 長野市篠ノ井杵淵付近


海津城跡
  海津城(松代城跡)
 甲斐(山梨県)の武田信玄が越後(新潟県)の上杉謙信に備え、山本勘助に命じて築城させた城。永録三年( 1560 )に完成、翌四年の川中島合戦では信玄の本陣となっている。
 武田氏滅亡後は、織田方の森長可が北信濃平定のため赴任するが本能寺の変により帰京。その後、上杉、徳川と支配が移り、元和八年( 1622 )上田からかつて武田の家臣であった真田昌幸の長男信之が松代藩十万石の初代藩主として迎えられ、以降真田氏が城主として明治維新までこの地を治めた。

 [ マピオン地図 ] 長野市松代町松代付近
 [ 関連記事 ] 海津城(松代城跡)


妻女山山頂妻女山からの展望

  妻女山
 永禄四年( 1561 )の川中島合戦の際、上杉謙信はここ( 長野市松代町清野付近 )に本陣を置き、海津城の武田信玄と対峙した。決戦の前日、海津城から立ち上がる煙を見て、謙信は信玄の動きを察知。この山の西方から下山し、雨宮の渡しを経て川中島平に出たと伝えられる。山頂からの展望は抜群で、川中島平のほか、上信越県境に広がる山並みを望むことができる。


雨宮の渡し山本勘助墓
雨宮の渡し山本勘助墓

  雨宮の渡し(千曲市)
 千曲川を渡るための渡船場( 千曲市雨宮付近 )。永録四年( 1561 )の合戦において、武田方の動きを察知した上杉勢が、妻女山を下り、この地で千曲川を渡り八幡原に向かった。現在は、千曲川の流れが変わったため、往時の面影を感じる術はないが、夜陰に紛れ、人馬とも声なく、粛々と渡河する上杉方の姿を詠んだ頼山陽直筆の詩を刻んだ碑が、渡河点と思われる場に立てられている。
     鞭声粛々(べんせいゆくしゅく)夜河を過(わた)る
     暁に見る千兵の大牙(たいが)を擁するを
     遺恨十年一剣を磨き
     流星光底(こうてい)長蛇(ようだ)を逸す


 <参考資料> 山本勘助(道鬼)の墓
 山本勘助は三河の国(愛知県)の出身で初めは今川義元に仕えていましたが、のちに武田信玄の家臣となりました。
 諸国を流浪して各国の事情に精通し、さらに天文、兵法、槍術など武芸百般を体得した信玄の参謀で、諸国の情報を素早く入手し、数々の策略を立てたといわれています。
 また、信玄が上杉謙信の攻撃に備えて築いた海津城(松代城)の構築も手がけました。
 永禄四年(一五六一)九月の川中島の合戦では、必勝を信じて「きつつき戦法」を信玄に勧めましたが、それを上杉謙信に見破られたために武田軍は苦戦に陥りました。勘助はその責任を感じ、敵陣へ駆込み奮戦したのですが力尽きて討死してしまいました。
 この墓は、昔はこの南方の高畑付近にありましたが、元文四年(一七三九)に、松代藩家老鎌原重栄(かんばらしげひで)が今の地に移して碑を建てたものです。

(長野市設置の案内板から)



勘助宮跡
勘助宮跡
  勘助宮跡
 長野市篠ノ井東福寺にある南長野運動公園・多目的競技場南側( 長野市篠ノ井東福寺付近 )にある山本勘助が戦死した地として伝えられる場所。
 実際にはこの位置より北東にあった(参照:参考資料)が、平成十年( 1998 )二月に長野で冬季オリンピックが開催されることとなり、その開会式・閉会式会場として利用するための会場建設にあたり、現在の位置へ移設された。


 <参考資料> 勘助宮跡
 勘助宮跡は、この地より北東約一〇〇米の位置にあった。勘助宮はもともとは北小森集落の氏神で、建御名方神を祭る諏訪社であった。遠い戦国の世、上杉・武田両軍の死者六千余命を数える歴史に残る激戦であったと言われている。この戦いで武田の軍師山本勘助(又の名を道鬼斎と称した)の献策した「きつつきの戦法」が失敗して武田軍は苦戦に陥り、責任を感じた勘助は奮戦してこの地で討死したと言われている。その後、土地の者はこの諏訪社を勘助宮と呼ぶようになった。欅の老木、鎧掛けの松、鞍掛けの松などと呼ばれた老樹がうっそうと繁り、明治末期に神社併合で今の東福寺神社に合祀されるまで北小森集落で祭りをしてきた。昭和初年、社木が老齢になり枯れ始めたので、地区の有志が樹木社殿を整理したその後に数十本の桜を植えこの碑を建立した。碑文は文学博士南條文雄先生が川中島古戦場を訪問の際、勘助宮にも立ち寄り勘助を偲び書かれたもので、書は川中島合戦の戦略に興味をいだいた寺内元帥が陸軍大学校校長時代に教官・学生を引率して古戦場全域を視察したおり、勘助宮を訪ねた縁で後日揮毫していただいたものである。昭和二十二年(一九四七年)学制改革により東福寺小学校に中学校が新設され、狭くなった校庭を広げたため土地の代替に勘助宮跡地が提供され、桜は残らず切り倒されこの碑だけが残った。平成七年(一九九五年)南長野運動公園建設のため、勘助宮跡に残った碑をここに移設した。
(案内板から)



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