小児科医中原利郎先生の過労死事件・九鬼伸夫発言集成

 1)「小児科医・中原利郎氏の死が問いかけるもの」(2004.8)
 2)「小児科医の遺言状」(2006.2)
 3)「最高裁へ医師の声を
」(2009.8)

小児科医・中原利郎氏の死が問いかけるもの

九鬼 伸夫

東京保険医協会発行「診療研究」 2004年8月号掲載

  5年前の夏の朝、都内の或る総合病院屋上から、その病院に勤務していた小児科医が身を投げた。中原利郎氏、44歳。「小児科医は天職」と公言し、地域の子供たちのサッカー指導にも情熱を燃やし、3人の愛児のよき父でもあった。そんな彼が、なぜ自ら選んで情熱を注いだ仕事や最愛の家族を遺し、唐突に去っていかなければならなかったのか。そして、彼の悲劇が問いかけるものに、どうしたら、私たちは答えていくことができるだろうか。

「最高の小児科の先生」

 一通の手紙を紹介することから始めたい。 「中原先生、本当に本当にありがとうございました。娘の香奈(仮名)の命が今ここにあるのは中原先生のお力のおかげです。平成6年○月○日、初めて受診させていただき入院。救急車にて清瀬小児病院へ転院の折りにもずっと付き添っていただきました。一心に香奈の顔を見つめられ、見守っていただき、あちらの病院へ行きましたね。清瀬小児病院を退院後は数えきれぬほど先生にお世話になりました。

 風邪、咳、熱、予防接種、体の弱い娘はそのたびに○○病院を、中原先生を、頼りにしていました。困った時は中原先生、中原先生。この8月も9日から12日まで入院。11日の日に小児病棟のソファーの所で娘と私に声をかけてくださいましたよね。いつもの様に『おう、香奈ちゃん、どうした?』。毎日、中原先生にお会いしたいと思っていた私は先生のお顔を見て安心し、お話ができて安心し、中原先生にお会いできて良かった、と思いながら翌日に退院しました。いつもの事ですが、中原先生のお顔を見るだけで、どれ程安心していた事でしょうか。

 私達母娘にとって中原先生がいらっしゃる、というだけで、どんなに生きるうえで娘を育てている事に安心があったでしょうか。ありがとうございました。ありがとうございました。今まで何度も先生にはお葉書を書いていましたが、いつも診察室で『はがきありがとう、よんだよ』と言ってくださいました。あの診察室に、中原先生はいらっしゃらないのですか・・。私は一生に一度しか会えない先生に出会うことができた、と思っておりました。感謝しても感謝しても足りません。中原先生、中原先生、本当にありがとうございました。娘の香奈も泣いています。

 どうぞ香奈も他の子供たちも見守っていてください。香奈をしっかり丈夫に育てることが、中原先生へのご恩返しと思っています。中原先生、御家族を残され、病院の子供たちを残され、どんなにかお心のこりかと思います。ですが、どうぞ、どうぞ、ゆっくり、ゆっくり休んでください。この五年間本当に感謝しております。悲しいですが、寂しいですが、先生のぬくもりのある数々のお言葉、決して忘れません。中原先生は最高の小児科の先生です。本当に本当にありがとうございました」。 中原氏が患者・家族にとってどんな医師であったか、この手紙につけ加えるべきことは何もないだろう。1981年千葉大医学部卒。子供好きで、小児科医でなければ小学校の先生になりたかった、という。国保旭中央病院小児科を経て、87年から12年余り、最後の職場となったその病院に勤務した。

「会議が怖い」

 その病院の小児科常勤医は定員6人だったが、女性医師が多く、結婚や出産で休職、退職が多かった。小児心身医療で有名な病院であったため、心身医療が専門またはそれを志す医師が多く、感染症を始めとする一般小児科医療は、中原医師の肩にかかる比重が一層大きかったようだ。死去3年前の96年から病院は小児科単科当直による24時間365日の小児診療態勢を開始、(ちなみに中原医師の死去の後、小児科単科の当直は廃止となっている)。そしてその年、1999年2月、小児科部長が定年退職となり、中原氏は部長代理となる。常勤医は3人に減っていた。3月には月8回の当直をこなしながら、常勤医探しに奔走した。 国の医療費抑制政策の中で、病院の赤字減らしが経営課題になっていた。部長職となって病院会議に出席するようになった彼は、「会議に出るのが怖い」と家で泣くようになった。子供はできる限り家庭で過ごす時間を大切に、という小児科医としての信念から、かつては入院適応を厳しく限定していた彼が、病棟稼働率を上げるためだったのだろうか、以前よりも多くの患児を入院させて自ら受け持つようにもなっていった。どんなに忙しい時も休まなかった少年サッカーの指導を断り、楽しみに定期購読していたサッカー雑誌に手を出すこともなくなっていった。

 その日、8月16日朝、前日朝に「当直だ」といって家を出たままだった彼は、病院屋上から身を投げた。部長室の机には、病院の便箋3枚にびっしりと細かい字で書かれた文書が遺されていた。「少子化と経営効率のはざまで」と題されたその文(別項参照)は、小児医療が直面する困難な状況を冷静な筆致で綴った末に「経済大国日本の首都で行われているあまりに貧弱な小児医療。不十分な人員と陳腐化した設備のもとで行われている、その名に値しない(その場しのぎの)救急・災害医療。この閉塞感の中で私には医師という職業を続けていく気力も体力もありません」と、唐突に結ばれている。

 小児科医療の不採算、小児科医の不足、小児救急体制の不備、といった現在では広く社会的な議論になっている多くの問題、個人の力ではどうにもならない制度の歪みが、心優しく誠実で、困難な場から逃げることをしなかった小児科医師の心身にのしかかり圧し潰す様を、眼前に見るような思いがするのは筆者だけではないだろう。

「遺志に応えるには」

 遺された妻・のり子さんは、薬剤師である。病院薬剤師として勤務していた病院で、見学にやってきた医学生であった利郎氏と出会い、彼の卒業の年に結婚、三児に恵まれた。利郎氏死去の当時、長女は高三、長男は高一、そして次男は中一。利郎氏を喪った家族は病院の寮を出てのり子さんの実家に身を寄せた。転校先で長男・次男は不登校になった。厳しい心の危機、家族の危機。自問自答の中でのり子さんは、夫の遺志が自分に託された、という確信を得て、それを支えに、立ち上がる。

 「遺書に記されたような問題点の改善に取り組むことを、夫が私に託したのだと思う」とのり子さんは言う。第二の中原利郎を出さないこと・・。そして、それに、母親としての思いが重なった。長女・智子さんが医学部に進学し、小児科医を志しているのだ。利郎氏は生前、智子さんの医学部進学に反対し続けた。しかし父の病院に入院したこともあった智子さんは、父の背を見て育ち、その後姿を追った。夫を奪った戦場へと赴こうとする娘に、母は何を思うのか。「子供を、安心して送り出せる小児医療の現場であって欲しいのです」。のり子さんは、おずおずと、しかし敢然と、声をあげた。

 2001年9月17日、利郎氏の死が業務に起因する労災であることの認定を求めて新宿労基署に労災保険法による遺族補償給付を申請。2002年12月26日、勤務していた病院を相手取り、東京地裁に損害賠償請求訴訟を提起。医師のいわゆる「過労自殺」としては、初めての裁判である。目的は、言うまでもなく、「金」ではない。利郎氏の死が業務によるものであることを認めさせること。その過程を通じて、小児医療現場の問題点を明らかにし、社会に広く訴え、その改善につなげることが目的である。

「明日は我が身か」

 たった一人の行動を、支援する人たちが現れた。利郎氏の中学・高校・大学の同級生やサッカーの仲間たち。そして、のり子さんの友人たち。声は広がり、つながって行った。2003年8月、利郎氏の大学時代からの友人であった守月理・船橋二和病院心臓外科部長を会長として、「小児科医師中原利郎先生の過労死認定を支援する会」が発足。11月には東京・渋谷で「小児科医の過労を考える集会」を開いた。この集会には、衛藤義勝日本小児科学会会長(慈恵会医科大学小児科教授)も、メッセージを寄せた。会の活動を、NHKや読売新聞などのマスコミも取り上げるようになった。

 発足から間もなく1年を迎える「支援する会」には現在、百人余が会員として参加している。小児科はもちろん、内科、外科、整形外科、精神科などの医師、看護師のほか、弁護士、報道機関の記者、会社員、主婦、公認会計士など職種はさまざまだ。小児科勤務医からは「中原氏のことは他人事とは思えない。明日は我が身かと思いながら働いている」といった声が。そして医療職以外の会員からは、「医師が過労死するような労働条件で働くのがあたりまえになっている現状を何とかしないと、患者は安心して医療を受けられない」という声が、寄せられている。厚生労働大臣宛の小児医療改善を求める署名活動なども継続中だ。

 私事になるが、筆者は生前の中原利郎氏とは全く面識がない。薬剤師中原のり子さんと仕事上の関係ができ、彼女の活動を知って応援するようになった。「支援する会」の事務局長として、会報の発行やメーリングリストの管理などを担当している。支援する会に入会いただける方、署名活動に御協力いただける方、メーリングリストに御参加いただける方は、別項を御覧いただき、ぜひ仲間になっていただきたい。


「国家的課題」

 中原氏が遺書で述べた「あまりに貧弱な小児医療」を改善しようとする動きは、既に広く大きなうねりとなりつつあるようにみえる。小児科医療の不採算、小児科医の不足、小児救急体制の不備、こういった問題がデフレスパイラルのような悪循環になっている現状を何とか断ち切らなければ、我々の社会の未来がますます暗いことは、もはや誰の目にも明らかだからだろう。

 例をあげる。厚労省は全国の小児科・産婦人科教授クラスを集めて研究班を組織し、平成14年度から3年間の予定で厚生労働科学研究費補助金による「小児科産科若手医師の確保・育成に関する研究」を進行中だ。この研究の目的には次のように明記されている。

 「最近の我が国における小児医療の危機的状況は、一般社会はもちろん、医療行政上も深刻な問題として認識されております。採算性の低い小児科の医療が病院に集中し・・(略)若手医師の過酷な労働を生み、厳しい勤務条件がますます若手医師の数を減少させる悪循環に陥っております。いかにこの事態に対応していくかは、・・(略)国家的に取り組むべき問題であります」。

 具体的な課題として、小児科・産科医師の過重労働の実態を明らかにすること、改善のために人材をいかに確保育成するか、などを検討することが謳われている。

 また、医療費全体の縮小圧力の中で、小児科関係の診療報酬にはわずかながらプラスの改訂が行われるようになってきている。小児の夜間・救急医療態勢についても、各地で診療連携の模索が行われつつある。 しかしながら、いわば預言者のように危機のメッセージを発した中原医師の労災認定は、未だ厚い壁に阻まれたままだ。

 中原のり子さんからの労災申請に対し、新宿労基署は昨年3月「自殺は業務上の事由によるものとは認められない」として申請を却下。取り消しを求めた審査請求に対しても東京労働局労災審査官が今年3月、新宿労基署の判断を支持し請求を棄却する決定を下した。のり子さんは国レベルの労働保険審査会に対して再審査請求を今年5月に行い、さらに行政訴訟も視野に入れて検討中だ。

 病院を相手取っての民事(損害賠償請求)訴訟は未だこれから証人尋問が始まろうとする段階ではあるが、病院側は、中原医師が過労状態にあったこと、労基署が認めた欝病を発症していたことさえも一切認めず、全面的に争う姿勢を見せている。

 労基署が労災認定を却下する「論理」は、こうだ。中原医師が欝病に罹患し自殺に至ったことは認める。個人の資質や家庭事情など業務外に原因となる要因はない。しかし、業務の過重性を評価すると、過重と評価すべきほどでは無かった。過重でないものを重く受け止め過ぎたための自殺であった・・と。 労災というのは、仕事中に天井から物が落ちてきて死ねば、無条件に労災死である。ところが中原氏のように巨大な業務そのものの重みがのし掛かって死んでも労災でないとすれば、こんな理不尽はないと思う。なぜ、こんな論理ならぬ論理がまかり通ってしまうのか。

「医師の世界は無法地帯」

 労災認定を阻む壁の正体を調べてみると、医療の世界と一般社会の常識の乖離、そして、それを放置してきた医師の意識の問題が、浮かび上がってくるように私には思える。 問題点の最たるものは、「当直」の扱いだ。

 一般に過労死を労災として認定する場合、超過労働時間は労働の過重性の大きな目安になる。脳卒中や心筋梗塞の場合は月に100時間以上の超過労働があればほぼ無条件に、月80時間以上でもほぼ自動的に労災と認定されるという。中原医師は3月には月に8回の当直をしている。それだけで上記条件を満たしそうに見えるが、病院は当直時間を超過労働時間としてカウントしておらず、労基署も病院の解釈をそのまま受け入れている。「寝ている時間もあるから、実際に診療行為をした時間だけを労働時間と計算する」というのだ。

 本来、労働法規上の用語としての「当直」は、ほとんど労働実態のないいわば「留守番」的な役割を想定しているものだという。中原氏の職場は、当直といえば常に一睡もできない超多忙勤務ではなかったとはいえ、外来も病棟も持った小児科の当直が「お留守番」でありえないことは、言うまでもない。当直勤務の中では、仮に睡眠中でも、いつでも即座に緊急の診療活動に入れる状態におり、自宅で勤務から離れて休息しているのとは全く異なる。このことが社会にきちんと理解され、それにふさわしい扱いを受けるべきだが、そうなってはいないのだ。

 この状態では、仮に医師が月に30回当直をしていても、ほとんど労働時間にカウントされず違法でもない、ということがありうる。こうした実態を指して「医者の世界は無法地帯」と、岩波新書「過労自殺」の著者で中原弁護団の一員である川人博弁護士は語っている。刺激的な表現だとは思うが、我々医師自身が無法地帯に置かれていることを、放置あるいは黙認してきたと言われても仕方がないと、私は思う。医師の夜間労働が「当直」という名前ですりかえられ、労働時間としてカウントされないまま詐取されていることを、どれだけの医師が意識してきたろうか。

 EUでは、医師の当直は待機中の睡眠時間も含め無条件に勤務時間として算定する、という判例が既に出ている。日本でも、医師なら当然と思うに違いないこの判断を、社会的に定着させなければならない。

 もうひとつ例をあげよう。いわゆる「過労自殺」の労災認定では、厚労省によって@欝病などの精神障害を発病していたことA発病前約半年の間に、発病の原因となりうる業務による強い心理的負荷が認められることB業務以外の心理的負荷および個人的な要因で発病したとは認められないこと、の三要件が必要とされている。ABについては、出来事によって心理的負荷の強度をT〜Vに分類する評価表がある。中原氏の業務が「過重ではなかった」と判定されているのも、この分類表に従っての判断だ。この認定基準は全体としても、強度Uの出来事が数多くあっても総合的にVに相当する強い負荷とは認めない、判断が恣意的になりやすい等の問題点を含んでいるが、それを措くとしても、ここに記載された出来事はごく一般的な職種しか想定しておらず、医師固有の業務の困難が考慮される余地がない。職場における強い心理的負荷とされるのは「退職を強要された」「会社にとって重大なミスをした」といった項目でしかないのだ。

 医師の日常業務は、直接他人の生命にかかわり、ミスが即生命に関わる事故と結びつく点や、時に長時間の連続労働が避けられないなどの点で、旅客機の操縦士などと同様に、特殊な業務にふさわしい特別な基準で判断され管理されるべきだ。

 医師の健康管理、特にメンタルヘルス面の管理がこれまで全くと言ってよいほど自己管理に任されてきたことにも、注意を喚起しておきたい。

 こうした諸問題を、より具体的に明らかにし、改善を促していくことは、中原氏の裁判の大きな意味だと考えている。

聖職意識を超えて

 医師の過労はこれまでほとんど放置され社会的に問題とされてこなかった。国や雇用者である病院にその責任があることは言うまでもない。しかし、それに甘んじてきた医師の意識にも、問題はある。中原氏の件についても、「中原氏以上の激務をこなしている医師はいくらでもいるではないか」といった冷淡な声を、医師仲間から聞くことがある。残念なことだ。

 私を含め多くの医師は、1日24時間を患者さんのために捧げる覚悟を教えられ、それを自らの覚悟として受け入れて生きてきたと思う。医師としてあるべき心構えであり、失ってはならない職業倫理の根幹だと思う。しかし、そのために、医師は自らの労働条件について語り、ましてそれに注文や不満を差し挟んだりすることを潔しとしないようなところがあったのではなかろうか。誰より長く厳しい労働を黙って喜んでこなすことに、秘かなヒロイズムのようなものを感じるところはなかったろうか。自分が休みやケアを必要とする状態になってもそれを口外するのに後ろめたさを感じなければならないようなことがなかったろうか。

 そうした点について、我々医師が自らの意識にメスを入れ、脱皮していかなければ、結果的に自らの、そして仲間の、ひいては患者さんの首を絞めて殺すことになるのだと、気づくべき時が来ていると思う。 使命感、倫理観の高い優れた医師ほど、もしも使命に殉じて実際に命を落としたのでは、患者さんを含めた多くの人が困る。しかもその死が労災とは認められず、いわば個人的な死に過ぎないと扱われるのでは、どうして後世にこの仕事を託すことができようか。

 私たちが求めようとしているのは、医師の使命感を否定することではない。ひときわ強い使命感と責任感を抱く医師が死なずに済む仕組みであり、自らの心身の合理的管理を内に含む新しい職業倫理であり、そして万が一そうした医師が亡くなった時には、いわば公務に殉じた死として弔おう、という社会的合意なのである。


小児科医の遺言状

九鬼 伸夫 

「月刊保団連」2006年2月号(特集「小児救急の現状と展望掲載
要旨
○児科医が過労から自死に追い込まれる医療現場で、良い小児医療が提供され続けることはありえない。労働環境の改善は、医療内容改善に不可欠である。
○医師の泊まり勤務は「当直」ではなく「夜間労働」である。言葉のトリックによって労基法とかけ離れた過重労働が野放しにされてきた。
○医療提供側だけでなく、患者側や報道と連携し、必要な金と人を医療に注ぐための合意を形成する努力が必要である。
  病院の名が入った便箋3枚に、几帳面な細かい字でびっしり書かれた文書が、今ここにある。これを書いた中原利郎医師は当時44歳で、都内の民間病院の小児科部長代理だった。高三から中一の3人の子があり、公私ともに働き盛りだった。しかし激務から欝病を発症し、勤務する病院の屋上から身を投げた。1999年8月のことだ。手元にある文書は中原医師の机から見つかったもので、文頭に「少子化と経営効率のはざまで」と題が付されている。小児科医は天職と公言し、患者家族から信頼と尊敬を集めていた小児科医が、自ら死を選ぶまでに追い詰められた事情を、この文書はひどく客観的な筆致で書き綴っている。主要部分を紹介しながら、中原医師を追い詰めたものを検証し、どうしたら中原医師は死なずに済んだのかを考える材料として提供したい。医師が自死に追い込まれる医療現場が、患者にとって良い医療を提供し続けることはありえない。第二の中原医師が現れないようにすることは、小児医療の改善に結びつくことになるだろう。

●小児科消滅

 「都内の病院で小児科の廃止が相次いでいます。私も佼成病院に奉職して12年が経過しましたが、この間、近隣病院小児科の縮小・廃止の話は聞きますが、中野・杉並を中心とする城西地域では新設、拡充の連絡は寡聞にして知りません。もちろん一因として世界に類を見ない早さで進展するわが国の少子高齢化をあげる事ができます。小中学校には空き教室が目立ち、都立高校の統廃合の計画も明らかになりつつあります。しかし、小児科消滅の主因は厚生省主導の医療費抑制政策による病院をとりまく経営環境の悪化と考えられます」

  遺書の冒頭部分である。 

  当時、都内では病院小児科の閉鎖が相次いでいた。90年に327あった小児科が98年までに57も減った。また、病院そのものの閉鎖に追い込まれた病院のほとんどが小児科を抱えていたとも言われる。全国でみても、90年に4119だった小児科のある病院が、98年までに399も減っている。

  中原医師が正確に指摘しているように、背景に少子高齢化の進行はあるものの、少子化が小児医療の需要減少に結びついたわけではない。経済の停滞の中で進行する高齢化により保険医療制度の収支バランスが悪化するのを抑えようと、医療費全体の抑制政策が採られ、そのために病院全体が経営効率向上に血道を上げざるをえなくなった。小児科のみならず、一つひとつの診療科、あるいは一人ひとりの医師が、病棟稼働率やら医師一人あたりの収入といった数値で評価され、管理され、尻を叩かれるようになった。そうした中では、採算性、収益性の低い診療科、そして部長職など管理的な医師に、より強い圧力がかかっていくのは当然の成り行きである。

  中原医師は、1981年千葉大医学部卒。千葉県の国保旭中央病院小児科を経て、87年から東京・中野区の佼成病院に勤務した。1999年2月、小児科部長の定年退職に伴って部長代理となった中原医師は、そのような圧力に真正面からさらされるようになった。
●経営効率

  「生き残りをかけた病院は経営効率の悪い小児科を切り捨てます。現行の診療報酬制度(出来高払い)では、基本的には薬は使えば使っただけ、検査を実施すればしただけ診療報酬が上がり、病院の収入となります。例えば大人の場合は、だいたい注射アンプル1本分が通常の投与量となります。しかし、体重も小さく代謝機構も未熟な小児では、個々の症例で年齢・体重を勘案しながら薬用量を決定し、その分量をアンプルから注射器につめかえて細かく、慎重な投与量を設定しなければなりません。検査にしても協力が得にくい小児の場合には、泣いたりわめいたりする子供をなだめながら実施しなくてはなりません。例えば大人なら2人3人分のCT撮影がこなせる時間をかけて、やっと小児では、CT写真一枚が撮影できるという事も珍しくなく医師・放射線技師泣かせです。現行の医療保険制度はこのように手間も人手もかかる小児医療に十分な配慮を払っているとは言えないと思います」

   この「遺書」には、宛先が書かれていない。内容的にも特定の人物に宛てた部分は一切無く、自分自身の個人的な感情さえ表面的にはほとんど書かれていない。冒頭に続くこの部分は、小児医療の説明そのものだ。しかし死を目前にした中原医師は、これを書かずにいられなかった。こういう基本的なことが理解されていない、という歯がみするような中原医師の思いを、私たちはここから読み取るべきなのだろう。部長職として「経営効率」を迫られていた彼の、小児科臨床医としての悔しさ、悲しさ、悲鳴が、この文章の後ろには響いていると、私には感じられる。

  中原医師の部長代理昇進と相前後して、病院には経営コンサルタント会社が入って調査活動が開始された。月一度の「病院会議」や「診療部長会議」では、慢性的な赤字経営の立て直しが最優先課題の一つだった。中原医師は家庭に帰ると「会議が地獄のようだ」と訴え、やがて「会議が怖い」と妻に涙さえ見せるようになっていったという。

  臨床医としての中原医師は「侍のような」と評されることがあった。生真面目で、自分の診療方針に自信と信念を持っていた。患児が家庭で親と過ごす時間を大切に考え、入院の適応や期間を厳しく制限することもその一つだった。しかし昇進後には、病棟稼働率を上げるためだったのか、以前より多くの患児を入院させ、自ら受け持つようにもなっていった。
このころから、眠れない、好きで定期購読していたサッカーの雑誌に目も通さないなど、はっきりした鬱の症状が現れている。

  生真面目だった中原医師は、自らの臨床医としての信念と、管理職としての責任感と、両立し難い二つの要求を内に抱え、そのはざまで苦しんだのである。
●当直という名の夜間労働

  「常勤医6名で小児科を運営して参りましたが、病院リストラのあおりをうけて、現在は、常勤4名体制で、ほぼ全日の小児科単科当直、更には月1〜2回東京都の乳幼児特殊救急事業に協力しています。急患患者数では、小児の方が内科患者を上回っており、私のように四十路半ばの身には、月5〜6回の当直勤務はこたえます」

  病院は、中原医師の死去3年前の96年から小児科単科当直による24時間365日の小児診療を始めた。負担が増えたにもかかわらず、常勤医師は減っていった。

  激務なので、人が去る。人が去るから激務になる、という悪循環。部長代理として常勤医の後任探しに奔走するが、小児科医はどこでも不足していた。しかも中原医師は、出身大学の医局人事から離れていたから、人探しは一層困難であったものと考えられる。中原医師の職場は女性医師が多かったことも、中原医師の負担を大きくしていた。本誌昨年12月号に特集されている「女性医師問題」の重みもまた、中原医師を直撃していたのである。部長代理になって2ヶ月後の3月には、中原医師は退職医師、女性医師のカバーで月8回の当直をこなしている。

  ここまで、臨床現場の慣例に従って「当直」という用語を用いてきた。しかし、労働法規で「当直」という用語は、労働実態がほとんど無いいわば「留守番」としての宿泊を指している。一般病院での医師の当直は、労働法規に言う当直ではなく、まさしく夜間労働である。医療界では、この点があいまいにされたまま、労働基本法とかけ離れた医師の過重労働がこれまで野放しにされてきた。

  中原医師についての労働基準監督署の判断も、当直を労働時間として認めないという病院側の主張をそのまま採用し、超過勤務による過重労働は認められないとして、労災申請を却下するものとなっている。もし医師の「泊まり勤務」が労働法規に言う「当直」であるなら、月30日病院に泊まり込んで働いても、超過勤務ではないのだ。

  医師としての心身の過重負荷に押し潰されて亡くなった中原医師は、その死を業務上の死として認めない労働行政によって、もう一度殺されたのである。

●医療ミス

  「看護婦・事務職員を含めスタッフには、疲労蓄積の様子がみてとれ、これが"医療ミス"の原因になってはと、ハラハラ毎日の業務を遂行している状態です。(中略)24床のベッド数を誇ってきたわが病棟には、最近では高齢の方の入院が相次ぎ「小児・老人混合病棟」の様相を呈して来ました。つい最近、緊急事態宣言が出された結核の院内感染をおこさないか否か、また、心配のタネが増えています」

  自分の死を意識しながら中原医師が訴えたのは、自らの危機ではなく、医療の質の危機だった。

  過重労働で医療ミスや事故の危険が高まることは、いくつかのデータが示しているし、多くの医師が実感しておられると思う。医師は、自分たちを守るためにではなく、患者さんを守るために、医療労働環境の改善が必要なことを、もっともっと訴えていくべきだろう。そして、患者さんの側から、自分たちを守るために、医師の命を守らなければ、という声が上がるようになることを、私たちは運動の目標の一つにしている。

  私たち「小児科医師中原利郎先生の過労死認定を支援する会」は、医療ミスで幼い子を失った遺族らと共催で2005年5月4日、「小児医療を考える だいじょうぶ?!こどものお医者さん」と題したシンポジウムを都内で開いた。医療の問題といえば、医療ミスや医療事故を巡って患者と医療側が対立・対決し、マスコミはこれを煽る、といった構図に陥りがちだ。しかし、このシンポジウムでは、医療事故被害者遺族が「医療の改善のためには、国民一人一人が医療の現状を知る努力と、応分の負担が必要」「患者と医療者を共に守っていきたい」と発言し、中原医師の遺族は、小児医療の質の改善こそ、故・中原医師の遺志を生かす道、と応じた。ジャーナリストは、医療事故も、医師の過労死も、システムの問題が弱い部分に現れたのであり、システムの改善のために一人ひとりが想像力と痛みを共有しなければ、と語りかけた。シンポジストとして参加した日本小児科学会の救急担当理事は「こうした動きに力を得て、学会としての取り組みを加速させ、政治を動かして行かねば」と決意を述べた。

  ささやかな一歩ではあるが、ここには小児医療改善を目指す運動の、一つの方向性が示されているのではなかろうか。

●閉塞感

 「間もなく21世紀を迎えます。経済大国日本の首都で行われているあまりに貧弱な小児医療。不十分な人員と陳腐化した設備のもとで行われている、その名に値しない(その場しのぎの)救急・災害医療。この閉塞感の中で私には医師という職業を続けていく気力も体力もありません」

  「少子化と経営効率のはざまで」は、上の文で唐突に終わっている。

  こうして中原医師が世を去って6年半、中原氏を死に追いやった小児医療の閉塞状況に、出口は見えているだろうか。危機の実態がある程度広く認識され、議論されるようになってきたことは、あるいは明るい兆しなのかもしれない。日本小児科学会では、救急拠点を集中化してそこに医師を集めることで体制を整える構想をまとめ、厚労省もある程度このプランに沿った計画で体制整備を進めようとしているようだ。診療報酬マイナス改訂の中で、小児医療の診療報酬はプラスになる、と報じられている。これらは、中原医師が一粒の麦として死に、小さな芽を吹いたあかしなのかもしれない。
しかし、芽は大きく育って豊かな実りを迎えるだろうか? 中原医師が今もし生きていたら、生きがいと希望を取り戻すことができる医療現場になってきているだろうか? 残念ながら、私はイエスと答えることができない。

  小児科のある病院はその後も減り続け90年からの15年間で2割も少なくなった。「支援する会」には、中原氏の死を、明日は我が身と受け取る勤務医、昨日までの自分と語る開業医からの悲痛な声が今も次々に寄せられている。医師の過労死、過労自死の報道も後を絶たず、明るみに出るのはごく一部に過ぎないことは関係者の間では常識だ。勤務小児科医の多くが、自分の子を小児科医にはさせたくない、と考えている、という調査結果も公表されている。中原医師の労災認定も厚い壁に阻まれたままだ。

  小児科以外の医療現場でも、人手不足は深刻だ。産科、麻酔科、病理、緩和ケア・・あちこちから悲鳴が聞こえて来る。もともと日本の医療は、マンパワーの不足を医療従事者の負担と犠牲で補って、先進国の中では安上がりな医療を支えてきた、と言われる。それが全体として限界を露呈しつつある。この全体に目を向け、医療全体に必要な人と金を使う合意を広く形成できなければ、小児科への厚い手当てが、他科との対立を生む可能性さえ孕んでいると言えるだろう。

  中原医師の遺言状は、まだ不履行のまま、私たち一人ひとりにつきつけられている。そう私は思っている。
●参考文献
1)鈴木敦秋「小児救急『悲しみの家族たち』の物語」講談社 2005
2)「小児科医師中原利郎先生の過労死認定を支援する会」http://www5f.biglobe.ne.jp/~nakahara/
3)「シンポジウム 小児医療を考える だいじょうぶ!?こどもお医者さん」記録 http://www.bb.e-mansion.com/~kuki/

最高裁へ医師の声を
没後10年の中原先生過労死裁判

九鬼 伸夫

「保険医新聞」(東京保険医協会発行)2009年8月25日号掲載

  中原利郎医師が命を絶って十年目となるこの八月、全国の注目を集めた過労死裁判は、その最終局面を迎えている。裁判の行方は、故人が遺書で訴えた「あまりに貧しい」医療現場のみならず、全業種で働く人の生命と健康を左右するものとなった。あまりに問題の大きい東京高裁判決を確定させてはならない。すべての医師の注目と支援とを強く要請する。

  昨秋の東京高裁判決は、中原医師の業務の過重性を認め、過重業務と欝病発症・自殺との相当因果関係を全面的に認めつつ、病院の安全配慮義務違反・賠償責任は否定した。精神障害を起こすおそれを具体的客観的に予見することができず、精神的異変をきたしていることを認識することもできなかった、というのがその理由だ。これは過労自殺について雇用者の賠償責任を問うことをほぼ不可能にする論理であり、自殺予防への社会の動きに逆行し、欝病に関する医療の常識を無視しており、電通事件最高裁判決など過労自殺について積み上げられてきた重要判例に相反している。

  上告受理申立が提出されてから九ヶ月、最高裁で今どんな議論がどれだけ行われているのか、うかがい知ることはできない。ある日不受理決定の通知が届けば、その時をもって裁判は終了し、東京高裁判決は確定し、判例として今後の労災裁判に負の影響を長く与え続けることになる。そうさせないために、私たちにできることは何だろうか。ただ一つしか無いのではないか。それは、東京高裁判決はおかしい、これでは医師のいのちも患者のいのちも守れない、と最高裁に伝え続けることだ。そのための回路は既に開かれている。

  「小児科医師中原利郎先生の過労死認定を支援する会」では、東京高裁判決に抗議し最高裁に公正な判決を求める署名運動と共に、一人一人の生のメッセージを最高裁に届ける活動を行っている。昨年秋最高裁に提出された「上告受理申立理由書」には、保険医協会役員を含む全国三十人余の医師たちのメッセージが約一万字にも渡って引用された。こんな上告申立理由書が、かつてあったろうか。医師の現場からの生の声を、今こそ、もっと最高裁へ。日本小児科学会の「小児科医のQOLと故中原医師に関する高裁判決に関する声明」や、全国医師連盟の高裁判決批判声明なども、裁判資料として提出された。医療関係諸団体の更なる声明や行動は、個々の声以上の力となりえよう。

  原告中原のり子さんは、毎月一度最高裁への直接要請行動を行い、事務官との面談で、月々の署名と共に国民・医師からのメッセージを伝え続けている。運動をより広げるために「いのち守る」とキャッチフレーズをプリントした特製ボールペンの配布運動も行っている。会のホームページではこうした活動の詳細を公開しているので、ぜひご参照いただきたい。

  <中原過労死事件>都内・佼成病院の小児科医・中原利郎医師は過重労働から欝病を発症し、平成十一年八月十六日、病院屋上から飛び降りて死去。遺族は労災を申請したが業務外として認定されなかった。労災認定と損害賠償を求め裁判を提起。十九年三月に東京地裁の行政訴訟判決は過労による労災と認め、国も控訴せず確定した。しかしわずか二週間後に言い渡された民事訴訟判決は正反対の判断を示し、労働の過重性、過労と自殺の相当因果関係、病院の安全配慮義務違反いずれも否定した。相反する二つの地裁判決を受けた東京高裁の民事訴訟控訴審は二十年十月、労働の過重性、過労と自殺の相当因果関係を全面的に認めながら、病院の責任は否定し、原告敗訴の判決を言い渡した。遺族は最高裁に同年十一月上告受理申立を提出。八月十八日現在最高裁第二小法廷に係属中。

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