医者の目記者の目4


藤井尚治先生のこと

 

藤井尚治先生は、当銀座内科診療所の創設者である。本年4月19日、76歳の誕生日に、この世界から旅立たれた。

今では誰もが口にする「ストレス」に、藤井先生は早くから着目し、「ストレス学説」の提唱者ハンス・セリエ博士と親交を結ばれた。セリエ博士の来日に尽力し、自ら私費を投じて設立した財団法人「東京ストレス研究会」の理事長として、日本でのストレスの研究と紹介に大きな業績を残された。銀座内科で、約40年にわたり、カイロプラクティク(脊椎矯正治療法)や漢方を採り入れた独特のストレス診療を展開された。

こうした藤井先生の軌跡をさかのぼってみると、軍医として従軍した戦争体験にたどり着く。東京大学医学部精神科に入局した藤井先生は、翌昭和18年に応召、中国戦線に従軍し雲南省近くで終戦を迎え、約2年間の捕虜生活を送った。敗色濃い中国戦線で数千人の傷病兵の治療や輸送に携わる中で、気づいたことの一つが、ストレス学説に言う「非特異的反応」であった。戦闘での負傷は意外に少なく、戦争という極度のストレスのなかで、いわば心と体をむしばまれる兵士が多かったのである。

連合軍側の軍医の顧問格として同じことに注目し、ここからストレス学説を展開したのが、ハンス・セリエであった。藤井先生はセリエの論に早くから着目、共感し、セリエと文通を始めていた。昭和32年、セリエの来日は新聞紙上をにぎわす社会的大事件となり、朝日新聞講堂で開かれた講演会は来聴者であふれ、医学部の教授級が演台前の床にござや新聞紙を敷いて聞き入った、と当時の新聞が伝えている。この来日を実現させたのが、藤井先生であった。ハワイから羽田に予定より早く着いたセリエは、藤井先生の自宅に電話をして「セリエです。羽田にいますがどうしましょうか?」とたずねた、と朝日新聞は書いている。

当時、セリエの印象を書き記した先生の文章がある。

「フォーマルな態度も平気だが、無類にテンポが速くて、カンがよくて気が短くて、そのくせユーモラスで、扱いにくいといえばこんな扱いにくい人もいないだろうが、十日間の滞日間ほとんど行動を共にしながら、疲れるどころかむしろ大いに我々を楽しませてくれた」

私が藤井先生とお会いしたのは、先生がもう六十歳を超えたころだったが、私が受けた印象は、先生が記すセリエの印象とほとんど重なる。違うところといえば、藤井先生は超スピードで考え、結論を簡潔に話されたが、他人に対して「短気」では決してなかったということくらいだ。人間としての共鳴がこの二人の間には響きあっていたに違いない、と私は思う。写真でみる晩年のセリエは、私の知る藤井先生と、そっくりと言いたいほどよく似ている。

藤井先生が戦争体験から得たもう一つのものが、鍼、マッサージ、カイロプラクティクなど手技療法に対する関心と傾倒であった。医薬品不足の戦場で、鍼、灸、マッサージなどの手技を片端から試みた。傷に苦しむ兵士も体をマッサージしてあげると楽になることがよくわかった、と後に書かれた本にある。さらに、自ら戦闘の中で左肘貫通の銃創を受け、戦後も長く続いた傷の痛みが、カイロプラクティクの治療で癒される。この体験から、藤井先生が興された銀座内科は、カイロプラクティクを治療の大きな柱にすえることになった。

銀座内科の創設は、昭和30年にさかのぼる。当時、松坂屋の裏通り、やがて取り壊されることになる古いビルにあった診療所は「魔窟のようだった」と、当時を知る人はなつかしさを込めて語る。大変な博覧強記、猛烈な読書家であった先生の診療所は、常に本の山に埋もれていた。さらに先生は紫煙をこよなく愛され、当然他人の喫煙にもきわめて寛容であったから、銀座内科は愛煙家の溜まり場のようでもあった。本に囲まれ、紫煙に煙る「魔窟」で、藤井先生は、経済を論じ、政治を憂い、錬金術を語った。「煙にまかれた」と思う人もあったようだが、熱烈なファンは「患者」を超えて広がり、「藤井先生を保存する会」と称するファンクラブさえ実在した。

アイデアマンでもあった先生は、肝機能障害に用いられる医薬品などを発明し、特許も持っておられた。常識的な医師の枠に収まりきれない人ではあったが、その最期の日々にも入院先の病院で、痴呆症状の強い多くの患者たちの話しに耳をかたむけ、「先生」と慕われていた。平成9年4月19日、先生のベッドは、そうした患者たちからの、誕生日を祝う赤い花に囲まれていた。赤い花は、そのまま旅立ちへの手向けとなった。医師としての見事な死というほかない。

ご自分の医師としての姿勢を、藤井先生は次のように要約しておられた。

医師は、検事的立場をとりがちである。客観性偏重、証拠主義で、患者の心身の悪いところを探し出し、検査で証拠だて、断罪しようとする。これに対して、ストレス理論にたつ医師は、いわばハイゼンベルグの不確定性原理の応用者たらんとする。つまり、客体としての患者ではなく、クライアント(依頼者)と共にたつ「医界の弁護士」たらんとするのだ、と。

藤井先生の個性そのものであった銀座内科は、先生の死とともに、今年その生命を終えた。縁あって私がその名を引き継ぐこととなったが、私は新生・銀座内科を、藤井先生とは違う私自身の個性そのものとすることを目指すしかないだろうと思っている。なにせ私は、嫌煙家で愛飲家なのである。しかし、藤井先生が「医界の弁護士」という言葉に託されたものは、銀座内科の名前とともに私に手渡されたバトンとして、リレーしていくことにしようと、思い定めてもいる。


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