祝・「南総里見之館」一周年 「完全戦国年表」提供特別企画
完全戦国年表 南総里見之館版
forHTML
Ver.1.00

西暦 年号 おもな出来事 新暦換算
1526 大永 6 11月12日、里見義豊が鎌倉を攻め、鶴岡八幡宮が燃える。 1526.11.25
1533 天文 2 7月27日、里見義豊、叔父里見実堯を討つ 1533.8.27
1534 3 4月6日、里見実堯の遺児里見義堯里見義豊を討つ。 1534.5.17
1538 7 10月7日、第1次国府台の戦いで、北条氏綱軍が足利・里見連合軍に勝利す。足利義明戦死。 1538.11.8
1564 永禄 7 1月9日、第2次国府台の戦いで北条軍が里見軍に勝利。 1564.2.11
1567 10 8月23日、三船台の戦いで里見軍が北条軍を破る。 1567.10.5

足利義明アシカガヨシアキ
生没年:?〜1538.10.7
名前:
官位:

 古河公方足利政氏の次男。もともとはなぜか、陸奥の国を漂泊していたらしい。それを、上総の武将・武田恕鑑がこれを保護。小弓城主・原胤隆を打ち破り、足利義明を城主に据えて、小弓御所としたのである。しかし、義明は権力を手にした途端横暴となり、武田恕鑑を殺害、恕鑑の嫡子・信隆が北条氏綱に支援を求めた。しかし、この武田一族に内乱が発生し、武田信隆の異母弟信応が信隆に反目、親の仇・足利義明と手を結んだ。足利義明は信隆が拠る峰上城を北条方から鞍替えした里見義堯とともに攻めた。北条からの援軍むなしく峰上城は落城。信隆は金沢(現横浜市金沢区)まで逃げる。
 これに対し北条氏綱は、1538(天文七)年10月に、足利・里見連合軍と下総国・国府台にて戦った。里見義堯は勝てる布陣を敷いていた。しかし、足利義明が血気に逸り、前線に出過ぎたため北条の軍に討ち取られ、大将がいなくなった連合軍はあっという間に散ってしまい、里見義堯は安房に敗走を余儀なくされた。この国府台では、後年も北条と里見の間に戦が起こったため、この1538年の戦いを第1次国府台の戦いを称している。


里見義豊サトミヨシトヨ
生没年:?〜1534.4.6
名前:竹若丸→里見義豊
官位:

 父・里見義通の晩年の子とされる。その父が死ぬと、幼少故に叔父・実堯が一時的に家督を継ぐ。家臣の補佐あって無事成長した義豊ではあったが、叔父が家督を自分に譲らないのではないかと疑い、1533年、稲村城に実堯を攻めこれを殺し、里見家を継ぐ。しかし、従兄弟にして実堯の子・義堯が北条氏綱の援を受け安房に攻め入って来る。真里谷武田氏と結びこれに対抗しようとしたものの、犬掛にて義堯に破れ敗死した。


里見実堯サトミサネタカ
生没年:?〜1533
名前:
官位:

 兄・義通の死に伴い、まだ幼い甥に代わり家督を継ぐ。足利義明に従い各地へ出兵、鎌倉へも進出したとされる。しかし、元服した・甥の義豊が自分に家督を譲らないのではないかと危惧し、実堯は稲村城で殺されてしまう。


里見義堯サトミヨシタカ
生没年:1512〜1574.6.1
名前:
官位:刑部大輔

 里見氏は清和源氏新田流とされている。新田氏の家なのになぜ二ツ引両の紋であるかというと、足利尊氏に属して戦功があったかららしい。
 父・実堯を従兄弟の義豊に殺された義堯は北条氏綱の援を受けて義豊を倒し、里見家当主となる。当主になってからは、小弓公方の足利義明に従い、旧恩ある北条氏綱と戦う。その足利義明とともに国府台において北条軍に合戦を挑むが、前線に出過ぎていた足利義明が北条軍に討たれると軍は支離破滅。義堯もやむなく安房に退却する。慎重に慎重を重ねて勢力を上総にまで伸ばす。居城を久留里に移し、上総における勢力安定を狙う。1562年には家督を子の義弘に譲っている。1564年の第二次国府台合戦に負けたものの、三船台の合戦において房総における覇権は確実となる。
 里見家はなぜかいつも北条にやられっぱなし、という印象が強いが、実際には、海戦では北条水軍に圧勝しているし、陸の戦いでも結局は北条の攻勢を凌ぎきった。その理由は、穏便に家督を継ぐことが出来た氏康と違って、家督争いまで演じて家督を実力で勝ち取った経緯のある義堯の苦労があるのではないだろうか。


北条氏綱ホウジョウウジツナ
生没年:1486〜1541
名前:
官位:左京大夫、相模守

 父・伊勢新九郎長氏の死後、北条家当主となる。
 家督を継ぐと、以後北条滅亡まで続く虎朱印の使用開始、北条姓に改姓・同じく家紋の変更、小田原城を本城とした支城ネットワークの確立、と身内をがっちりと固めた。
 そして、父の代からの継続である対上杉氏に力を注いだ。江戸城を奪取し、岩付城をも手中に納めた。しかし、常に優勢というわけでもなく、一度なぞは玉縄城侵攻を許したり、岩付城を奪い返されたりしている。また、房総の里見実堯も強力な水軍力で相模に迫ってきて一度なぞは鶴岡八幡宮が炎上している。
 しかし、氏綱は上杉氏以外の勢力とも果敢に戦った。里見家の御家騒動で味方してやった里見義堯が敵方・足利義明につくき、房総の武田氏の内紛問題で煮え湯を飲まされるも、国府台の地でこれを破って(第一次国府台の戦い)、小弓公方・足利義明を討ち取った。はたまた、甲斐武田氏と、義元の家督相続後父・早雲以来の友好関係が崩れた今川氏と戦い、河東一乱に勝利。冨士川以東を再び北条家のものとした。
 さらに1535年にはついに念願の河越城を奪取した。里見実堯との抗争で焼失した鶴岡八幡宮の再建をしてのけ、関東に覇を示威したのちに、氏綱は死んでいる。子・氏康以降の北条家に、「お家の基礎」を残して。


インデックスへ戻る
掲示板へ戻る