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前田利家マエダトシイエ
生没年:1538〜1599.閏3.3
名前:前田犬千代→前田又左衛門→前田利家
官位:中納言、大納言
織田信長のうつけ時代の近習。信長には「寵愛」もされたらしい。派手な格好で町をうろつく、馬を駆ける。いざ戦となれば朱槍で奮戦。稲生の戦いのときは目に矢が刺さったのにかまわず、敵将の首を討ち取っている。それが利家の青春時代だった。
そんな日々に終わりを継げる事件が起こる。刀の笄を盗んだ同朋衆・十阿弥の処罰を信長に願ったが、信長に拒否された利家はわざわざ信長の目の前で、十阿弥を切り捨てたのである。処罰の拒否に対する、「傾き者」の意地である。信長は又左を斬ろうとしたが、柴田勝家らに止められ、又左を放逐するにとどめた。
帰参を願う利家はまず、桶狭間の合戦において単身、今川軍に斬りこみ、首を挙げるが、信長はそれでの帰参を拒否。続く森部の戦いで「首取り足立」を討ち取ったことによってやっと帰参が許されるのであった。この、浪人時代が以後の利家に大きく影響を与えた。
帰参後は、赤母衣衆の一人として各地を転戦、戦功を数多く上げている。その後は、柴田勝家組下として北陸方面の攻略を勝家と共に行っている。
本能寺の変が起こった。嘗ての上司・勝家と、犬千代時代からの親友・秀吉との仲が悪くなった。地理的な経緯から柴田軍として参戦した賤ヶ岳の戦いにおいて利家は苦悩する。その利家が取ったのは「戦場離脱」であった。浮き足立つ柴田軍、そして勢いに乗った羽柴軍が柴田軍を追う。そして城に帰った利家を、北ノ庄への岐路の途中の柴田勝家が立ち寄り、利家を責めるどころか温かい言葉まで掛け自らの不甲斐なさをわび、そして、人質も返した。そして、北ノ庄城攻略へ向かう途中の秀吉が次に立ち寄り、嘗ての友が敵についたことを咎めることなく、利家を友として自らの軍団に引き入れたのであった……ああ、なんと美しい話だろうか(ここで史実では云々、前田利家は秀吉政権下での保身を考えて下った……と現実的な話が割り込んでくるが、美談は美談として心に留めておきたく思う)。
利家は豊臣家臣として、豊臣政権の安定に努めた。秀吉は、家康に対するコマとして、利家を優遇した。利家の死後、家康に対抗して向こうを張って対抗しうる存在はいなくなった。秀頼の下で全てを指揮できるだけの戦績と人望と格のある人間が豊臣家からいなくなってしまったのである。
※利家死後の記述をリライトしました(2006.11.29)
松永久秀マツナガヒサヒデ
生没年:1510?〜1577
名前:
官位:弾正忠、弾正少弼
三好家臣として仕える。
しかし、この男の行動は「梟雄」として「戦国最強」である。では、その彼の輝かしい?行跡をたどって行くとしよう。
まず、主君の弟を讒言し、主君と弟の関係を悪化させる。継いで同僚を讒言失脚殺害。主君の嫡子を毒殺し、その失意で病む主君に、讒言し、もう一人の弟を殺害させる。そうしてその主君は死んでいった。ちなみに、「その主君」とは三好長慶のこと。細川晴元を下剋上した男として名高い。
ついで、三好三人衆を唆し、将軍・足利義輝を殺害させる。将軍職についた3+15+15の将軍のうちで、剣を取り闘った挙句にぶっ殺された将軍は義輝一人である。
さらに、戦いで大仏殿を焼き払う(もっともこれは、偶然、というのもあったらしい)。
これだけの行為をしてのけた久秀も、ここでうち止め。なぜなら、久秀なんか目じゃない奴が現れたからである。その人物の名は織田信長。そして、彼が背負ってきたのは嘗て殺した将軍の弟・足利義昭。その義昭は、自分をも殺そうとした久秀の処刑を願うが、久秀が「九十九髪茄子」を信長に送ると信長は久秀を許してしまう。「毒には毒の使い方がござる」と、久秀の悪意を注意して上手に使うのが信長流なのだった。この久秀と信長はなぜかウマが合った。金ケ崎から退却するときも「いつでも一緒」 裏切り防止のためとも言うが、朽木元網を口説き、味方にさせることに成功している。
一度不穏な行動をしてみたがそのときは許されている。しかし、やはり、義理堅さでは上杉謙信の対に立つ松永久秀。謙信上洛のときに居城・信貴山城に篭もる。このときも信長は「平蜘蛛」を譲れば許す、といっている。しかし、その茶釜を渡すことなく、信貴山城で自刃した。その自刃は「爆死」であったともされている。また、中風の発作が出ないように頭の百会のツボに灸をすえていたとか・・・梟雄らしい死に様を見せたものの、それだけであったことは言うまでもない。
※「将軍職についた3+15+15の将軍のうちで、ぶっ殺された将軍は義輝一人である。」という記述に対し、「源実朝も暗殺されているので、二人目では?」という御指摘を頂きました。足利義輝の項以上の意味はありませんしたが、分かりにくい表現でしたので“剣を取り闘った挙句に”という語句を付け加えさせて頂きました。御指摘有り難う御座いました。(2004.8.9)
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