す/戦国時代人物名鑑


陶晴賢

読み:スエハルカタ
生没年:1521~1555
名前:陶隆房→陶晴賢
官位:中務大輔、尾張守

 陶家は周防守護代の家柄。若き大内義隆の後見人であった父・興房の後を継ぎ義隆に仕える。毛利家の吉田郡山城が尼子軍に攻められたときは大内の援軍の将として尼子軍を倒すことに成功。これに続く出雲出兵では先陣切って働くが敗北。これ以降・主家大内家は文治政治による貴族・軟弱化の色を強める。
 その風潮に、冷泉隆豊らとともにこれを諌めるが聞き入れられず、ついにクーデターによる改革を決断。隆房謀反は3年に渡って噂されるも、主君義隆は己を討とうとしない。ついに、1551年、義隆側近、相良武任を排除、主君大内義隆を大寧寺で自害させ、大友家との密約にしたがい、大友宗麟の弟・大友晴英を大内家養子に迎いいれる。これを機に、隆房は晴賢と改名、大友晴英は大内義長と名乗った。
 しかし、この大内家の内乱を遠くから見ていた毛利元就は、静観のふりをして影では偽密書による工作(ただし、陰徳太平記の話で信憑性は若干薄い)で、重臣江良房栄を晴賢に殺させたりしている。石見遠征中に、毛利軍は厳島周辺を奪取。毛利元就は厳島に城を築くが、「厳島の宮ノ尾城は重要な拠点じゃ」といっていた舌の根も乾かないうちに「厳島に城を築いたのは間違いであったかのお」とまわりにぼやく。陶の間者がいる前であった。また元就は重臣・桂元澄を偽装内通させ、陶軍の目を厳島にむけることに成功。厳島を攻めた陶軍。しかし城は落ちない。そのうちに毛利軍は嵐を衝いて村上水軍の協力により島に渡り陶軍の背後に廻ることに成功。奇襲された陶軍になす術はなく、五倍もの兵力差はあっという間に覆った。晴賢は自刃し、大内家は2年後滅亡することとなる。


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