加藤清正カトウキヨマサ
生没年:1562〜1611
名前:虎之助→加藤清正
官位:主計頭、侍従、肥後守

 秀吉のまたいとこ。その縁で豊臣家に仕える。福島正則らと同じく北政所ねねの温かい目のもとで育つ。
 賤ヶ岳では「七本槍」として名を馳せるが、その七本槍として一人、福島正則だけが5000石をもらったことに対し、秀吉に抗議している。それだけ、血縁武将が少ない秀吉の片腕に早くなりたい、という願望があったのである。その願望を秀吉夫妻が見て取ったか、佐々成政失政後の肥後を半国・25万石を任される。成政の失策のツケで起こった一揆に対して自ら軍隊を発し先頭に立ち、肥後の国人衆に「この殿様にはかなわない」と思わせ、次々と靡かせたりしている。
 ここまで順調に思えた清正の「秀吉の片腕家臣化」だが、ここに大きな障害が現れる。文治派の台頭だ。経理に長けたものが多い文治派には、商売が古くから盛んであった近江出身のものが多かった。元来、秀吉の小姓衆には、男色を好まない秀吉が長浜城城主になってから当時の習慣に合わせて作られた経緯があり、小姓衆のメインは清正・正則らの秀吉出身地・尾張の血縁知己らのグループと、浅井家の遺臣らを含む近江で新規採用されたグループとがあった。豊臣家が大きくなるにつれ、豊臣家にも秩序云々が必要となってきたのである。経理や庶務をこなす者達も必要だ。その者達こそ、石田三成らであったのだ。
 秀吉の大きな夢、朝鮮出兵。先鋒として朝鮮に渡海する清正。清正は2番隊だが、1番隊を務めるのは同じく肥後・半国の領主小西行長。彼は石田三成と仲が良かった。彼らは、豊臣家の恩為こそ、この朝鮮出兵を取りやめ、朝鮮との交易をしたがったのである。しかし、清正は違う。秀吉の夢をかなえることこそ忠義であった。そう思い強硬論をとりつづけた。そして、二王子を捕らえるなど大殊勲を上げた。しかし、秀吉の身辺を囲む奉行衆である石田三成はそれを好むわけがない。そして清正の功は曲げて報告され、秀吉の怒りに触れた。召還され、蟄居させられた。豊臣家のために戦ったのに、なぜ内地でぬくぬくしている石田三成に(実際には兵站輸送の庶務で忙しくはあるが)こんな目に合わされねばならんのか。そう思いつつも豊臣家への忠誠心だけは変わらず、伏見の大地震が起こったときは蟄居謹慎も忘れ秀吉のもとへ一番に駆け付け、秀吉の怒りを解いている。
 朝鮮出兵は再戦となり、再び渡海した。苦戦であった。蔚山城ではあわやのところまで追い詰められた。そして、再戦中に秀吉は死んだ。
 文治派と武功派、近江閥と尾張閥、そして秀吉の遺児秀頼の生母・茶々(淀君)の派閥と秀吉の正室・北政所につく者たちの対立は押さえようもなかった。清正を出迎えた三成にが「あとで茶の湯でも馳走しよう」というと清正は「我ら長き先陣で米も、酒も、ましてや茶などあろうはずもない。稗粥でも炊いてお返しいたそう」 対立は決定的だった。そして、清正・正則ら7将は三成追い落としに成功するのである。
 その三成が豊臣家中心の絶対王政を夢見て立ち上がった。清正は現実的であった。家康に天下を取らせ、豊臣家は2・3国の太守として存続させようと考えていた。小西行長の居城・宇土城を囲み、1600年9月15日の関ヶ原決戦後には西軍についた立花宗茂に降伏を勧めている。家康に肥後全国を与えられると、徳川家への恩も考慮した。福島正則の「お手伝い普請」へのぼやきを諌めた。清正は、豊臣家へと徳川家へとの忠義を両立させたのだ。先の考えから二条城での徳川家康・豊臣秀頼会談を反対する淀君を押し切り強行した。会見の成功に安堵したか、徳川方に会見中の異常警備を怖がられ暗殺されたか、その後清正は突如死んでいる。
 彼が築いた熊本城は、南の島津軍を打ち破るためとも、秀頼を迎え入れて天下の軍と戦うためともとれるような「対大軍」を考慮した名城である。寡兵で戦うことしか考えていないような姫路城の縄張りとは違う。朝鮮出兵時に朝鮮で見てきた石垣技術がくみこまれている。ゆえに350年後の西南戦争のとき、近代兵器を持つ薩摩軍の猛攻をしのいだのである。


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