完全戦国年表10周年特別企画

「完全戦国年表」誕生の真実

~私はなぜ「完全戦国年表」を作ったか~

 

私が「完全戦国年表」をはじめて作ったのは、1995年の3月のことである。Webサイトとしての開設は1997年1月なのでそれにはまだ時間があるが、私にとっては感慨深いものがある。

 

私がなぜ「完全戦国年表」を作ったのか。公式には「完全戦国年表について」でこのように書かれている。

 

当時中学生だった私は、どの戦国時代の年表を見てもせいぜいその出来事が起こった月までしか載っていなくて不満でした。「なら自分で作っちゃえ!」と思って作ったのがこの『完全戦国年表』です。私の手に入れられる範囲では、この程度の年表でも「完全」と思えたので、『完全戦国年表』と名付けた次第です。

 

事実、中学生の私が手に入る資料では、いや世の中の多くの年表は「年」表なだけあって、月までしか書かれていなかったり、最悪の場合月日が全く書かれていない。私は、何月何日に起きたのかまで知りたかった。見つからなかったので、苦労して調べたというのが事実ではある。その上で、今の暦で何月何日なのか、季節はいつなのか分かりやすくしたのが現行の「完全戦国年表・第三版」なのである。

 

私が「完全戦国年表」を作った後、「クロニック戦国全史」という私が求めていたような本が出た。高いけど、ゲーム1本と同じくらいの値段なので買えなくもなかった。これが出ていれば「完全戦国年表」を作ろうという気にはならなかっただろう。

 

しかし、私が「完全戦国年表」を作った動機としては、そういった知的欲求の面だけがあるのではなかった。私自身の内面的な精神上の問題があったのである。今まで、そのことを語ることはなかったが、完全戦国年表10周年を機に、ここにその経緯を公開するものである。

 

「完全戦国年表」の第一版は、ワープロ専用機で作成したものである。これが、現在のホームページで公開されている「完全戦国年表」のベースとなっている。「完全戦国年表・第一版」を作成したのは、1995年の3月のこと。当時、私は中学1年生であった。中学受験で入った中高一貫校であったので、高校受験はなし。とはいえ、当時の私は中学1年生にして留年に危機に瀕していた。私は、その不安を拭い去るために、「完全戦国年表」を作るという作業に打ち込むことにしたのである。

 

私も、小学校では成績は男子では1番か2番か3番か、僅差のないトップだったし、中学受験のために通った塾では1番上のクラスにはいた。中学受験では、第一志望の学校に合格することが出来た。

 

念願かなって入った学校、最初の授業で、私は軽く面食らった。前日までに、授業の前は必ず予習をと言われていたので、教科書はざっと見て臨んだ。だが、周りの人間は教科書の問題を一通りやってきていた。そこで明らかに差というかギャップだというか、のほほんと神奈川の片田舎で過ごしてきた自分とは違う、バックグラウンドをまわりに感じた。それは示唆的な出来事であっただろう。中1最初の中間試験では、得意だったはずの社会の片割れである地理で100点中38点だったか、10段階評価の4を取るという離れ業をやってのけた。その中学では45点未満が赤点なので、私は最初の試験から赤点を取るという類稀な栄誉を手にしてしまった。英語こそ66点だったかと思うが、それは私の中学・高校6年間を通じても屈指の高得点だったと思う。

 

英語は中学1年の定期試験から常に赤点を取り続けた。中学受験というのは国語算数社会理科の4教科だから、いくらそこで成績が良くても英語が出来なくなった時対処が出来ないのである。これは、中学受験の最大のリスクというべきかも知れない。高校受験をするのであれば、英語は文法のほぼ全内容を纏め上げてしまうのだから。数学も小テストでは0点の常連だったかと思う。理科も、1学期の好調さはすっかりやみ、2学期は1分野も2分野も赤点対象者の再試を受ける羽目になった。国語も国文法が不得手で、気がつけば主要5科目全部で劣等生だった。

 

それまで優等生だった私は、あっという間に中学で全く逆、前から1番か2番の成績が後ろから1番か2番かの成績になったわけだ。事実、中学1年の2月にあった実力試験(はじめて順位が出る試験)ではブービーから10点差以上つけてのダントツビリだったと思う。

 

年間の成績で赤点が2科目あると留年というシステムになっていた。先生の話では、なんと「私立なので」中学でも留年があるという。聞くところによると中1で進級できなかった例はないけども、中2から中3に進級出来ないで留年した例はあるという。実際、中学3年生をもう1回という人はたくさんいた(これは、地方でよくある「高校浪人」みたいなものかもしれない)。ただ成績が悪化するだけでなくて、私は中1にして留年の危機を迎えてしまったのだ。英語が破滅的にまずかったが、数学と理科も黄信号だった。大学ではともかく、高校以下で留年するというのは、同じ年度生まれで学年が違う人が決定的に少ない。高校を出るまでは、なかなか日本ではだぶることはイレギュラーなのだ。私は通学の時も、「留年したらどうしよう、どっか家出して崖から海にダイブしようか、どっか地方に養子にでも入ろうか」とかかなり真剣に悩んでいた。悩んで黄昏ている暇があったら勉強すればいいんだろうが、方法論が分からない、勉強できないから勉強したくないというお決まりの負のスパイラルにどっぷりはまっていた。

 

学年末試験が終わると、終業式まで「試験休み」としてずっと休みだった。担任の先生は「やばかったら電話しますから」と言っていた。それから終業式まで、私は電話の音におびえる日々を送ることになった。正直に告白しておけば、今でも電話のベルの音を聞くとドキッとしてしまう。それほどの恐怖の日々を送る羽目になってしまったのだ。

 

数日間は悶々と過ごした。何もせず、ぼーっと「なんでこうなったんだろう」って考えていた気がする。しかし、あまりにメンタルで不健全なのを感じ、ひたすらに何かに打ち込みたくなった。私は手元にある資料を集め、ワープロ専用機を部屋に持ち込み、戦国時代の年表を作り始めた。寝る間も惜しんで本をめくり、キーボードに打ち込んだ。予断だが、中学1年生当時はまだかな入力をしていたので、「完全戦国年表・第一版」はかな入力で作られたということになる。

 

4日間作業に熱中して、明日はいよいよ終業式という日の夕方、その日は前日なのでひたすらに電話がかかってこないことを祈って何もしないでいた。ついに担任から電話がかかってきた。電話がかかってきたということは留年したということかと絶望して電話を取ったが、「進級できましたよ」という連絡だった。落としたのは英語だけで済んだらしい……まあ、普通落とすほうがおかしいのだろうが。終業式で通知表を受け取ると、数学の評定は10段階の5だった。かなりきわどかったようだ。自分だけ担任の先生に呼ばれて「どうするのか」と面談されて、そこで泣いた記憶がある。

 

終業式が終わって、1日作業をしていよいよ印刷をした。春休みに、友人たち(そのうちの一人が、「南総里見之館」「LSN地域戦国史特化型リンク集」の作者であり、更新時にはたびたび「智秘図氏」として登場したもんがい氏である)にはじめて公開をした。「よくこんなんを作ったな」と言われた。

 

中2から高3で卒業するまで、成績はずっと不振だった。そのことは私に大きな翳を落とした。その話は本稿の本題ではない。実を言うと、「中学1年生から進級判定会議の常連だったんだよねー」という話は、一緒に卒業をした高校時代の友人たちには、まだ一度も面と向かって話したことはない。この原稿が、はじめての暴露となる。往時の私を知る人間には、まだまだ面白くは語ることが出来なかったのだ。高校を出て、ようやく学校に入ってから卒業までと同じ年数以上の年月が流れたこともあり、こうして公開する気分になった次第である。

 

この「完全戦国年表」は、「勉強」という知的なることに対して打ちひしがれた底辺から立ち上げるトリガーとなった。戦国時代への興味は、幕末、近現代史へと推移し、そこから政治・経済への興味へとつながった。また、日本史そのものへの興味が、文学背景・古典背景への理解へとつながり国語が持ち直した。歴史小説を読む習慣がついたことが、本を読む姿勢を作ってくれ、そこからあらゆる学問分野に対応できる力が養われた。「完全戦国年表」「MACHIDA PC MAP」の公開が、インターネットサイトでそこそこの成功をすることが出来、自信がついたし、Webサイト運営のノウハウを学んだり、Webテクノロジーへの興味へとつながった。項目を打ちこむ地道な作業が、一人で地道に行うことができるようになる足腰を作った。何よりも、自分でも周りに注目される分野が出来たことが、私が生き永らえさせてくれたと言っていい。「完全戦国年表」が私のコアとして働いてくれたのである。

 

「完全戦国年表」はおかげさまで、10年間のうち8年以上も「更新休止」状態であったにも関わらずまだまだ多くの方がご覧になられている。なかでも、学校からのアクセスが多い。教育関連のリンク集にも、多く入れて頂いている。歴史を学ぶ小学6年生、中学1・2年生のころに作成した「完全戦国年表」を、同じ年頃の子が見ているというのは、なにかくすぐったい気分だ。彼ら彼女らには、知ることの楽しさ、面白さを感じて欲しい。あまり、惨憺たる気分になることなく(笑)




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