モネ
「印象〜日の出」
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旅行で何日かパリに滞在した折に、「ジヴェルニーのモネの庭」を訪れてみた。パリからはバスで小一時間だ。ここはモネが1890年以降、自分の住まいとしたところで、年々土地を買い足して、池や庭園を造り、「自然のアトリエ」として活用していたところである。
大都会パリからほんの1時間走っただけで、窓からの景色はまるでどこぞの片田舎のようになる。水辺に建てられたノルマンディー建築の家なども見かけるが、なかなかこれは貴重な文化遺産らしい。
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モネが実際に住んでいた家は、現在博物館として保存されている。 壁面には、モネの存命時からそうだったのか、死後貼られたのか、あたり一面に「浮世絵」がかけられていて、モネの「ジャポニズム」への傾倒の深さを物語っている。
庭園に出ると、画家がよく描いていたしだれやなぎや、太鼓橋や、アーチ状に仕立てられた花壇や、さらには、庭園の隣の 川の景色など、モネのファンであれば、「ああ、あの絵の…」とすぐわかるよう風景がそこかしこに見られる。
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 そんな中でも、水面に浮かぶ睡蓮たちは、「これがモネが描きつづけた、あの睡蓮かぁ。」と感慨深いものがあった。
それにしても、236枚という数は半端なものではない。画家はよほどこの題材に興味があったのだろう。
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モネの画業の特徴のひとつに、「連作」があげられる。「睡蓮」のほかにも、「積み藁」や「ルーアン大聖堂」などのテーマにおいても多くの連作を残している。
モネ自身が「うつろいの効果」と呼んでいる、刻々と変わる光との効果を描き出すこと。画家にとっての生涯を通じてのテーマを実現するために、モネが行き着いたひとつの結論が連作という手法だったのだろう。
「積み藁」の好評が、モネに経済的な安定をもたらしたことから、ドガなどはこれら連作を、「売らんがための儲け主義」だと非難した。(実際モネは金銭には貪欲だったようだ)
しかし、ドガの批判が的を得たものかどうだったかについては、歴史によって証明されていると言えよう。 |
あえて海外まで行かずとも、
モネの絵を鑑賞できる機会は少なくない。例えば、この「睡蓮」は、「国立西洋美術館(東京・上野)」に展示されているもので、数多い睡蓮の絵の中でも秀逸なもののひとつに数えられるものだ。
画家の生きた時代がそれほど昔でないことに加えて、作品数も多いから、ちょっとした都内の展覧会などでもモネの作品が目玉として展示されている光景をよく見かける。
ただ、実のところ、私はモネに対しては、好きな作品も多い反面、手放しで賞賛する気にはなれない部分もあった。
私ごときがこんなことを言うのはおこがましいのだけど、壮麗な傑作たちにまじって、なんというか、気持ちの入っていないような、やや粗雑?な作品が散見されるような気がしていたのだ。
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もっともそれは、ひとつには私の浅学のためで、モネについての書物を読みすすんでいくうちに、画家が、時の経過とともにうつろいゆく刹那刹那の光とそれによって浮かび上がる対象を表現することに執念を燃やしていたこと、そしてそれらをキャンパスに封じ込めるためには、一枚あたりの仕上げは速筆にならざるをえず、そのための技巧を、生涯満足することなく追い求めていたことなどを知った。
また、晩年の筆致が曖昧模糊としたものが多くなる原因のひとつには、興味の対象がより物の輪郭から光にシフトしたことに加えて、モネ自身が白内障を患っていたということもあるのだと知った。 |
ただ、モネが、多くの賞賛と同時に、多くの議論を呼ぶ画家であったことは確かだ。「モネなど愚物だ。」と言い放ったジョルジュ・ブラックなどは極端な例といえるが、
「モネはただの『眼』にすぎない。しかし、なんという『眼』だろう!」
というセザンヌの有名なモネ評も、「ただの『眼』にすぎない」という言い回しになんとなく含みがあって、単なる賞賛に終わっていないところが面白い。
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広義の「印象主義」の画家には、今日名を残している多くの画家が含まれている。
モネ、ルノワール、ピサロ、シスレー、スーラ、ゴッホ、ゴーギャン、セザンヌ…
中には、ルノワールのように、途中から「宗旨変え」した人もいれば、ドガやマネのように、よき理解者ではあったけれど、自分自身の作風は異なっていた人もいる。実際のところ、「印象派」の定義については、議論の分かれる部分もあるようだが、おそらく、モネについてだけは、「印象派の画家」と呼ぶのをためらう人はいないだろう。なにしろ、「印象派」の名前自体が、彼の絵画に由来するわけだから。 |
「印象派」「印象主義」の名のルーツとなった名画「印象〜日の出」は、パリのマルモッタン美術館にある。
パリ市街の西端、ほとんどブローニュの森の近くに位置しているこの美術館は、地図で見ると不便そうだが、地下鉄が通じているため、アクセスはそう面倒ではない。かって貴族の邸宅だった建物は、1時間もあれば十分に見て回れる広さで、他の観光スポットと離れているせいか、比較的空いていて、のんびりゆったりと時を過ごせるのがいい。
この「印象〜日の出」は、モネが34歳のときに描いた、故郷ル・アーブルの港の風景で、1874年に開かれた有志による展覧会--のちに第一回印象派展と呼ばれる--に出品された5点の作品のうちのひとつだ。
キュービズム、フォービズムや抽象絵画などまでも見慣れた私たちにとっては、この絵はもはや少しも奇異には映らないけれども、当時の批評家の目にとっては、そうはいかなかったらしい。 |
朝もやの中を太陽が昇るまさにその一瞬の光景を描いたモネの筆致は自由闊達で、物の輪郭は漠然としていて、港に浮かぶ船などは大胆に簡略化され、朝もやの向こうの風景はまるで一筆書きのようだ。対象をいかに二次元世界に忠実に再現するかが評価の最大の指標となっていた当時の美術界において、モネのこの絵は理解しがたいものであったのだろう。
当時の風刺新聞「シャリヴァリ」誌の批評家「ルイ・ルロワ」はこの絵を「描きかけの壁紙の方がましだ。」と酷評し、タイトルの「印象」という名称を嘲笑した。しかし、そのことが、「印象派」
という命名のきっかけとなり、この凡庸な批評家もそれをもって歴史に名を残すことになったのだから皮肉なものだ。
「印象〜日の出」が盗難の憂き目にあったのは、1985年のことだ。絵は4年後、無事な姿で発見された。犯人は、あまりに画題が著名すぎて、さしもの闇ルートでもさばくことができずにいたらしい。それでコルシカ島でくすぶっていたところを御用となったとか。
これもまた「印象〜日の出」が、1世紀を経て、いかに美術史上重要な位置を占めるにいたったかを証明するようなエピソードだといえよう。
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