モディリアーニ
 〜 黄色いセーターのジャンヌ・エビュテルヌ
  
モディリアーニの描く絵を見るたび、最初のうちは、不思議な絵だなあと思っていた。
黒目のない顔、妙に長くくねった首、静謐なようでいて、どこか躍動感のある画面。
彼がもともと彫刻家志望だったと聞いて、なるほど、と合点がいった。一見平面的でありながら、彼の絵にはノミで削ったような立体的、彫刻的な趣があるのだ。

モディリアーニの描いた女性の肖像画は数多くあるが、もっとも有名なのは「ジャンヌ・エビュテルヌ」の一連の肖像画だろう。24枚という数自体、いかにこの女性がモディリアーニにとって、大切な伴侶だったかをあらわしている。
エコール・ド・パリと呼ばれる20世紀初頭のパリで、モンパルナスのカフェに入り浸り、酒とクスリとで自らの命をそれこそ彫刻のように刻々と削りながら、命の炎を燃やした破滅型の画家モディリアーニ。その生涯の後半を支えたのが、この女性だ。 ジャンヌ・エビュテルヌは当時19才の画学生で、青色の切れ長の瞳が美しかったという。どこかの画集で残された彼女の写真を見たが、美しさに隠れた、どこか物憂げな表情が印象的で、美男として名を馳せたモディリアーニと連れ立ってパリの街を歩けば、道行く人も振り返ったことだろうと思う。

二枚ほど、私は、黒目の書き込まれたジャンヌ・エビュテルヌの肖像画を知っている。美しい肖像画だが、その絵を見ると、逆になぜモディリアーニが多くの人物画に黒目を入れなかったのかが判るような気がする。黒目の書かれたその肖像は美しいけれども、どこか日常の鎖から解き放たれていないのだ。一方、翡翠のような淡い青色で塗りつぶされた瞳のほうは、一見無表情なようで、それでいて、鑑賞者により幅広いイマジネーションをかきたてさせる。ひとりのモデルとしての存在を超えた普遍性。そんなものまで感じると言ったら誉めすぎか。
多くのジャンヌ・エビュテルヌの肖像画の中でも、私は最晩年に書かれた一枚(左図)と、グッゲンハイム美術館の「黄色いセーターを着たジャンヌ・エビュテルヌ」にもっとも惹かれる。渋いエンジのトーンがえもいえぬ哀愁を誘い、上体をひねったポーズと斜めに描かれた背景が安定した中にも不思議な不安感をあおるこの絵は、個人蔵ということで、モディリアーニ展でも開催されないと、鑑賞できる機会がないのが惜しい。

一方の「黄色いセーター〜」は美術書などでよく目にすることもあって、ニューヨークを訪れた際はぜひ本物を見たいと思っていた。ところが十年近く前、初めてニューヨークを訪れたときには、メトロポリタンやNOMAを見て回るうちに時間がなくなって、結局実物を見れずじまいだった。なので、翌年、再度ニューヨーク出張の話がふって沸いたときには、今度こそ、と意気込んだものだ。
グッゲンハイム美術館はメトロポリタン美術館からは目と鼻の先。ほんの一区画クルマを走ると、セントラルパーク沿いに、かたつむり型のモダンな建物が見えてくる。美術館の中はらせん階段状になっていて、通路のところどころに、キャンディがオブジェ状に山高く積まれたりしていて、いかにもモダンだ。ところが、上から下まで探し歩いても、どこにもこの絵が見当たらないのだ。掃除をしていた従業員の女性に聞いたら、「In the Storage」だという。
まさか。こんな名画を倉庫には入れていないだろう。きっとどこかに貸し出し中なのだろう、と諦めて帰ってきたが、縁とは不思議なもので、帰国後しばらくして、休日にたまたまぶらりと入った展覧会---今では名前もどこで開催されていたかも忘れてしまったが、おそらくエコール・ド・パリ展のようなものだったのだろう---にこの絵が飾られていたのである。
展示場所が出口のすぐ手前だったためか、この絵の前で足を止める人は多くなかった。しかし、実際に目の当たりにする、黒目のない瞳は、美術書で見るよりもずっと深い光をたたえていて、私に時間を忘れさせた。

そこの売店で買ったこの絵のテレフォンカードが、今、我が家のテレビ台の上に鎮座している。テレカだってきちんとした額に入れればなかなかシャレたインテリアになるというものだ。
モディリアーニに目をかけ、彼のことをいろいろと面倒を見ていた画商ズボロフスキーは、画家の結核の悪化を知って、1917年の夏に彼をジャンヌとともにニースに保養に連れて行った。この肖像画はそのときに描かれたものらしい。上の一枚に比べると、画面はずっとおだやかにまとまっており、構図も自然で、明るく安らかなイメージがあるのはニースの陽光によるものかもしれない。

セーターのやわらかなふくらみが示すように、ジャンヌはこのときモディリアーニの子供を身ごもっていた。しかし、彼と彼女の結末を知っている私たちは、どうも物事を運命論的に捉えてしまう。本来幸せに満ちているべき画面の中にも、どこか郷愁を誘うような物憂げな表情が見て取れるのは、ジャンヌに、あるいは描いていたモディリアーニの方に、遠からず訪れる運命のかすかな予感でもあったのだろうかと。
肺結核が悪化したモディリアーニはこの1年後、ついに帰らぬ人となった。享年35才。このときすでに二人目の子供を宿していたジャンヌ・エビュテルヌは、医者を呼ぶことすらできずに断末魔の画家を呆然と見守るばかりだったという。そして身重のジャンヌ自身もまた、モディリアーニの死の2日後に、ビルの5Fから身を投げて、彼の後を追った。
当初から二人の仲に反対だったジャンヌの両親は彼女がモディリアーニと同じ墓に入ることを許さず、彼女は共同墓地に葬られた。ジャンヌがペール・ラシェーズにあるモディリアーニの墓の隣に葬られることになったのは、その5年後だったという。墓碑には「すべてを捧げたアメデオ・モディリアーニの献身的な伴侶」と刻まれているそうだ。
天才画家との偶然の巡り合いゆえ、わずか21年で閉じることになったの彼女の一生は、芸術の息吹華やかなりし時代のパリの悲恋の物語として、今後も語り継がれていくだろう。しかし、モディリアーニによるこの肖像画はそのようなセンチメンタリズムを越えた高みにあると私は思う。画家の死後、皮肉にもその名声は確固たるものとなり、ジャンヌもまた、愛する人のキャンパスの中で永遠の生を得ることとなったのだ。