ゴヤ
  〜ボルドーのミルク売り娘
今回は少しだけワインに関連した絵である。表題の「ボルドーのミルク売り娘」が描かれたのは、1827年。ゴヤが死の床につく数ヶ月前のことだ。ゴヤとボルドーと聞いて、ピンと来る人は相当の絵画通だろう。実はゴヤが人生の最後の時を過ごしたのが、かのボルドーの地なのである。

ゴヤといえば、「裸体のマハ」「着衣のマハ」や「カルロス4世とその家族」などの傑作たちがまず頭に浮かぶが、今回は主として「黒い絵」に代表される彼の後半生にスポットをあててみたい。
ゴヤの生涯は波乱に富んでいる。鍍金師の息子として生まれた彼は、17歳の年に野心に燃えてマドリードに上り、紆余曲折を経て、43歳にして宮廷画家の地位を手に入れる。しかし、4年後、突然の高熱に襲われれて、聴覚を喪失、以降の生涯を静寂の中に生きることになった。そしてこのことがその後のゴヤの画風に大きく影響する。その後、社交界の花形アルバ公爵夫人とのスキャンダラスな関係〜今で言うところの不倫?〜があったり、不安定な政情の元でのしたたかな世渡りを経て、主席宮廷画家の地位まで上りつめるが、1819年、73歳の時に、マドリード郊外の自ら「聾者の家」と呼ぶ別宅に隠棲する。そしてこの隠宅の壁に書かれた14枚の絵が「黒い絵」と呼ばれるものだ。
広いプラド美術館の中を駆け足で回るのは惜しいが、時間がなかった私はかなり急ぎ足でこの美術館を見て回らなければならなかった。スペイン絵画を中心にした2階の明るいフロアから、一階の南端のフロアに下りると、そこだけ、突然、暗い、一種異様な空間が現れる。ここはゴヤの「聾の家」の内壁を再現しているのだ。「黒い絵」は元来、しっくいの壁の上に油絵の具で描かれた壁画だが、1873年、当時の「聾者の家」の所有者であったデルランジェー男爵の意志で、キャンバスに移された。
「黒い絵」の中でも、おそらくもっとも有名なのが、衝撃的な「我が子を食らうサトゥルヌス」だ。サトゥルヌスはユピテル(ゼウス)の父である。彼は自分の子が彼の支配権を奪うという予言を聞き、生まれる子を次々と貪り食った。(幸いにもユピテルは母レアの機知に救われ、野の精であるニンフたちに育てられる。)ゴヤの描く獰猛な食人鬼のようなサトゥルヌスは、血に染まる子供の肉体の生々しさとあいまって、見るものに総毛の逆立つような戦慄を覚えさせる。しかし、画題の恐ろしさだけに気をとられてはいけない。たとえば右足の部分。陰影となる部分は地の黒をそのまま残し、まるで書道のような筆致で最低限の彩色をほどこしている。まるで、剣の達人が、文字通り「紙一重」で相手を寸断するかのような、驚嘆すべき筆さばきだ。
それにしても、この絵が、画題どおり?食卓の壁に描かれていたとは、ゴヤの心の闇の深さはいかばかりだったのだろうか。
「魔女の集会」(上)「サン・イシードロ祭」(下)も同じ一階食堂の壁面を飾っていた作品で、いずれも「黒い絵」と呼ばれるにふさわしいおどろおどろしい画面だ。ここに描かれた人間たちの見るからに醜悪な表情は、腐敗したスペイン宮廷の人間関係の中に身をおき、それらをつぶさに観察してきた晩年のゴヤだからこそ描き得たひとつの境地といえるだろう。
二階のサロンに飾られた「スープを飲む二人の老人」の主題は不明。左の老婆がスプーンを指差し、右の骸骨のような老人が分厚い本をを指差しているところから、知識人を嘲笑し、物質主義を笑う図かもしれないと解釈する評論家もいる。
「犬」は「スープを飲む二人の老人」と並んで二階のサロンに飾られていたものだ。画面の犬は砂に埋もれているとも、濁流に流されまいと泳いでいるともいわれる。そのシルエットは上を見上げて何かおびえているかのようである。背景の右側にはなにかが描かれているようだが、判別は難しい。
「殴り合い」は画面こそ明るいが、そのペシミスティックさは「黒い絵」の中でも屈指のものであろう。膝まで土に埋まり、身動きの自由を奪われた二人の農夫が血まみれになりながら棍棒で殴り合っている図はゴヤ自身の啓蒙思想と愛国心との葛藤を表しているとも言われている。

本来ならば画家が心身ともにもっとも寛げる場所であるはず隠宅の壁に、誰に見せるでもなく、自分のためだけに描いた、おどろおどろしくも恐ろしい一連の絵画。このような絵をゴヤに描かせしめたものは一体なんだったのだろうか。
(この項続く)