超不定期更新コラム |
R・パーカー賛歌 |
まだ梅雨は開けていないというのに、この暑さはどうだろう。 こうしてみると、比べること自体がナンセンスだと頭では理解しつつも、改めてワインって高価な酒だなあと思ってしまう。ワイン消費の裾野が広がった昨今においては、コストパフォーマンス面でビールと渡り合えるような1000円内外の美味しいワインももちろんあるけれども、「ハズレ」の少ない、価格と味わいのバランスのとれた価格帯となると、個人的にはどうしても3000〜5000円のランクのワインに手を伸ばしたくなる。そしてビール1ダース分という(私にとっては)高額な対価を支払うのであれば、ますますハズレのない、美味しいワインを選びたいとの願いも強くなる。 かくしてワイン誌の評価や評点の出番となるわけである。 このコラムをお読みの方で、ロバート・M・パーカー氏というワイン評論家の名前を知らない人は、ほとんどいないだろう。 愛好家の中には、熱烈にパーカー氏を支持する人もいれば、逆に「パーカーなんて大嫌い!」と蛇蠍のごとく嫌う人とがいる。 パーカー氏を批判する人たちの主張は、概ね以下のようなものだ。 1.パーカー氏の影響があまりに大きいため、多くの作り手が彼好みのワイン作りを志向するようになった。そのため、各地の個性が薄れ、没個性的な同じようなワインが出回ることになった。 2.官能評価であるワインの味わいについて、100点法という評価尺度を用いることはおかしいのではないか。「基本点50点+外見○○点+香り○○点+味わい○○点」という算出方法もナンセンスだ。 3.そもそも彼自身の嗜好が偏りすぎている。「濃くて力強い」ワインを誉める一方で、繊細さを持ち味にしているようなワインの良さを理解していない。また、ブルゴーニュなどについては、若飲みを推奨し、古酒のすばらしさをわかっていない。 さて、この中で、1番目の批判については、パーカー氏本人に向けられるのは筋違いというべきだろう。問題は、「パーカー氏の影響力が強すぎる」ことではなくて、パーカー氏のみが突出した人気を得てしまっているワインジャーナリズム全体の問題であり、さらには安易に彼の好みに迎合しようとする作り手の姿勢であろうと私は思う。 2番目の批判については、たしかに難しい面もある。 いずれにしても、彼の嗜好や評価は常に一貫性があることは多くの人が認めるところであり、彼の好みというものが皮膚感覚的にわかってくると、パーカー氏が高得点をつけているものであれば、概ねこのようなワインに仕上がっているのだろうという予測が可能になる。もちろん、それが自分の好みと合致するかしないかは別問題なんだけど、その中で自分の好みに比較的合致するジャンルについては大いに参考にすればよいし、そうでないものについては参考程度にとどめておけばよいのだ。 3番目の批判については、最初の批判とリンクしてしまうのだけれども、味の好みというものは誰にでもあることであって、たまたまパーカー氏の場合、「濃くて樽のフレーバーの効いた力強い」銘柄が好きだということなのだろう。逆に「しとやかで精妙にバランスがとれている」銘柄をなにより高く評価する評論家筋が支持を得て、同様の影響力を持つに至ればバランスがとれるというものだ。 ところで、私はパーカー氏に関する議論については、こうした個々の事象について語られるよりも、彼がここまで支持を得るに至った背景こそが注目されるべきだと思っている。 ワインがお金持ちのものに限定されていた時代。すなわち何千本ものストックや巨大なワイン蔵を持ち、グランヴァンをデイリーワインとして飲み、購入時はケース単位で購入するような富裕な人たちは、飲んだワインがたまに期待はずれでも、いちいち目くじらをたてることはなかっただろうし、年代ものの古酒が逝ってしまってた時だって笑って許せるぐらいの余裕があったろう。したがって、そんな客層を相手にするワインジャーナリズムの側も、作り手の評価については、あまり追い込みすぎないというか、ある種ファジーな部分を残しておいても許されるおおらかさがあったと想像する。 しかし、時が流れて、ワイン愛好家の裾野が広がり、少しでも安くて良いものを購入しようと、セールの情報に網を張り、高価なワインはワイン会など仲間内で分け合い、衣食住を削ってまでもワイン購入に走るような、そんな1本たりとも無駄遣いをしたくないと考える(私たちのような)庶民愛好家が増えるにつれ、パーカー氏のような、ある意味合理性に裏打ちされた、またある意味情け容赦ない、徹底的に消費者の立場にたった評価尺度というものが彼らのニーズにマッチするようになったのではあるまいか。 まあ、いずれにしても、毎日1万本ものワインをテイステイングし、新たなビンテージがリリースされるやいなや世界中のドメーヌを回って20年以上も試飲を繰り返し、あれだけの膨大な著作をしたためてきた継続性というのは、正当に評価されるべきだと思うし、そのテイスティング能力にしても、樽の中やリリース直後といった、まだツボミのような状態のうちに、潜在能力を概ね把握し、飲み頃を予想する、というのは生半可な技量では出来ないことだと思う。 なにより、ただでさえ排他的で、スノビッシュなサロン的色彩を帯びがちな、ワインの世界で、歯に衣着せずにはっきりとものごとを言ってくれる「暴れん坊」がいてくれないと、ワインジャーナリズムも面白くない。 前回送られてきたワイン・アドヴォケイトの巻末には、パーカー氏のご母堂が亡くなれた旨、記されていたが、彼自身も、年間1万本の試飲の代償として、咽喉ガンだとか、肝機能障害だとか、そのような病魔に冒されることなく、これからも明快なワイン評論を我々に読ませてくれることを切に祈るばかりである。 (2002.7.9) |