超不定期更新コラム

R・パーカー賛歌

まだ梅雨は開けていないというのに、この暑さはどうだろう。
昨日の都内の最高気温は34度だったとか。
こういう陽気だと、我が家もすっかりビールづいてしまい、積極的にワインを飲もうという気がおきない。
ポロシャツがじっとりと汗ばむような陽気の中、夕食の前にシャワーをサッと浴びて、エアコンのよく効いた部屋で枝豆なぞをつまみに、クイッと飲み干すビールの喉越しの心地よさ。
それでもって、ビールの値段は1缶200円かそこらである。さしてアルコールに強くない私なぞは、2缶も飲めばしたたかに酔っ払えるので、500円玉一枚で心地よい晩を過ごせるわけだ。
この調子で1週間飲みつづけても、せいぜい4000円弱。すなわち、日ごろ飲むワイン1本分の値段でしかない。

こうしてみると、比べること自体がナンセンスだと頭では理解しつつも、改めてワインって高価な酒だなあと思ってしまう。ワイン消費の裾野が広がった昨今においては、コストパフォーマンス面でビールと渡り合えるような1000円内外の美味しいワインももちろんあるけれども、「ハズレ」の少ない、価格と味わいのバランスのとれた価格帯となると、個人的にはどうしても3000〜5000円のランクのワインに手を伸ばしたくなる。そしてビール1ダース分という(私にとっては)高額な対価を支払うのであれば、ますますハズレのない、美味しいワインを選びたいとの願いも強くなる。

かくしてワイン誌の評価や評点の出番となるわけである。

このコラムをお読みの方で、ロバート・M・パーカー氏というワイン評論家の名前を知らない人は、ほとんどいないだろう。
ワインスペクテーター(WS)誌とUSで人気を二分する、ワイン・アドヴォケイト誌(WA)の主宰者であり、おそらく世界でもっとも著名なワイン評論家のひとり。その100点法によるワイン評価は、ワインの市場価格や相場に巨大な影響を与えると言われ、また、WS誌が基本的に合議制による評点なのに対して、WA誌はほとんどがR・パーカー氏ひとりの採点によるものであることから、ワイン界におけるパーカー氏個人の影響力たるや絶大なものとなっている。

愛好家の中には、熱烈にパーカー氏を支持する人もいれば、逆に「パーカーなんて大嫌い!」と蛇蠍のごとく嫌う人とがいる。
周囲を見回すと、なんとなくワインに関して一家言持っている(と自負する)人たちにとっては、パーカー氏は、「批判の対象でなければならない」ような風潮があるみたいで、「パーカー氏の評価をいちいち気にするなんて、半人前だ。」とか「パーカーの100点評価によってい市場が歪曲されている」的な論調をよく目にする。逆に、パーカーさんを批判することによって、「少しはワインのこと分かっているのね」と言ってもらえるような、なんだかそんなかわいそうな立場におかれているような気さえする。

パーカー氏を批判する人たちの主張は、概ね以下のようなものだ。

1.パーカー氏の影響があまりに大きいため、多くの作り手が彼好みのワイン作りを志向するようになった。そのため、各地の個性が薄れ、没個性的な同じようなワインが出回ることになった。

2.官能評価であるワインの味わいについて、100点法という評価尺度を用いることはおかしいのではないか。「基本点50点+外見○○点+香り○○点+味わい○○点」という算出方法もナンセンスだ。

3.そもそも彼自身の嗜好が偏りすぎている。「濃くて力強い」ワインを誉める一方で、繊細さを持ち味にしているようなワインの良さを理解していない。また、ブルゴーニュなどについては、若飲みを推奨し、古酒のすばらしさをわかっていない。

さて、この中で、1番目の批判については、パーカー氏本人に向けられるのは筋違いというべきだろう。問題は、「パーカー氏の影響力が強すぎる」ことではなくて、パーカー氏のみが突出した人気を得てしまっているワインジャーナリズム全体の問題であり、さらには安易に彼の好みに迎合しようとする作り手の姿勢であろうと私は思う。

2番目の批判については、たしかに難しい面もある。
パーカー氏がここまで人気を博するようになった理由のひとつが、100点法という評価のわかりやすさだと思うのだけれども、現実には、彼がつけている点数は、よほどの異常値というべきものを除けば、80〜100点に集約されている。ということは、なんのことはない20点法と変わりはないのである。そういう意味では、逆に、20段階の評価で、1点や2点などという点数はつけずらいが、100点法で80点をつけやすいというメリットすらある。自分がHPで100点評価をしているという贔屓目もあるのだけど(←私なんぞを引き合いに出すなって?ごもっとも。)少なくとも、5段階評価であろうと10段階であろうと、ワインをランク付けして評価することを肯定するのであれば、100点法のみを否定するというのはあんまり説得力がないように思える。
ただし、100点法は、わかりやすい反面、たとえば、「93点のボジョレーは、91点のDRCより優れているんかい?」というような、これまたきわめて分かりやすい批判の矢面に立たされるのもまた事実だけれども。

いずれにしても、彼の嗜好や評価は常に一貫性があることは多くの人が認めるところであり、彼の好みというものが皮膚感覚的にわかってくると、パーカー氏が高得点をつけているものであれば、概ねこのようなワインに仕上がっているのだろうという予測が可能になる。もちろん、それが自分の好みと合致するかしないかは別問題なんだけど、その中で自分の好みに比較的合致するジャンルについては大いに参考にすればよいし、そうでないものについては参考程度にとどめておけばよいのだ。

3番目の批判については、最初の批判とリンクしてしまうのだけれども、味の好みというものは誰にでもあることであって、たまたまパーカー氏の場合、「濃くて樽のフレーバーの効いた力強い」銘柄が好きだということなのだろう。逆に「しとやかで精妙にバランスがとれている」銘柄をなにより高く評価する評論家筋が支持を得て、同様の影響力を持つに至ればバランスがとれるというものだ。

ところで、私はパーカー氏に関する議論については、こうした個々の事象について語られるよりも、彼がここまで支持を得るに至った背景こそが注目されるべきだと思っている。
すなわち、パーカー氏のような評論家や評価手法の登場というのは、高額なワインを購入したり家庭で熟成させたりするという『趣味としてのワイン』の愉しみが、一部の貴族的な特権階級や富裕層から、一般の人たちへと広がってくるにつれて、現われるべくして現われた、時代の要請によるものだと思うのだ。

ワインがお金持ちのものに限定されていた時代。すなわち何千本ものストックや巨大なワイン蔵を持ち、グランヴァンをデイリーワインとして飲み、購入時はケース単位で購入するような富裕な人たちは、飲んだワインがたまに期待はずれでも、いちいち目くじらをたてることはなかっただろうし、年代ものの古酒が逝ってしまってた時だって笑って許せるぐらいの余裕があったろう。したがって、そんな客層を相手にするワインジャーナリズムの側も、作り手の評価については、あまり追い込みすぎないというか、ある種ファジーな部分を残しておいても許されるおおらかさがあったと想像する。
そういう風潮は、いまだに、たとえば「ソムリエがワインをコメントするときに、ネガティブな言葉は使わない」というようなところに垣間見ることができる。

しかし、時が流れて、ワイン愛好家の裾野が広がり、少しでも安くて良いものを購入しようと、セールの情報に網を張り、高価なワインはワイン会など仲間内で分け合い、衣食住を削ってまでもワイン購入に走るような、そんな1本たりとも無駄遣いをしたくないと考える(私たちのような)庶民愛好家が増えるにつれ、パーカー氏のような、ある意味合理性に裏打ちされた、またある意味情け容赦ない、徹底的に消費者の立場にたった評価尺度というものが彼らのニーズにマッチするようになったのではあるまいか。

それはちょうど、フランスを筆頭とする旧世界に対して、新世界のワインの台頭という業界の流れともマッチしていたし、合理性を重視するアメリカ人の気質ともマッチしていたのだろう。

まあ、いずれにしても、毎日1万本ものワインをテイステイングし、新たなビンテージがリリースされるやいなや世界中のドメーヌを回って20年以上も試飲を繰り返し、あれだけの膨大な著作をしたためてきた継続性というのは、正当に評価されるべきだと思うし、そのテイスティング能力にしても、樽の中やリリース直後といった、まだツボミのような状態のうちに、潜在能力を概ね把握し、飲み頃を予想する、というのは生半可な技量では出来ないことだと思う。
少なくとも、我々のようなアマチュアの一愛好家ごときが、「所詮パーカーの味覚なんて云々」なんて言うのは、恐れ多いにもほどがあるというものだ。

なにより、ただでさえ排他的で、スノビッシュなサロン的色彩を帯びがちな、ワインの世界で、歯に衣着せずにはっきりとものごとを言ってくれる「暴れん坊」がいてくれないと、ワインジャーナリズムも面白くない。

前回送られてきたワイン・アドヴォケイトの巻末には、パーカー氏のご母堂が亡くなれた旨、記されていたが、彼自身も、年間1万本の試飲の代償として、咽喉ガンだとか、肝機能障害だとか、そのような病魔に冒されることなく、これからも明快なワイン評論を我々に読ませてくれることを切に祈るばかりである。

(2002.7.9)