超不定期更新コラム

ペトリュス。

「羊たちの沈黙」の主人公レクター博士は、その続編「ハンニバル」の中で、Ch.ペトリュス(とディケムとバタールモンラッシェ)を愛飲していた。
私は、レクター博士が、原作のどこかでペトリュスについて語っていないかと期待したが、残念ながらそういう下りはみつからなかった。レクター博士だったら、ペトリュスの味わいを一体どのように形容するのだろうか。

9月2日のエノテカの試飲会のテーマはムエックス社のさまざまな銘柄の比較試飲だった。
最近ご無沙汰だった同社の試飲会に行ってみようと思ったのには訳がある。ひとつには、ボルドーの「同一の作り手による産地違い」を確認したかったこと、そしてもうひとつは、なんといっても私にとってミステリアスなワインであるペトリュスの真価を確かめたかったことだ。

これまで私は、81、83、86年のペトリュスを飲んだことがある。どれもすばらしさの片鱗こそ伺えたものの、その圧倒的な世間の評価に見合う価値は正直、見出せなかった。
もっともこれらの年のペトリュスは、パーカーさんに言わせれば「スランプの時期」のものなんだそうだ。その点今回の89ビンテージは、RP100点、95ビンテージも96+点と、掛け値なしの「偉大な」ペトリュスだ。このクラスになると、ちょっと前ならグラス一杯の試飲だけでも、7000円〜10000円ぐらいのプライスがついていた。それを思えばトータル12000円という会費はリーズナブルだと思ったのも、参加した大きな理由だったりする。

テイスティングに臨んで、いくつか気をつけたことがある。
まず、もったいぶって真打ちを後回しにしないこと。
一杯あたりの量が少ないといっても、数をこなすうちに結構酔ってくるのは過去の試飲会で「学習」した要注意事項だ。したがって今回は真っ先にペトリュスをグラスに注いでもらうことにした。
次に、ひたすら待つこと。ペトリュスは過去の試飲においても、頑ななばかりに開いてくれなかった記憶がある。今回は2時間のスケジュールのうち、1時間以上を、ペトリュスだけのために割いた。
そして、飲むときには、あたかもスプーン曲げに挑戦するかのごとく、およそ全神経を集中すること。というのも、私が飲んできたペトリュスは、漫然と飲んでいると、その他多くのワインの中に埋もれてしまいそうな、そんなワインだったのだ。

さて、そうまでして臨んだペトリュスであったが、今度こそは私の期待に答えてくれただろうか?

香りの緻密さは、以前から共通していたことだが、今回の試飲でも遺憾なく発揮されていた。「こんなワイン飲んだ」でも書いたけど、とにかく香りの粒子というものがあるならば、その一粒一粒が、他のワインたちとは1ランクも2ランクも違うという印象なのだ。独特のバルサム質の、混沌とした香りの中から、プラム、カシスやダークベリーのリキュール、バラの花束、ファンデーション、干し草などが連続して現れてくる。それは名だたるグランヴァンたちと比べても一線を画するほどに、なめらかで緻密だ。
95年の方は、89年ほどの複雑さは出ておらず、濃厚なロースト香に支配されている。しかし、粒子の緻密さでは全く引けをとらないところはさすがと思わせる。
香りの出方は、例えばきれいに熟成したブルゴーニュのように、部屋一面に芳香が広がるという類のものではない。あくまでテイスティンググラスの中で、深く、沈みこむように香りを放っている。しかしその芳香のなんというか深遠なるさまは、そこに注がれたわずかな液体が本当に発しているのかと疑いたくなるほどだ。こうして最初の30分ほどはただひたすらこの香りのみを愉しんだ私であった。

一方、前回までの試飲で裏切られてきたのが、味わいであった。なんというか、あっさりしすぎているのである。喉元を抵抗なくスルリと通りすぎるのは、秀逸なワインに共通した特長であるとはいえ、口中での広がりがあっけないほど乏しいと感じたのだ。さて、今回は?

89年。すべてが丸い。十二分に凝縮されていて、オイリーでありながら、一方で重力のくびきから解き放たれたかのような、ある種の軽やかさがある。果実味、酸、タンニン、などと各要素を分析するのが馬鹿馬鹿しくなるような完成された一体感。それでいてまだまだ若く、枯れた要素はほとんど感じられない。
95年。より若さと濃厚さ、そしてすこしばかりの硬さがあるが、バランスは完璧。各要素は水ヤスリで丁寧に仕上げられたかのように丸く、きめ細かく、したがって、こちらも口中でまったくひっかかるところがない。すばらしいテクスチャーだ。飲んでいて居住まいを正したくなるような、そんなバランス感と品位が見事。

どちらのビンテージも、圧倒されるものはなにもない。口中での広がりは、今まで飲んだビンテージの比ではないとはいえ、新大陸生まれや逆浸透膜法などによる濃いワインを飲みなれた身にとっては、決して驚くものではない。しかし、このワインには球体のようなウルトラスムーズなテクスチャーがある。スイスの高級機械式時計のような絶妙なバランスがある。静謐な、時が止まったかのような飲み心地がある。
やはりペトリュスは只者ではない。
過去に似たような印象のワインといえば、かろうじて、ヴェガシシリアのウニコが思い浮かぶぐらいのものだ。

その後に飲んだ、ムエックス社の各銘柄は、大いに私の理解の助けになってくれた。味わいに共通するのは、力強さやパワフルさではなく、透明感のある果実味を中心にした高次元でのバランス感だ。ムエックスの意図するところは、月並みな言葉でいうところの、「フィネス」のあくなき追求なのだろう。それは、安価な「A.C.ポムロール」からですら、伺えるほど一貫している。
そして、その究極の完成形として、ペトリュスが君臨しているというわけだ。これは、当世流行の、醸造テクニックレベルの話ではない。おそらく、元になるブドウの質の高さと吟味のされかたが桁はずれなのではあるまいか。

このように褒め称えている一方で、それでも、なにか、私の中で物足りなさが残るのもまた事実だ。

そう、私は、あくまで左脳で、理性的に分析して、その結果「スゴイ」と言っている。いうなれば、ペトリュスというワインを一生懸命頭で理解しようとしているのだ。残念ながら、自然発生的に現れてくる、イモーショナルな、心を揺さぶるような感動ではない。

彼等はあちらからウエルカムと出迎えてはくれない。五感を研ぎ澄まして、一生懸命に味わないと、16万円(!)という価格の妥当性を垣間見せてはくれない。「芸能人格付けチェック」みたく、今日のペトリュスと新世界の1万円ぐらいのワインを並べて当てろといわれたら、私はかなりの確率で間違えるかもしれない。

ある人によれば、「そんなに若いビンテージではペトリュスは真価を発揮しない」という。
そのとおりかもしれない。
なんといっても、このワインの場合、流れている時間の尺度というものが、他のワインとはまるで異なっているように思える。
今回飲んだ89年や95年も、何が足りないかといえば、おそらく「色気」というか「官能的な魅力」のようなものだと思う。しかし、それを、長大な寿命のうちの少女期のボトルに期待するのは酷というものだろう。
(それを思うとき、このワインに初期段階からしっかり100点をつけているパーカーさんって、やっぱりスゴイテイスターなのだと感心する。)

今日飲んだビンテージも、本来は20〜30年後に飲まれるべきものなのかもしれない。そういう意味では、たとえば子供の誕生時に買って、成人してから一緒に飲む、という用途において、ペトリュスほどふさわしいワインもあるまい。

オールドビンテージのペトリュス。いつかは飲んでみたい。
しかし、今の私は、その機会を急ぐ気分ではない。
このワインには性急は似合わない。悠々とした時の流れこそがふさわしい。
ヴェールに隠された、真の実力を存分に思い知る試みは、いつか、ハレの日の、そして私のワイン歴をも飾るであろう何らかの記念日の愉しみとして、あえて残しておくのもいいかな、そんな気分にさせられる、ペトリュスだった。