cafeで渋いコーヒーを飲む。チュニジアのカフェで飲むコーヒーは、エスプレッソだ。砂糖が入れられてでてくることもあるし、別になってついてくることもある。後味が口に残る。なんというか、例えるならば、腋臭の人の臭いをマイルドにしたような臭いが口に残る。あまりおいしいとは思えない、というか、まずく感じる。
そして、カフェには、額に入ったセサミストリートのカウント伯爵似のおじさまの写真が必ずかけられている。タイのプミポン国王、トルコのケマル・アタチュルクのように。カフェだけに限らず、お店全般や駅にもかけてある。バックが赤黄のグラデで軍服のような服を着ているバージョンが多いが、その他にも、昔ヒデキやひろみが着ていたような白い服を着ているバージョンも数は少ないが見ることができる。この人は、誰だろう?と考えたときに、わたしたちは勝手に建国の父で各町の中央通りの名前にもなっているハビブ・ブルギバさんだと解釈して、ギバちゃんという渾名までつけて親しんでいた。ところがそのギバちゃんは、これも後で分かったことだが、ギバちゃんではなく、ベン・アリという現大統領であった。
ギバちゃんはベン・アリが大統領になる前の31年間大統領を続け、後年は独裁体制を築いていて、それを時の首相であったベン・アリが引き摺りおろして終身大統領制を廃止するまで続いたそうだ。今年(か来年だったかな?)、近いうちにまた選挙があるようだが、ベン・アリ政権はたぶん続くだろうと思われている。
そのベン・アリは、各店に肖像写真を飾られるくらいだから、タイの国王が国民に愛されているように、愛されているんだろうか?という印象をわたしたちに与えたが、事実はどうかは知る術はなかった。その肖像画は自主的に購入されて飾られているわけではなく、店の営業許可証とともに国から渡されるものなんだそうだ。
その後、カレーシュに乗る。カレーシュというのは四輪馬車のことだ。ここの町にあるのは観光馬車として機能しているものが殆どみたいだ。サハラとショット・エル・ジェリドへ行くという。値段は1人60DT(だいたい5400円くらい)ずつ二人でしめて120TD(だいたい10800円くらい)といわれ、最終的に二人で23TD、2070円くらいになる。
![]() 乗り心地悪し。
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そこから戻る途中で、ショットへ立ち寄る。ショット・エル・ジェリド(Chott el Jerid)のショットとは、塩湖と訳されている。地図で見ると水色で描かれている。普通の湖と塩湖の違いは一体何か。
わたしたちがそこで見たショット・エル・ジェリドは、ただの塩分の多い荒れ地だった。はるか遠く、馬車ではたどり着けそうもないところに、水が見える。確かに、ここはショット・エル・ジェリドで間違いはないけれど、水を目の前に見ることもできず、期待外れもいいところ。全てにおいて、中途半端すぎて腹立たしくなる。
ホテルに戻って、ゲイリ−・オ−ルドマン(つい最近知ったんですが、この人シドだったんですね)似のコンシェルジェにこの先の経路とか色々きいて、プールで一泳ぎ。暑い砂漠にいることを忘れられたひとときだった。夕方だから水が少し冷たくて心地よい。いままでの調子でいくと、いやなこと:心地よいこと(それもささやかな)が、4:1くらいではないか。
夕食は、再びクスクスに挑戦。メインストリートをずーーーっと歩いて、ゲイリー・オールドマンからきいた店に行く。もう、夕方で薄暗くなってきている。道路には昼よりもたくさんの人たちがいて、昼、顔を見ることがなかった観光客の姿もちらほらと目につくようになっていた。
レストランはこのメインストリートには、見かけただけで言うと、2-3軒しかない。チュニジアはイスラム国のわりに戒律もソフトらしく、酒を飲む人もたくさん見かけるし、女の人が半そでを着ている姿も普通にみかけた。しかし、一般的には女の人は家にいる、というのはあたりまえのことなんだろう、そうすると必然的に女の人たちは食事をきちんと作る、という図式がなりたつ。ゆえに、レストランが少ないのも納得がいく。
田舎なここナフタがその風潮がつよいのもうなずける、というものだ。わたしたちが入った食堂においても、旅行者か男しかいないし。
ここのクスクスも汁気がやっぱり少ない。味は昨日よりはおいしい。肉に緑色がついていたのが何だったのか気にかかる。肉は羊肉。いも、ヒヨコマメ、タマネギをトマトで煮込んだものが、山盛りのクスクスの上にどっちゃりのっている。二人分で5.250DT。一人前に換算すると2.625TD(240円くらい)というとてつもなく半端な数字だ、これってどういうことだろう。
そこの店の男がナフタの感想を聞いてきた。はっきり言えば「もう二度と来たくないんだよね」くらいだったが、そう言うのもなんだったから「まあまあ」とこたえたら、なぜまあまあなんだ、と食い下がってきた。相方はやさしいのでフォローを入れてくれていたが、はっきりいって、この町で唯一いいところを発見することができたのは、ホテルのプールくらいだった。
その男が、地元の人が行くバーへ行くと言うので、付いていってみることとする。
この町のメインの観光名所は、「ナフタの花カゴ」と呼ばれるオアシスであるらしい。とにかくナフタは、その花カゴの他にも町の南側には大きなオアシスが控えている町で、チュニジアの建国の父であるギバちゃんはこの町で毎年2ヶ月!!の休暇を過ごしていたそうだ。この事実を歩き方で読んだために『この町に来てもいいか』と思ってやって来たわけだが、どうもギバちゃんとは趣味があわなかったらしい。
話は戻って、その花カゴの中を通り、バーへ行く。花カゴと言っても花畑ではなく、ナツメヤシの林というか畑である。暗い道に電灯がぽつぽつあり、本当にこんな何もないところを歩いていってバーなんてあるんだろうか、とちょっと不安になった。が、暗いナツメヤシの木の向こうがわにぽつぽつモスクが見えてきたりして、ちょっと奥まったところにきちんとバーは現れた。
男たちがその建物の中や外にテーブルを出して酒をのんでいる。私達は一緒に来た男に屋上に連れていかれ、ちょっと不安になってしまう。わたしたちの他にだれもいない明かりのない屋上に、男はテーブルとイスを持ってきてろうそくに火をつけた。折角だからと、チュニジアワインをいただく。口の中で揮発性のアルコールが蒸発するような感じがして、味は酸っぱかった。折角なんだが、あまり美味しくはなかった。
ここで飲んだのは赤ワインだったが、チュニジアで有名なのは、ケリビア産のマスカットワインだそうだ。ぶどうを育てる農家の映像を見てちょっと驚いたのは、ぶどうの蔦が地をはっていたことだ。本場フランスって、どうなんだろう?そんなもん?
わたしがこの町で一番印象に残っているのは、町の景色や自然の偉大さやおいしい料理などのポジティブな事象ではなく、ここで聞いたその男とヤマダナナコという日本人女性の話だ。
その女の人は日本での結婚生活に満足できず、子供も旦那もいるのにその男のところに不倫するために継続的にやってきている、そうだ。それに話の流れからいうと、彼女からお金の援助も受けているらしい。ここのバーで話した話は三分の二以上はその話であった。よりによってなんで日本からこんなところまで、こんな男(正直いうとかっこ良くないし、精神年令低そうで、いろんな人にいろんなことを言いふらすような下衆な男)に会いにやってくるんだろう、よほど寂しいのだろうか、日本では不倫ができない人なのだろうか、などなど疑問は山のようにでてきた。タイで二重結婚をしている日本人男性の話とか、お金で東南アジアに女の人を囲っている男の人の話をきいてはいたが、そんなのは男だけがする話ではなかったんだ。
「ルアージュの旅」
今日は、朝はやくから出発して移動の日とする。
ホテルをチェックアウトして、ぼけぼけ歩いてバスステーションを探したりする。昨日も歩いたメインストリートは一直線で、昨日入ったカフェ(そこ以外に見当たらなかった)でコーヒー飲んだりしてだらだらしたり、道をだらだら歩いているとかなり時間が経過する。
そして、ルアージュを乗り継ぎながら、今日はタタウィンという町まで移動してしまうことにする。
どういうルートで行ったかというと、
ナフタNAFTA→トズールTOZEUR→(→ドゥーズDOUZ→ケビリKEBILI)→ガベスGABES→タタウィンTATAOUINE。
→のところで乗り換えだ。一見面倒くさそうだけど、全然面倒ではない。ルアージュはバンの様な車で、運転手の他に6人乗客がそろえば出発する乗り合いタクシーだ。バスよりもスピードが速くて、ノンストップだから早い。ルア−ジュに乗って、次の町のルア−ジュステーションに着いたら次の町行きのルアージュを探してそれに乗ればいい。あと、これは帰ってきてから聞いたはなしなのだが、ルアージュの一番座り心地がよいのは助手席で、一番狭くて乗り心地が良くないのは一番後ろの席だそうだ。最後尾の席はタイヤの部分があって、ちょっと狭くなっている。主にわたしたちはそこに座らせられていた(だってしらなかったし、うちら小さいし)。
![]() わっかるかな〜、 わっかんねーだろーな〜
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トズールもケビリも土砂っぽい暑い町だった。ルア−ジュ乗り場でしか降車していないからそれ以上のことはわからない。車で町中を通った感じでは、トズ−ルはナフタよりも栄えていて、観光場所があるような町だった。
その後の"ケビリ(→ドゥーズ→ケビリ)"は、ドゥーズに間違えて行ってしまったために発生した行程である。ドゥーズは砂漠ツアーで有名な町で、ほんとに土砂っぽいあつーーーーい町。ああ、ナフタなんかで見た中途半端な砂漠ではない本格的な砂漠に訪れることができそうだな、という印象をうけた(実際にはどうだろう)。
移動の車中ずっと思っていたことは、このままでは負けそうだ、、、ということ。
好きとも嫌いとも、どうとも思えない。
タタウィンに到着したのは夕方だった。
ホテルはタクシーステーションのすぐ目の前にある、HOTEL MEDINA。
ホテルの対面にある名前のわからない食堂で夕食をとる。ブリックという円い春巻きの皮にマッシュポテトと卵とパセリをおいて半分に折って揚げた料理と、ロービアという豆と鳥系の肉のトマト煮込みと、チュニジアンサラダ。ここの店の人はメニューを一つずつかみくだいて説明してくれて、ブリックの作り方まで目の前で実演してくれた。なかなか世話好きだった。
「タタウィン」
今日は朝からよい場所を発見した。それはCafe de Parisというカフェ。カフェオレとうずまきパンがおいしい。カフェオレはアラブコーヒーっぽくなくて、おいしい。おまけに、お店の兄さんがジローラモさん似だ。「心のオアシス」と、そこを呼ぶことになる。
そこを出て、シェニニ行きのルアージュを探す。Cafe de Parisの並びのCreamrieのおっさんにきいてみると、すぐ二軒くらいとなりの店の前にとまっている乗り合いトラックのところまで連れて行かれる。片道0.750TDの完璧乗り合いだ。
Creamrieの向かいには、この町に着いたときのルアージュステーションがある。そこで訊ねたときには、「シェニニ行きの乗り合いルアージュは、ない」と言い張られ、貸し切りで20DTとふっかけられていた。
0.750TDの完璧乗り合いに乗って、シェニニCHENINIへ。シェニニは何があるところかというと、今でもベルベル人が住む穴居住居がある町だ。
シェニニへ向かうルアージュの窓から見える山々の風景は、ここは火星か?と思える程だ。
同乗したのはローカルの人たちで、その中に、シェニニで働いているというおっさんがいた。そこで事前情報を少々仕入れる。ホテルはなし、レストランとカフェが一緒になったところが一箇所あるのみ、あとは土産屋が2-3軒だけであとは人が住むのみということで、期待がふくらむ。
![]() 写真じゃ伝わらないな |
![]() ↓ ![]() ![]() シェニニの天辺からの風景。 つたわらない写真だなあ |
「クサ−ル巡り」
翌朝、心のオアシスCafe de Parisで、昨日と同じうずまきパンとカフェオレで朝メシ。昨日のカフェオレはまぐれだったのか、と思わせるような味だった。カフェがまずくても、和める場所だ。
TAXIPHONEという公衆電話屋からチュニスのアエロフロートの事務所にリコンファームを入れるがまったく繋がらない。昨日からずっとそうだ。どうにもならなそうなので航空券を購入したH.I.Sにファックスを入れて、リコンファームをたのむ。国際ファックスは7TDだった。高い。
TAXIPHONEというのは、公衆電話ボックスを少ないところで4個くらい、多いところで20個くらい配している店だ。店員は、客のお金を細かいお金に両替をしている。日本人が携帯で我を忘れて喋るように、チュニジア人はそこでおしゃべりしまくっている。
クサール・ウレド・スルタンにむかうルアージュを探す。HOTEL MEDINAの向い筋のレストランの前で聞くと、気難しそうだが実は世話好きなおじいが、発車するところまで連れていってくれて、交渉までしてくれる。往復で一人2TD。探せばあるものだ。
待ってて!と頼み、急いでホテルに戻り、チェックアウトして荷物を預けて、出発する。
タタウィンから周辺クサールの町に行くルアージュを探すためのポイントは、訊ねる相手を選ぶことだと思う。訊いた相手が、クサール行き乗り合いルアージュの運転手ドンピシャならば話は早いが、それ以外の一般のルアージュの運転手にきいてしまったら「乗り合いはないから20TDで貸し切れ」という話になって、関係のない人々がアリのように集まり、不毛な交渉になってしまう。
あと、そこら辺にたむろってるヒマそうな若い男なんかにきいたりしても一般ルアージュのところに連れていかれて20TDからの交渉が始まってしまう。ヒマだから他人の交渉で時間をつぶしたいのか、と聞きたくなるくらいだ。
ここで言う一般ルアージュと言うのは比較的大きな町に連結しているルアージュステーションから出るルアージュのことだ。タタウィンから周辺のクサールの町へ行く庶民の足のルアージュは、ルアージュステーションからはでていないから、ルアージュステーションで訊いても、全く無駄である。
聞いたらよさそうなタイプはどんな人かというと、ちょっと見た目では正解のタイプはわからない。わたしたちの正解の人たちは、"物知りじいさん"と"ぼるタイプではない店のおやじ"だった。
![]() クサール・ウレド・スルタン |
ここのクサールには人が住んでいないからあらゆる穴をのぞける。
スターウォーズっぽい。実際ここでは撮影されてはいないが、タタウィンから近いここいらのクサールのいくつかで撮影されている。
いくつかの穴をのぞいていると、カフェの御主人が説明をしにきてくれた。彼に招かれた穴に入って、言われるままに上を見ると、ススで黒くなっている。1914に軍隊が来て、焼き払っていったあとだそうだ。
その頃チュニジアは戦渦ににあったのだろうか?ガイドブックをみるとその頃は、フランスの植民地支配下にあった時期のようだ。
反フランス・反植民地運動が高まり、自由立憲党が結成されたのが1920年だから、1878年から続いていたフランスの支配にいよいよもって耐えられなくなってきた時代だったんではないのか、と考えた。
しかし、フランスはチュニジアの中でも"よい土地"を自分たちの所有にしていったらしい。ここらへんは気候もきびしいし、海もないしオアシスもないリゾート的要素はなにもないところだ。あえてここに攻め入ってきたのは、やっぱりなんかあったのだろうか。もうすこし詳しく御主人にききたかったなあ。
ひとしきり見学が終わって、カフェに寄って甘いいちごジュースを飲む。チュニジアに入ったばかりのときは市販されているドリンク類の甘さに、さすがの甘党女のわたしでさえゲンナリしていたものだが、だんだんなれてきてこの甘味がまたウマイ、というような馴染み方を発揮しだす。
![]() ごみだらけのKsar El Guedim |
「ガベス」
短い時間ながらかなり濃いクサ−ル見学を終えてタタウィンに戻ったのはまだ午前中だった。ルアージュステーションからガベス行きに乗り込んだ。
ガベスは港町で、砂っぽくない。
おなかがへってしまって、ガベスのルアージュステーションに着いてすぐ目の前にあるレストランで、Macaroniと魚のグリルを注文。マカロニは結局のところ辛いトマト味ののびたスパゲッティだった(見た目はナポリタン)。
ここで初めて、Bogaの黒をのむ。ボガとは、チュニジアでメジャーな炭酸飲料で、グリーンの瓶と、透明瓶に黒い色の液体が入ったものの二種類がある。巷で見かける率が高いのは、グリーンの普通ボガの方だ。
何の味だろう?黒だけれどコーラではないし、と頭をひねる。チョコレート風味の炭酸だ!おいしい!すっかりお気に入り。チュニジア人は普通ボガと黒ボガどちらの方が好きなのかというと、南へ行くほど黒ボガを好む傾向が強くなるらしい。
ここからのルートは、
駅で夜行列車のチケット購入→海→夜行列車に乗りチュニスだ。
![]() 漁師のいる光景
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●CAVERNE D'ALI BABA
68, AVENUE HABIB BOURGUIBA - TATAOUINE
TEL:05.860.040
●HOTEL MEDINA
タクシーステーションのすぐ目の前。
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