記憶
私は3回に分けて 「ろまねすくの自分史」のページを作ってきました。旧制の京都府立京都第二中学校の戦時中の青春時代の学校生活、同級生と教師の話と、敗色の濃くなった5年生のとき、学徒動員で兵庫県川西市の中島飛行機製作所で働かされたこと。
卒業後渡満して、満州電々で働き、最後の召集で新京の緑園越え外で終戦の詔勅を聞き、間もなく国民党軍と共産軍の内戦に巻き込まれてから8年後に帰国できるまでを、「曠野を流浪って八年 終戦後の八年間旧満州残留放浪記」に、以上は同窓会誌の2冊に掲載したものを底本としています。
その後、別に出した「過ぎし刻への鎮魂譜」に改稿・補足したものもこに載せています。
しかし戦後60年を閲してなお、自分史として触れられていない出来事もあり、時々探し出した写真を元に書き漏れた記憶の破片を拾い集めて、この所に並べて行きたいと思っています。ただし日時・場所・順序は恐らくバラバラになるでしょうね。
戦後の60年余でそれぞれの年代で私が夢中になったことは、私の自分史でも取り上げたいと思うものの、今となっては、資料もあちこちに積み上げた文書のどこかに紛れ込んでいて、とても手が付けられない。それで、まずどの年代で何に夢中になっていたかを、書き出してみることから始めたい。
39歳〜43歳の頃
昭和29年に京都の紫明混声合唱団が演奏会で、ショスタコーヴィッチのオラトリオ「森の歌」の初演を行ったのを聴きにいって感銘を受け、入団して遅まきの第二の青春を存分に味わった。その間、演奏会に備えて練習した曲は、
●ショスタコーヴィッチのオラトリオ「森の歌」 〔京都、大阪で何回も演奏会で歌った〕
●ショスタコーヴィッチの 「十二の詩曲」
●ケルビーニ 「グローリア」
●カール・オルフ 「カルミナ・ブラーナ」
などの他に、
●多田武彦 男声合唱組曲「柳川風俗詩」
ロシア民謡の数々もよく演奏会の曲目に取り上げられた。また、毎年大阪のアサヒホールで開催された合唱コンクールに参加したり、京都、滋賀に演奏旅行に参加したのもいい思い出になっている。
35歳〜45歳の頃
この頃はボウリングに凝っていて、鴨川ボールを初めいろいろのボーリンク場で開催されていたボウリング大会に参加していた。随分方々のボーリング場に通いつめたが、たいした成績も残していない。ある年の府知事盃大会では後に女子プロになった人を抜いて、3ケームで650点以上を出し、優勝し知事盃をゲットしたことと、別の年に全日本シニア大会で6ゲーム1400点を超えて5位につけたが、次の日の団体戦で調子を崩してしまった。
50歳〜70歳の頃
この頃はオーディオに凝って、増築した12畳の部屋を防音仕様にして、高価なメインアンプ、ブリアンプ、スピーカーに金をつぎ込み、クラシックのレコードを蒐めて聴きこんでいた。 スピーカーもJBLの片チャンネル50万円余りのMODEL L-300 を始め3系統のシステムで大きな音響で楽しんでいた。
60歳頃からはパソコン通信で
1990年代はパソコンの性能の進歩が著しく、毎年のように新しいものに買い換えていた。特に1980年代にニフティ・サーヴのフォーラムに加入してからは、その頃夢中になっていた海外旅行の旅行記を「ワールド・フォーラム」にせっせと書いていたものである。
紫明混声合唱団

京都府立第2中学校44期同窓会


■ 1996年度 京二中 44回生等総会 1996年6月1日 於・鳥羽高校本館玄関前

■ 年度 京二中 44回生等総会 1996年6月1日 於・京都タワーホテル 八階ホール


最近の同窓会・・・参加者寥々
ここ数年は同窓会への参加者が年々減少する一方。同窓会らしい同窓会は京都駅八条口の京阪ホテルで、最後に集まったのは11名。我々の年齢層で作られている団体は、軍人会からいろいろな同期会まで、ここ10年間で次々と解散する組織がおおく、どこも出席者の激減で組織を保ってゆけない状況となってきている。
京都府立二中の44期同期会も何時までもつやら心もとないもの。さる2008年8月20日〔火〕〜24日〔日〕まで京都文化博物館で開催された京都ファインダークラブの、第13回「文人光画展 ファインド・アイ展」…私が第1回以降毎回参加出品している写真展には、今井欣一、山本粂雄、土方憲一君と視力障害で外出の難しい宮嶋八蔵君の奥さんと宮嶋君の資料整理から原稿の聞き書きまで手伝っている竹田寿美恵さんが代わりに来てくれた。
交通事故で亡くなった村田昇二君が同期会の世話をしていてくれた頃から、私の出展している写真展に誘い合わせて来てくれた頃には10名近くの参加してくれるようになって、一杯やりながらミニ同窓会の状況を呈していたが、年毎に集まる人数が減るのもやむを得ない。
パソコン通信時代
私がパソコン通信にのめり込み、富士通系のニフティ・サーブに加入し「fworld」という海外旅行や異文化交流を目的としたフォーラムに席を置いて、今年で満14年になります。当時はニフティ以外にも朝日新聞系列のアサヒーネットをはじめBIGLOBEその他大小無数のパソコン通信がふりました。中でもトップを争っていたのがニフティとBIGLOBEだったと覚えています。当時は通信回線も180KBくらいの、まだるっこしいもので到底、写真などの画像も添付できず、現在の光回線とは比ぶべきもありません。当時、中でも会員数の多さを競っていたのは。ニフティとBIGLOBEの2社。最盛期にはニフティが会員400万人を超えていました。
まず、ニフティのパソコン通信とはいかなるものだったか、紹介しましょう。
■FWORLDとは?
@ニフティのワールドフォーラム(略称FWORLD)は、1988年〈昭和63>6月、パソコン通信ネットワーク・NIFTY-Serve(当時)内で、インターカルチャーフォーラム(FINTCUL)として誕生しました。当初は、異文化理解をテーマに各種の活動を行い、その一環として取り上げた海外旅行の話題に人気が集まりました。しかし、いまでも旅行の枠にとらわれず、その背景にある世界のいろいろな場所、文化、人々への視点は失っていません。その後、会員数の増煎とともにセクションを拡大し、1991年にワールドフォーラムと改称。インターネットにその活動を広げ、現在にいたっています。
最初の頃は、ヨーロッパ、北米、南米、東アジア、東南アジア、中東、アフリカ、大洋州、ロシアという風に大まかな地域ごとにそれぞれフォーラムが開設されていましたが、急速な会員数の拡大と共に、ヨーロッパも北欧、南欧、東欧などに別れ、更に主だった国別のフォーラムが続々と誕生し、更に旅行記とそれぞれの国の特徴に応じたフォーラムが加わり、それらのフォーラムに20もの会議室が設けられ、やがてフォーラムスタッフが設立した株式会社オフィス・ワールドが運営を担当することになってゆきました。
■運営主体
@ニフティのワールドフォーラムは、フォーラムスタッフが設立した株式会社オフィス・ワールドがアット・ニフティとの契約を交わして運営にあたっています。
株式会社オフィス・ワールド
〒467-0821名古麗市瑞穂区上坂町2丁目40番地
T建L:052-737-7877FAX:052-737-7878
代表取締役 鈴木 祐孝
ワールド・フォーラム ライブラリー
パソコン通信の初期の通信速度は240KB(?)位だったろうか、それがだんだん速度が上り、ADSL更には光通信に至って100MBにもなって、写真や画像のように大きな容量を自在に証できる環境になると、それぞれが自分のホームページを開設できるようになり、もっと簡便なブログやMIXIまで出現した。
それがパソコン通信の会員の著しい減少を来たし、やがてニフティのパソコン通信が閉鎖されるようになった。その時、私はワールド・フォーラムのライブサラリーに採録されていた私の旅行記をすべてダウンロードしてOMに保存していたが、今に至ってかってのパソコン通信に強い郷愁を感じ、ホームページのコンテンツとして発表した。

Contents
『北欧……夏の名残に』 北欧4カ国とフィヨルドの旅
第1回 → 第45回 1995年9月6日〜1996年2月12日
第1回 → 第30回 1996年12月23日 開始
第31回 → 第45回 1997年11月13日 終了
ろまねすくの東欧の旅…………………………
第1回 〜 第42回 1994年10月15日〜1995年3月20日
「ろまねすくの東欧の旅」資料編 第1回 〜 第12回
「不連続線報告=チエコ・ハンガリー」(1) 第1回 〜 第3回
★ 資料編と「不連続線報告」は続けてご覧になれます
★
「ろまねすくのイタリア紀行」
第1回 〜 第38回
1994年1月14日 〜1994年5月30日
第1回 〜 第35回 1998年4月7日 〜 1999年1月13日
第1回 〜 第36回 1993月2日 〜 1993年11月27日
まだらボケ風 ***** 旅風景 <時空混乱 ***** 旅の記憶>
第1回 〜 第25回 1997年11月27日 〜 1998年3月7日
蟹のあぶく ブツブツ ろまねすくの雑念
第1回 〜 第5回 1998年6月28日 〜 1998年8月18日
●ニフティのライブラリーでは、私の書いた旅行記に対する友人たち、通信仲間から寄
せられたメッセージまで 同時に録されていたので、今でも懐かしく読み返すことができる
のである。
パソコン通信の終焉
やがて或る日突然、「フォーラム@nifty」が2007年3月末でサービス終了 という通知が入りました。
ニフティは2006年の年度途中にコミュニティサービス「フォーラム@nifty」を2007年3月31日をもって終了すると発表した。
フォーラム@niftyは、マネージャーと呼ばれるリード役を中心とした掲示板などからなる「フォーラム」と、@nifty会員であれば誰でも開設できる「サークル」からなるコミュニティサービスで、2002年8月にサービスを開始した。フォーラムについては、パソコン通信「NIFTY
SERVE」の中心的なサービスだった“TTYフォーラム”のWeb版という位置付けであり、2005年3月にTTYフォーラムがサービスを終了した際には、その移行先としてフォーラム@niftyが受け皿になった。
このような背景もあり、フォーラム@niftyのユーザーはTTYフォーラムからの移行ユーザーがメインだという。しかし、TTYサービス自体のユーザーが激減していたのに加え、インターネットでは個人が自由にコミュニティを構築できるサービスが数多く提供されるようになってきたことに伴い、フォーラム@niftyの利用は少なかったという。
ニフティは今回、「フォーラム@niftyのご利用が減少してきたため、当サービスとしてはその役割を終えた」と判断し、年度末の2007年3月末をもってサービスを終了することにしたと説明している。サービス終了までのスケジュールについては、2007年1月9日にサークルの新規開設を停止し、2007年3月31日にフォーラム@niftyを終了する。サービス終了後も、2007年6月28日までは掲示板の閲覧のみは可能となる予定。
フォーラム@niftyでは現在、84のフォーラムが運営されている。ニフティでは、フォーラム参加者に対して、マネージャーからの案内を待つよう呼びかけている。
一方、サークルの運営者に対しては、Webページ開設サービス「@homepage」で提供している掲示板やチャットなどの利用を検討してもらいたいとしている。また、サークル参加者に対しては、同様に運営者からの案内を待つよう呼びかけている。
自分史は長い時間をかけて綴ってきました何回にも分けて綴ってきました。しかし、幼少時代と戦後8年間の旧満州放浪から日本に帰国して以後については、まだまだ主な出来事さえ手付かずのまま現在に至っています。そのうち、
私の京都での50年について
京都文化人交流会と京都・府市民団体協議会の活動に参加した経緯は、死ぬまでになんとか不十分でも書きとどめて置かねばならないと重い、少しづつここに書き継いで行きたいと思っています。
今は八十一歳の私が、日々減少してゆく脳細胞を絞って、おおくの方々の名前を思い出すために、メモの形で取り敢えず書きとどめろことから始めます。
思い出ぼろぼろ
■
文化人交流会〔愚談会〕
細井 友晋 日蓮宗八本山
和田 孝英 太秦病院院長・故人
品角 一郎 日本画家
品角 小文
福岡 精道 清水寺教学部長・故人
足羽 徳 京都府商工部長・故人
稲田 達夫 京都府秘書課長・故人
小野喜三郎
■ 京都・府市民団体協議会
草川八重子 作家
寿岳 章子 京都府立大学教授・文筆家
富井 清 眼科医・元京都府医師会長・故人 初代会長
中野 信夫 眼科医・元京都府保険医協会理事長 二代目会長
渡辺 元治 皮膚科医
小井 実 京都府保険医協会・事務局長