終戦後の旧満州残留放浪記 (5)

 

   西満のアルカリ地帯へ

        1948年6月〜50年4月

 

(1)春の号砲

 満州…中国の東北地方に来てから、幾たび冬を越したものでしょうか。終戦の1945年の冬は、庇護者を失った半難民の一人として、騒然とした中で冬を迎え、翌1946年は体感温度マイナス40度のコーシャン(克山)で、1947年の冬は松花江の結氷という壮大な自然の営みに畏怖を覚えたフーチン(富錦)で過ごし、明けて1948年の春。

 どこまでも氷と雪の荒涼とした冬はまだ白いまま、夜半に枕元まで響いてきた一発の号砲……春の到来を告げる松花江の解氷の地響きで始まりました。

 朝、目が覚めるや否や、しっかり防寒着を着込み、マスクをつけ、毛皮の付いた帽子を目深にかぶって、松花江の岸辺に駆けつけました。そこには、昨年の冬の初め頃に見た凄まじいばかりのダイナミズムで、冬に挑む春の闘いの光景がありました。結氷の時と同じように、遙か南の暖かい地方を流れている上流から始まったのでしょう。大きな氷塊が下流の結氷面にぶつかり、乗り上げ、砕き、どん、どんとぶつかり合う音、ぎーっと擦れる音、ぎしぎし軋む音……・向こう岸が霞んで見えるほど広い松花江は、中程に細い水脈を開いています。

 弾みで、押しのけられた氷は岸辺の浅瀬で、暗礁に乗り上げた難破船のように舳先をあげたように盛り上がっています。ごーん、ごっん、と絶えず氷塊どうしがぶつかり合う音。寒さもさりながら、自然の勢いの激しさに、岸辺に立って眺めている私の体は硬直したように、あるいは呪縛されたように身動きとれない感じです。

  春明けを告げるドラマは何日続いたでしようか。

 数日後にはもう岸辺に僅かな氷塊が散らばっているばかり。半月後にはもう樹々の細い枝先に緑の芽が膨らみかけていました。あの冬はいづこに去っていったのでしょう。真冬には昼間でも吹雪で薄暗く、結氷した松花江の上に一筋の道が出来、何台かのトラックが吹雪にかすみながら対岸に消えていった景色。中島にひっそりと船体を寄せて、冬の過ぎ去るのを待っていた定期航路の客船。河岸から船まで氷上に立てられた電柱。保守のため船内で冬を過ごした船員たちが点していた船室の明かり。…それらは、豪快な解氷劇という春の号砲一発のあと、一気に春の衣に着替えはじめたようでした。

 ● フーチンからの出発

 いよいよ戦線の南下にともない、私たちの第7後方病院も移動することになりました。もはや、戦傷患者はリハビリの段階で、まず他所に移され、内科を主とする残留傷病兵のために残留する医療スタッフ以外は、何次かに分かれてあわただしく出発です。何次かに分けて定期航路の連絡船にのってジャムス(佳木斯)ヘ。そこで列車に乗り換えて一年ぶりで移動の旅に出ましたが、まだ、目的地ははっきりとは告げられていません。

 ジャムス(佳木斯)からリンコウ(林口)を経てムータンジャン(牡丹江)へは長白山地を縦断する行程。あまり険しい高い山は無く、印象から言えば中国自動車道が通っている道筋とでも言えましょうか。ムータンジャン(牡丹江)にはちょっと停車しただけで、ハルピンノ方角に向かいます。いまから思えばシャンチー(尚志)あたりでしょうか。地形から言うと山の間から平野らしい所に出たばかり、荒野の真ん中に突然停車しました。駅らしいものは見えません。でも、なかなか動き出しそうにもありません。これ幸いと、

 トイレを我慢していた人々が列車から飛び降り、鬼百合に似た花が咲き乱れている野原の草陰をもとめて走って行きました。男の連中は、いい加減なところで並んで連れションベン。女性たちは少人数がバラバラとかなり遠くまで走っていって、草陰に沈みます。その間、30分近く停車していたでしょう。突然ポーオッと出発合図の汽笛が響き、遠くまで走っていった女性たちが慌てて駆け戻りました。

 動き出してからしばらくして、停車の原因が中国人たちから漏れてきました。どうやら、このあたりを根城に出没していた匪賊、謝文東一派が近くに来ているらしい…とのこと。彼は満州ではかなり有名な匪賊で、たびたび通りがかりの列車も襲っていたといいます。後に捕らえられて銃殺刑に処せられたそうですが、実質日本人が満州を支配していたとき(満州の行政機関では、長は五族協和のたてまえから中国人があたりましたが、権限は副の地位にいた日本人官吏が握っていました)、朝鮮半島に近い延辺部、北満などで日本の支配に抵抗していた東北民主聯軍のゲリラ活動を指して共匪と称していたものです。が、謝文東一派はいわゆる馬賊で、中国人、開拓団などの日本人を区別せず襲っていたようでした。 

 ハルピン到着は夕方。下車せず客車に坐ったまま何時間次の予定を待っていたでしょう。簡単な夕食が支給され、夜がとっぷり暮れた頃、何の説明もなくゴトンと動き出しました。列車は昭和30年代のことでしょうか。廃止される前の三等車そっくりの板製の背もたれ、固い座席で何十時間も過ごすのは大変です。座席の間の床に煎餅布団を広げてとにかく水平位置を確保したり、交互に向かい側の座席に足を伸ばしたり、それぞれ寝る姿勢を工夫していましたが、有りました!究極の特別席。網棚の荷物を下に降ろして、そこに横になるとまるでハンモック。

 私もいい具合に網棚の中央に場所を占めて、悦に入っていました。ところが二つの網棚の間に強引に割り込んだ、J君は列車のカーブの揺れか、速度を変えたときの衝撃か、網棚から転げ落ちました。下の座席で眠りこけていた数人のびっくりしたこと。どさっと大きな図体の下敷きになったのです。

 私たちの乗った列車がハルピンの駅を出発して、途中ノンストップで走っていた列車が、明け方、アンダー(安達)と言う駅に停車した時のことです。数えていませんでしたが、たしか14両は連結していたはずなのに、腰を伸ばすためにホームに降り立ってみると、いやに短いのです。間をおかずワァーワァーと中国人幹部連中が騒ぎ始めました。聞くと、ハルピンを出発する前に列車の編成替えをしていたらしいのですが、ウッカリ再連結することを忘れていたようなのでした。幹部が慌てて駅長室に駆け込んで電話していたようでしたが、何しろ、既に8時間は経過しています。

 ハルピン駅の方でもおそらく気づいていたらしく、置き忘れられた客車に別の機関車をつけて後を追ったようで、2時間もすればアンダー(安達)に到着するとのこと。いやいや、個人で旅行していても旅の移動最中には何が起きるかは誰にもわかりませんね。ましてや、大人数の列車移動では。

 私たちは駅の周辺をブラブラして時間をつぶしましたが、今、考えると、日本の鉄道で、駅員なり列車乗務員が、

「汽車のアト半分を○○駅に置き忘れてきましたので、当駅の出発は8時間遅れの○○時○○分になります。エー、ご迷惑をおかけしますが今しばらくお待ち下さい」

…なんてアナウンスをやったら、どうなることでしょうね。大雪に閉じこめられたり、強風で走れなかったりの自然災害や、事故などによるものでは、現代の日本でもあり得ることですが、「客車を置き忘れてきましたので」では納得しないでしょうね。鼻をぶうぶう、非難囂々。…(今だったら、カメラを抱えて、これ幸いと街に飛び出し予定外の撮影ポイント探しに走り回った…と思います)

  三日目の夕方、チチハル到着。 

● チチハルにて

 夕暮れのチチハルの街…印象としては、いままで過ごしてきた、あるいは立ち寄ったことのある新京、ハルピンなどの都会に比べて言うと、大きくはあるがだだっ広い田舎町。フーチンを出て、どこまで流れて行くのだろうと考えていたが、街の中心からやや外れたところにある二階建ての宿舎に入り、一晩過ごしたところで、どうやら当分はここで病院を開設するらしい…と分かってきました。

 宿舎はフーチンでのほぼ一年、満州式の中国人の家でしたが、チチハルで割り当てられた二階建ての宿舎は、アパートのような作りになっていました。ここで開設された病院は、どうやら今後の移動の時期まで待機する…といった気分で、収容した患者も戦傷病患者はすくなくて、内科患者が主体だったようです。

 八路軍…これからは、中国人民解放軍に改称されていたので、単に解放軍と記します…が攻勢に移り、四平街から南に戦線が移動していたと覚えています。   ……一冬を過ごした街だというのに、街の様子はすっかり忘れ去っています。ただ、冬はフーチンと比べて一層寒気が厳しい土地でした。この街で過ごした冬、夜更けになるとウォーッ、ウォーッという狼の遠吠えがしばしば聞こえてきます。近くの川の支流がガチガチに結氷するので、餌が乏しくなる冬の狼が郊外の森あたりから、凍てついた川を渡って市内まで餌を漁りにくるようでした。日本狼が絶滅した状況で、狼の遠吠えなんて物語の中でしか存在しません。しかし、ろくに街頭もない夜更けに聞くと、背中がぞくぞくしてくるようです。

 アパートのような宿舎には、外に出て五〇メートルほど離れたところにしかトイレがありません。僅かな距離とはいえ、寒さは寒し、狼は気持ち悪いし…ということで、アパートのドアから出たばかりの右手の壁面の前に、日々、黄色い氷が成長してゆきます。

 さしずめ、日本なら小さなお稲荷サンのお札や赤い鳥居が打ちつけられているところ。でも、零下三〇度おまけに狼つきでは、誰も好きこのんで50メートル離れたトイレに走る人はいないでしょう。こんな、詰まらないことしか記憶にありません。

 

 ● タイライ(泰来)

 一年足らずで再び移動。これからの一年間には前線の南下はいよいよ急で、タイライ(泰来)、パイツェンズ(白城子)、トウナン(さんずい篇に兆と言う字に南と書きます)、カイトン(開通)…と、四カ所も移動しました。

 大興安嶺の東に、南北に広がる現在は「東北平原」と呼ばれる大平原の西の縁は、アルカリ地帯という土壌で、このあたりの地域に「旗」という名の付く興安東省、興安南省に接する内蒙古地域といわれていました。それが、どんな所か、タイライ(泰来)の街で実感しました。

 タイライ(泰来)では汽車から降りると、予定されていた場所までは、バスなどの便もないので、荷物を背負っての歩き。どうした加減か、私たち日本人は干し草を山のように積み込んだ馬車に乗せてもらったのですが、これが気持ちのいいこと。春先の穏やかな日射しに暖められ、干し草のクッションは申し分なし。ついウトウトしていると、土手からの下り坂に差し掛かったときに、車輪が何かに乗り上げたのでしょうか、ぽーんと体が浮いて草の生えた斜面に転げ落ち、たいして痛くもなく弾みでごろごろ落ちたのですが、私は後尾の方だったので誰も気付いてくれず、

「おーい、トンイーホル(待ってくれ)」

と叫びながら追っかける始末。

 タイライ(泰来)の町外れには、三ヶ月ほども過ごしたでしょうか。ここでは病院の開設の予定もなく、前線の進み具合を計っていたのか、のんびりした日々でした。珍しかったのは、皮をはいだ兎の丸焼き。夕暮れ時になると、天秤棒の両端の籠に丸焼きにした兎を入れて売りに来る農民がいました。赤剥けになった兎はたいそうちっちゃく見えます。試しに買ってかぶりつくと、鶏肉に似た淡泊な味手で美味。

 そこで、八路軍の兵士に旧式の三八銃を借りて、草原に兎撃ちに出かけましたが収穫はゼロ。何発か撃ちましたが、相手は草陰を素早く走るので狙撃兵ではない私たちには到底無理な相談でした。

 やがて夏。

 駐屯している宿舎から、徒歩で10分もあるくと広い池があります。じりじり照りつける太陽にたまりかねて、泳ぎに行きました。草原に囲まれた池はちょっとした湖のように見えます。パンツ一丁になって、じゃぶじゃぶと踏み込んでいったのでずか。…・どこまで行っても深くならず、すねの下くらいしかありません。そして、水がいやにぬるぬるしています。まるで石鹸水。水泳はあきらめて、試しにパンツを脱いで洗ってみると、汗の汚れがどんどん落ちます。

 濯ぐ水がないので、このまま乾かしても気持ちが悪くて穿いていられない。ここにたどり着く前に壊された給水塔があったことを思いだし、岸に上がると濡れたままのパンツを穿き、シャツとズボンは手に持って給水塔のところまで歩きました。給水塔の上部は砲撃されたのでしょうか、吹っ飛んでいましたが、覗いてみると綺麗に澄んだ水面が遙か下に見えていました。直径5メートルほどの壁面には鉄梯子があります。パンツは穿いたまま、そろりそろりと水面に手が届くところまで。試しに手を浸けてみると、じんとするくらい冷たい!!!しかし、ぬるぬるパンツのままではと、手すりにすがりながら体を沈めました。

 ○玉がぎゅっと縮みあがるーっ。高齢者や心臓の悪い人では一発でアウトでしょうね。まあ、せっかく洗濯したのに帰り道でまた汗ぐっしょうり。貴重な発見と初体験でした。

 

●白城子・開通

 白城子については、ひどい…としか言いようのない記憶喪失状況。当時の資料を見ると、龍江省の白城県白城子街となっていて、このあたりの中心地ということは分かりますが、おぼろげな記憶をさぐっても、いかにも中国風といった煉瓦造りで、緩いカーヴの屋根は泥で塗り固められたもの。病院らしい活動をした覚えも有りません。

 が、更に南下して開通に入ると、すぐさま病院の開設に向けて活発な活動が始まりました。恐らく前線から相当近いところだったのでしょう。施設の整備が終わらないうちに、もう、どんどん傷病兵が運び込まれ、フーチンを出てから移動に継ぐ移動でろくに仕事らしい仕事をしなかった私たちも、俄に忙しくなりました。

 

(2)西満での病院開業 

 移動に次ぐ移動の日々で、富錦の第7後方病院以来、まともな診療活動は、開通に落ち着いてからでした。もう国民党軍との戦争の前線は、遥か南に下っていましたが、やはり、戦線から担架にのせて送られてくる戦傷病者は、なまなましい戦いの血なまぐさい風を伴っていました。平和な世の中ではお目にかかれないその状況を、傷病の状態でお伝えしたいと思います。

【様々な病気 その1】

 特徴的なことは、傷病兵の移送に時間がかかったためでしょうか、戦傷後の手当が悪く、傷口がひどく悪化していて、膿に蠅の蛆が湧いている有様。特に骨折をともなっている場合、応急で施したギプスの中で大量の蛆が発生していて、モゾモゾ蠢く蛆に痒い、痛いと訴える患者が多かったのを覚えています。ギプスを外すと、異様な腐敗臭。看護婦さんたちは傷口の周辺を広範囲に清拭し、消毒し、改めてギプスを捲きます。次から次へとこうした戦傷者が運び込まれて来るので、ろくろく休む暇さえ無かった状態でした。

 また、泥の付いた軍服のまま不衛生に長時間さらされてくるので、破傷風、ガス壊疽と言った嫌気性菌による外傷感染の患者もびっくりするくらいたくさん運び込まれてきていました。

 [破傷風]

 破傷風患者は菌の毒素で、まず咬筋の痙攣により歯をくいしばったように口が開かなくなる牙関緊張が現れ、特徴的に顔面筋の痙攣により笑ったような「破傷風顔貌」を呈します。次にうなじか硬直し、病状が進行すると痙攣は全身に広がり、ちょっとの刺激でも頭と足を支点として全身がそっくりかえります。反弓緊張…弓のように反り返るのです。

 口が開かなくなり、食事の摂取が不可能になることによって衰弱を増し、全身の痙攣で注射さえ出来なります。こうなると、痙攣を誘発しないよう少しの光でも刺激となるので、窓のすべてに暗幕を張ります。治療するためには先ず痙攣を抑えること。はじめにクロロフィルム吸入麻酔→次に抱水クロラールの注腸麻酔→モルヒネの内服……と言うサークルで、痙攣を抑えながら、治療するわけ。現在で有れば、抗毒素血清を使いますが、当時の状況では血清の入手も難しく有効な手だては有りませんでした。やがて呼吸筋の麻痺、心筋の麻痺。ここまで来ると、死亡率100%。

 [ガス壊疽]

 担架に乗せて運び込まれてくる患者に、大腿部がパンパンに腫れている患者も目立って増えてきました。やはり傷口から嫌気性菌のひとつガス壊疽菌感染によるものです。血がこびりついたズボンを切り裂き、応急手当の包帯をはずすと、大腿部の皮膚がピンピンに張りつめ淡紅色を呈し、押さえるとプチプチと小さな気泡が潰れるときのような音がします。これは皮下組織や筋肉が壊疽を起こしてガスを発生しているからで、診断は容易です。

 しかし放置していると、すぐ死亡につながりますので、一刻を争って患部のある四肢を切断しなければなりません。早期で有れば患部の切開という手段もありますが、運び込まれてくる患者は大抵が手遅れの状態。人手が足りないので、私もたびたびアンプタチオン(切断)の手伝いをさされました。手術台の足下に廻り、切断される方の足を持っている役目。刺身包丁のような長い刀でぐるりと皮膚・筋肉を切り、骨の断端を包み込

むため、皮膚・筋肉をガーゼで上方へ引き揚げ、大腿骨の切断、断面に鑢を掛けて滑らかにし、上に引き揚げた筋肉を戻して骨端にかぶせて包み、皮膚を縫合して一丁上がり。私は切り離された大腿が、こんなに重いものとは知りませんでした。とたん、ドサーッと支持していた腕にかかる重量!!…何度体験したことでしょう。ものの本によると、現在では「全身療法が発達し死亡率は約10%に下がっている」とありますが、当時では有効な薬剤もなく、死亡率も90%くらいだったように思います。

 開通の病院でも、破傷風・ガス壊疽とも専門病棟が出来るほどの患者で溢れていました。日本でも、最近まで破傷風にかかったという例は聞いていますが、ガス壊疽にかかったということは耳にしません。破傷風も血清の普及で、あまり問題になる…ということもないのでしょうか。

 小林典雄さんはお医者さんとのことですが、いかがですか?もし、手遅れ気味の破傷風の患者や、大腿がパンパンに腫れあがったガス壊疽の患者さんばかり大挙して何百人もやってきたら…やはり大変でしょうね。

 [結  核]

 昭和30年代のはじめくらいまでは、結核は亡国病といわれ、パス、ストレプトマイシンが普及するまで、極めてやっかいな病気でした。昔は結核と言えば、サナトリウムに隔離され、大気安静療法とか肺切除・胸郭成形術などが代表的な治療法で、結核患者が出た家には人々は遠回りして近づくまいとしました。

 青白い文学青年と肺結核は、なんだか切っても切れない関係のように思われ、適切な治療法が無いため、あたら才能に恵まれた人々が結核で夭逝した例は枚挙にいとまがありません。終戦後、帰国の便に乗り遅れ旧満州にとどまった日本人も、生活条件の過酷な変化と、激しい労働、栄養状態の悪化でたくさん無くなりました。病院に徴用された仲間でも結核による死亡者は、大変な数に上ります。治療法と言えば、カルシュウム剤の静脈注射のみ。空洞の周りを石灰化させて病巣の拡大を防ごうとしたのでしょうか。

 また、私の周辺で亡くなった人々のうちには、奔馬性結核、粟粒性結核などという短時間に急速に悪化する結核が多く、あっけなく亡くなって行きました。全身状態、栄養状態が悪かったせいでしょう。

【様々な病気 その2】  

[伝染病と隣り合わせ]

 真性天然痘、チフス、コレラ、マラリア…と言えば、何となく熱帯・亜熱帯の病気という風に思っていましたが、在満八年の放浪の過程で、すぐ身近に接しちょっとビビッタことがありました。すぐ隣に寝ていた同僚(中国人)に突然、発疹があらわれ、天然痘だと診断されたことがあったり、激しい吐瀉・下痢を起こしてコレラで隔離されたり、突発的に高熱を発し三日熱マラリアだったり、…・自分ももう感染していて、何時発病するか分からないと言う恐怖も何度となく味わい尽くしました。天然痘、コレラを発病した同僚はすぐ隔離されたので、その後の転帰については覚えていません。

 マラリアで高熱にうなされていた同僚は、いくら布団を掛けても「寒い、寒い」と悪寒を訴え、ブルブル震え通し。二、三人がかりで上から押さえつけていても、なかなか震えは止まりませんでした。当時、手に入った治療薬はキニーネとアテブリン。投与後は白目が黄色くなっていましたが、三日もするとウソのように熱が下がり、気分も恢復しますが、また高熱発作を繰り返し、譫言を発したりします。

 [梅 毒]

 前々から、満州の梅毒は悪性だから気をつけるように…という話を聞いていましたが、オチンチンがザクロのように腫れあがり、ぶつぶつ穴が開いて膿を出している患者や、全身にゴム腫が出来ている末期梅毒患者もいました。一度、手が足りないからと梅毒患者を集めた病棟に行き、処置の手伝いをさされましたが、気分が悪くなり、夕食が食べられませんでした。

 [ペストの防疫]

 西満にペストが発生して防疫隊として派遣されたことがあります。人口のあまり多くない農村地帯だったのですが、宿舎に割り当てられた農家の一間きりの空き家に初めて泊まった夜、びっくり仰天。宿舎は入り口からまっすぐ奥の突き当たりまでか土間。その両脇に床が韓国のオンドルと同じ構造になっている床暖房の一段高くなった寝床。冬は竈の煙が床下をジグザグに通って、土で塗り固めた床を暖房します。

 夏だったのでもちろん暖房は不要。土の上に藁を敷いて、その上に持参した布団を敷きます。だが、到着したとき、一歩足を踏み入れてびっくり、ものの七メートルほど歩いただけで、わらわらと蚤が飛びついてきます。表に飛び出してズボンの裾をめくり上げると、もう蚤が二、三〇匹とりついていました。ズボンを脱いでパタパタと蚤を払い、早速、蚤の駆除。どうするかと言いますと、土の床の上に藁を敷き並べて火をつける…焼き討ち作戦です。皆さんもご存じでしょうが、ペストの防疫にはまず蚤と、蚤を媒介する野ネズミの駆除。

 これだけ蚤がはびこっていては、いったんペストが発生すると蔓延は時間の問題です。幸い、焼き打ち作戦が功を奏したのか、蚤の襲撃からはほぼ免れたものの、明くる日調べてみると、やはり全身に二〇カ所ほどは喰われていました。

 ムソグルスキーに「蚤の歌」と言う作品があります。昔、手回しのSPレコードで、シャリアピンの素晴らしい独唱を聴いたことがあったことを思い出しました。と同時に、何の脈絡もなくシャリアピン・ステーキまで。今度は「虱の歌」でも探しましょうか。

 旅風景とはいささか外れたいろいろな雑事を書き連ねていますが、この連載を始めてみると〈トイレという瞑想室〉に籠もっていると、些末な出来事が次から次へと脳裏に甦ってきます。病院で働いていた日本人たちも、たくさん発疹チフス、回帰熱、結核などで命を落としました。各地に残留していた日本人も、かなりの死亡者を出しています。

 終戦直後はいっそう悲惨なものでした。何人かの死者を大八車の上に積み上げ、郊外に掘った大きな穴の中に葬ったこともあります。残留日本人として調査された以外にも、そうした…今は不明者に数えられている人々も多いものと思っています。合掌。

 いろいろ有りました……いろいろやりました。このあたりで、病気のことは一段落して、別の話題に移りたいと思います。

(3)私のお仕事 

 人間…どこでも、どんな事をしても…やれば生きて行くことは出来るんだ…なんて不遜な自信を得たのも、終戦後のどさくさの時、その後に八路軍について新京を脱出して以後の経験からでした。

 【新京にて】

 まず、終戦直後。

 朝鮮の牧師と組んで、露天の古本屋。これは以前に国民党の特務と喧嘩して拳銃を持って追いかけられた話しをしましたが、ソ連軍駐留時代のことで、「いつ日本に帰れるだろうか」と浮き足立っていた日本人の日本人家庭から仕入れた「岩波書店・刊 八杉貞利編 露和辞典」「和露辞典」の売れ行きは絶好調でした。二束三文で買い集めたものが、10倍近い値段!!帰国を待つのみの日本人とは違い、ソ連軍が入ってくると、それも商売のタネにしようとするくらいの根性の中国人たちが、露和、和露の辞典を買って行くのでした。

 また、露和・和露辞典類と同時に、中国人と組んで家庭を廻って古着を買いあさり、露天の市場で「誰要買(スイ、ヨウマイ。スイ、ヨウマイ)」と、着物や洋服を肩に掛けて売り歩く商売。組んでいた中国人は、汚れで模様もはっきりしない裾の長い中国服をぞろりと着て、誰彼となく捕まえては、私の仕入れてきた服を売りつけていましたが、こちとらは雰囲気に呑まれておたおたするばかり、…この事は、恥ずかしくて書きそびれていました。エエイ、カイチャエ

 昼過ぎになり、お腹がすいてくると相棒の中国人は、大きなクレープのように薄く焼いたチェンピンの中に太いままの葱に味噌をつけて捲いたものにかぶりつきます。馬車夫も御者台に坐ったまま、同様に大きな葱を捲いたチェンピンにかぶりついていました。その頃について思い出す庶民の風俗です。

 【八路軍に入って】

 ハルピン、ペーアン、コーシャン、ジャムスと移動し、フーチンに落ち着いたときには、中西さんというレントゲン技師について、助手。既に書いたことですが、定期航路船に乗って松花江を遡上しハルピンまで機材の受け取りに行き、組立からレントゲン透視、撮影などの助手をしていました。裸の管球から出る二次散乱光線にさらされながらの仕事です。よく被害に合わなかったものです。

 戦線の南下に従って興安嶺の東、アルカリ地帯に移動してきた頃は、収容する戦傷病者が急増し、医師・看護婦の不足が深刻になりました。急ごしらえの看護婦養成のために、日本人・中国人医師は激務の間を縫って、雑役をしていた中国人の女性に看護婦教育をしていましたが、問題は絶対的な教材の不足でした。

 私は、解剖図などの掛け軸製作にかり出され、解剖学の本の図をケント紙の全紙大に伸ばした図柄を墨・インク・絵の具などで描くのですが、骨筋肉・血管・神経などを描きわけなければなりません。まるで細密画の世界。

 開通に移ったときに、後送されてくる患者が激増。既存の医師だけでは対応仕切れなくなり、病院幹部が考え出したのが「医務助手」という制度。経験豊かな日赤・陸看などの婦長クラスを対象に登用試験を実施したのですが、どういう訳か、私にも受けろ…という命令。結果、筆記試験で一番になり、正規の医師による指導監督のもとで、二、三十名の患者を受け持ち、医療を手伝うことになりました。早く言えば、衛生兵のようなものですね。

 

 〔延吉の病院にて〕

 これは、一年後に延吉に移った病院のことですが、医務課勤務になり病類統計の仕事。この時には、もう旧満州地域での対蒋介石国民党軍との戦闘は、山海関を越えて中国本土に入り、旧満州では復旧建設の時期に入りかけてきました。病院に収容した戦傷病者の数も次第に減って、町の開業医では手におえない患者や慢性疾患の比率がだんだん上がってきています。それに対応して、陸軍病院としての性格から、地方の総合病院としての役割に変わってきていました。病棟も、戦傷後のリハビリを兼ねた外科病棟以外に、数の多い特定の病気の専門病棟も出来ました。

 顕著な例がカラ・アザール病棟。脾臓が腫れる病気で、病状が進んだ患者の腹部は妊娠末期のお腹のようにパンパンに膨れ上がり、医師が触診しながら腫脹の範囲を腹部に描いて行きますと、小児の頭ほどにもなっていることがありました。

 東北地区の基幹病院の会合で主治医が症例報告をするため、私は医師の指示で様々な統計資料やグラフを描くのに徹夜を続け、過労でダウン、入院してしまったこともあります。

 〔奉天=瀋陽にて〕

 軍関係の病院ばかりについて廻っていましたが、民間に出て、瀋陽(旧奉天)の東北工人医院(中国では開業医のような個人経営の小さな規模の診療所を「病院」、総合病院のように大きな医療機関を「医院」と呼んでいました)では、同じく医務課に所属していましたが、新しく開設した病院の原票、統計様式一切を任され、おまけに若い中国人に統計について教えていました。

 一年後には、統計の仕事はだんだん配属されてきた中国人に任せ、今度は医学書が足りないからと、医務課長が持ってきたのはロシア語で書かれたレントゲン診断学、上下二巻の翻訳。医学用語辞書など手にはいりません。とりあえず私が要求したのはラテン語とドイツ語の辞書。ロシア語の単語を拾ってみると、学術用語は外来語にロシア語の語尾がついているようなので、それならラテン語とドイツ語の辞書さえ有ればなんとかなるだろうと考えたものです。

 結果、朝から晩まで辞書と首っ引きの生活が二年。学術書なので構文は非常にシンプル。日本語を介在させると余計に煩雑なので、ロシア語から中国語へストレートに訳し、医務課所属の日本語に堪能な王医師と二人で読むに耐える中国語にするための校閲に大部分の日時を使いはたしました。

 私の終戦後の八年間は何だったのでしょう。やれと言われたことを、がむしゃらにやって来ただけですが、それで結構おまんまを食べてこられました。私の、市場での立ち売りから翻訳業までの職業遍歴は、以上のようなものです。

 1953年早々、私たちにも帰国の機会がめぐってきて、病院の中国人たちに見送られて招待所(収容所)に移り、天津で待機。郊外のタークー港から高砂丸に乗船。三月十八日に舞鶴港に入港しました。

 タークー港を出航して半日、山東半島の先端が見えてきたとき、「ああ、これで本当に8年間の月日を暮らした中国ともお別れだ」…と、複雑な感慨が突き上げてきました。

 故国、舞鶴港の狭い水道に入ったとき、ちまちました家屋が視界に現れたとき、広漠とした中国の景色と比較して「なんと箱庭のような風景だろう。しかし緑が鮮やかで美しい。」…という帰国の第一印象を感じました。

                                (完)


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