終戦後の旧満州残留放浪記 (第4回)
辺境…富錦での1年間
その2 (6)泡のような…不確かな記憶を拾ってみたら(その2)<番外アラカルト・1>
以前、配達されてきた「週刊朝日」1998年2月6日号の巻頭グラビアを見てびっくりしました。
『遊びで挑む「夢の人生」 出世曼陀羅双六』という見出しで、江戸東京博物館において2月に開かれる「絵双六―遊びの中のあこがれ」という展覧会のことを紹介していますが、……。明治・大正・昭和に作られたものの中から、少年少女雑誌の付録につけられたものから「冒険小説双六」「大正大震災双六」など7種類をカラーグラビアで紹介しています。
中でもドキッとしたのが、1940
年(昭和15年)に、大政翼賛会/指導、新日本漫画協会/案・画…という「翼賛双六」というしろもの。パソコン通信を楽しんでいられる皆さんの大部分は、50歳以下だとおもいます。…ということは、戦争を知らない世代に属していられて、おそらく「翼賛」という今はとっくに死語となった言葉も聞かれたこともないでしょう。軍部が、当時の日本の貧弱な武器のことも、工場生産の状況も、世界の国々の実力も知らずに、無謀にも国民全体を巻き込んだ太平洋戦争に協力させるために掲げたスローガンが「翼賛」で、すべての国民に無条件協力を強いる言葉です。「翼賛双六」には、そうした死語がいっぱい散りばめられてあります。以下に私が拾い上げた死語のうち、皆さんはどのくらいご存じでしょうか?初めの方には、当時の(今もある)職業が羅列されていますが、進んで行く内に、すべてを挙げて戦争に協力させるための言葉に変わって行きます。
1.
国民学校 18.工場労務員 35.勤労奉仕2. お菓子屋 19.洋服屋 36.国債
3. 本屋 20.ペンキ屋 37.体力検定
4. 洋品屋 21.床屋 38.防空演習
5. 青年学校 22.官吏 39.警防団長
6. 八百屋 23.木炭配給 40.国民服
7. パン屋 24.砂糖切符 41.回覧板
8. クスリ屋 25.マッチ切符 42.事変記念日
9. 寿司屋 26.米配給 43.慰問袋
10. サラリーマン 27.酒屋 44.科学振興
11. 煙草屋 28.奉公日 45.産業報国
12. 宿屋 29.常会 46.枢軸強化
13. 乾物屋 30.組長 47.日支事件
14. 肉屋 31.傷病兵慰問 48.忠霊塔
15. 呉服屋 32.貯金 49.協力会議
16. 大工 33.納税 50.大政翼賛会
17. 魚屋 34.献納運動
(上がり)以上の中に、今も存在する何気ない言葉もありますが、当時の社会状況の中で、どんな意味を持っていたのか、についてもし正確にご存じの方は少なくとも定年を迎えていられることと思います。「常会」とか「回覧板」などという言葉から、「とんとん とんからりと隣組…」というメロディーがすぐ頭の中に浮かんでくる人は、たいてい私ろまねすくと同年代だと考えられるし、「警防団長」とくれば、おおかたは退役軍人で、カーキ色の国民服を着込み、俄に胸をはって町内の奥さんがたを呼び集め、焼夷弾の火を叩き消すための縄で作った「はたき」や竹槍を持たせ、米英撃滅のスローガンに唱和させ、訓練の号令をかけていたお爺さんを思い起こせる人は、私の同類。
「衣料切符」…→ あのペラペラの粗末なスフの服。
「米配給」……→ 1日一人7勺、しかも大部分は代用食と言って、大豆から油絞り取った糟、芋の蔓など箸に
も棒にもかからない代物。旅するにも、米切符を持参しないと宿も泊めてくれなかった。
まだ、この双六が作られた昭和15年は、大東亜戦争が始まる1年も前。食糧事情も飢餓には到らないときのことです。昭和17年ごろから、戦線の伸びるに連れて急速に悪化し、やがて、国民は総飢餓状態に追いこまれて行きました。
旧制中学校以上には、古手の軍人が配属将校として君臨するようになり、校長以上に威張っていました。
「おい、軍事教練をサボると(高等学校、大学進学の)内申書を書いてやらないぞ」
と生徒を恫喝していました。
さあ、皆さんは上記の50のキーワードのうち、どのくらいご存じでしょうか。
<番外あらかると・2……歌>
フーチンに落ち着き、仕事も軌道にのって余裕らしいものが出来てくると、娯楽による精神のリフレッシュが求められるようになって来ます。…と言って、未だ古い時代に代わる新しい文化は生まれていません。そこで旧来の流行歌が歌われ、レントゲン技師の活発な奥さんが、皆の歌う「伊那の勘太郎」などの歌に合わせ、お盆を三度笠にして股旅物の踊りを披露したり、戦前の流行歌が幅を利かせていました。
やがてソ連映画が入ってくると、第二次世界大戦時代のコルホーズの生活を描いた「幸福な生活」が上映され、その中の主題歌、挿入歌が流行し、同時に「ともし火」「カチュウシャ」「バイカル湖のほとり」などのロシア民謡も好んでレパートリーに加えられるようになりましたが、それが、何時、何処にいた時のことだったのか、まことに<まだらボケ風>ではっきりしません。
そこで、<番外・2……歌>という項目をたてて、思いつくまま並べてみるとにしました。時代めちゃくちゃ、考証不可能(綿密な考証は資料不足と根気不足)……。フーチンからずっと後の時代になるかも知れないが、中国物のメロディーに親しんだのは、先ず「ヤンガー(秧歌)」と言う踊りのメロディーです。単純な四拍子の明るいメロディーのフレーズの繰り返しですが、単純なだけ浮き浮きとした祭りの気分を盛り上げるのには最適。
踊りはとても阿波踊りに似ています。2歩進んで1歩下がる所作の繰り返し。だ阿波踊りは、男踊りも女踊りも手を上に上げてひょうきんに踊ります。殊に男踊りは腰を落として踊りますが、ヤンガー(秧歌)は背を起こし手は歩行の時と同じに前後に振るだけです。…ということは、並んで行進するには都合のいい踊り。単純極まりない所作なので、誰でもすぐ参加できるのが特徴でしょう。
何か祝い事のあるとき、行事の余興として、万人がすぐとけ込める踊りは、あから40年以上経った今でも中国のニュースに登場しています。次に忘れられない二つの解放前後に流行った歌について書いてみます。
● 「九一八(チュイバァー)」
918…といっても、ニフティ・サーゥ゛にアクセスしていられる戦後生まれの方々にはピンとこないかも知れません。言葉をかえて言えば、日本の国民に真相を隠して始められた、日本軍部の策動によって始められた中国侵略の第一歩として、被害者の中国の民にとつては忘れられない日なのです。
講談社が刊行している週間
YEAR-BOOK「日録20世紀」の1932年・昭和7年(平成10年6/13合併号)の表紙には、『関東軍、「満州国」建国』という表題で若い傀儡皇帝溥儀の肖像で飾られています。くだくだしく記事の内容を引用しませんが、「満州国」年表を見ますと、1928年6月 4日 関東軍、張作霖を爆殺
1931年9月18日 関東軍、柳条湖の満鉄線路を爆破(柳条湖事件)、
「満州事変」はじまる。
……とあります。同年11月10日には、関東軍・土肥原大佐の手引きで、ラストエンペラー溥儀が天津から旅順に連れてこられ、翌1932年1月には「上海事変」勃発、3月には「満州国」建国宣言。溥儀は執政に祭り上げられます。
祖国の一部を略取された中国の人々は、日本が本格的に中国に侵攻した屈辱の記念日として「九一八」を心に刻みつけたのです。その恨み節が「九一八」として、長く歌い継がれてきたのです。歌詞には間投詞として
JIS規格の語彙にないものがありますので、感じを掴んでいただくために、最初の一節を中国語で、ただし間投詞の〔なが=那個〕は「」の中に入れておきます。九一八
我的家 在東北 松花江上
那裡有 森林煤鉱 還有那
満山辺野的大豆高梁
我的家 在東北 松花江上
那裡有 我的同胞 還有那
衰老的 ていぇ娘(ちちはは…という語ですが、初めから日本語に訳してみます。彼らの故郷喪失、故国喪
失の悲哀が感じられるでしょうか。
「九一八」
私の家は 松花江のほとりにあり
そこには 豊かな森林や炭坑があります
そこには 到るところに 大豆や高梁が稔っています
私の家は 松花江のほとりにあり
そこには 私の同胞たちが暮らし
年老いた 父母がいます
九一八 九一八
それからというものは 悲惨な時を迎えました
故郷を追われ 家を失い
無尽蔵な宝の山を捨てて
流浪に流浪を重ねて
何年何ヶ月になるのでしょう
もうどの位 歳月を重ねたら
失った故郷に帰れるのでしょう
父よ、母よ
何時になったらあなた達に
再びお会いすることが出来るのでしょうか
次ぎに「
白毛女」という歌を取り上げて見ます。京劇にもなって、解放直後の中国では愛唱された歌です。地主に借財の代わりに囚われた少女が、耐えかねて山中に逃げ込み、資産家・地主の支配する国民党中国から解放されて、発見されたときは、厳しい環境の中で、あの美しい黒髪が白髪に成ってしまっていた、……という物語です。
北風 〔なが=那個〕 吹
雪花 〔なが=那個〕 飄
満山 〔なが=那個〕 雪地
一翅鳥
北風が吹き
雪の花が舞い
山々は雪におおわれ
一羽の鳥影が過ぎる
といった後日、白毛女と呼ばれた若い女性が、主家の地主の家から逃げ出し、雪の降り積もった山中に籠もったときの情景が切々と歌われます。あとの歌詞はすっかり忘れ去ってしまいましたが、短調で歌われるこの歌は、西欧のどの作曲家の作ったエレジーよりも哀切、こころを揺さぶるものでした。
日本が敗戦を迎え、アメリカ軍を主体とした占領軍に支配された戦後でも、主権を奪われてもカタチだけでも政府、行政府は置くことが出来、きびしい食糧難はありましたが、故郷喪失の悲哀は沖縄を除いてはあまり感じなかったことと思います。
その後、経済はめざましい発展を遂げ、未だあの大戦時代に他民族の土地を蹂躙し、権力者として居座ったことは綺麗に忘れ去っているのではありませんか。未だに、日本の仕掛けた戦争は悪いことばかりではなかった。東南アジア諸国の独立に貢献したではないか…と、泥棒も三分の理を言い立てる人さえ少数でしょうがいます。国際感覚の豊かなみなさん、いかが考えられますか。
<番外・3……喧嘩>
ニフティ・サーヴというパソコン通信のワールド・フォーラムで、満州は新京生まれのHIROS
さんのコメント(#01867-98/01/25)で、「処刑と喧嘩」という題で実際に見聞された中国人の仲間内の喧嘩について書いていられましたので、私からも一言。私は、満州電業の会社員として数ヶ月、終戦直後の八路軍に徴用されるまで半年だけののシャバ暮らしをしただけで、八路軍という特殊な社会に入っていましたので、中国人同志の喧嘩沙汰では、壮絶な罵り合いはよく見ましたが、殴り合いは見たことが有りません。で、私が遭遇した喧嘩における罵詈雑言のかずかずについて、いささか考察してみたいと思います。で……題して、
【恣意的・独善的
「中国の悪口雑言の考察」…なんちゃつて】これから私が取り上げる悪口雑言は、どこの語学校の教科書にも載ってはいない語彙ばかりでしょう。8年間、中国人と働き、暮らしている中で自然に耳に入ってきた言葉ばかりなので、なかなか皆さんにお判り頂けるような文字では書けません。もう一つには、俗語・俗諺に発した言葉なので、中国語の辞典類にもおそらくは収録されていないでしょう。
二つの方向がありますが、一つは日本語の「馬鹿」「阿呆」に類する言葉で、スッポン、あるいは亀が悪口として用いられます。日本では、鶴は千年、亀は万年…と、おめでたい長寿のしるしとされていますが、中国語では、
王八蛋(ワンパータン) スッポン野郎
王八頭子(ワンパートウズ)スッポンの頭野郎
…などと使われますが、一ひねりして、鶏把蛋(チーバタン)鶏把頭子(チーバトウズ)鶏把毛(チーバモウ)などとも言われます。鶏把とはオチンチンのこと。スッポンの頭とオチンチン…似ていませんか、私は言い得て妙と感じていますが。ちょっと品が落ちますね。チーバモウはオチンチンの毛…で同義語です。
もう一つは、更に下品な悪口ですが、発祥は中国の儒教社会の思考方法が淵源だと、勝手に解釈しています。つまり、先祖や親を無条件に敬う…ところから、「私はお前の親だぞ」とか「目上だぞ」と、自分の優位性を誇示して相手を畏怖させるためのレトリックだと思います。基本形を上品に表せば、
「我是にい(*)的父親」 *MS−IMI97にもATOK11にも
「にい」というにんべんのお前という意味の字がありません。
上品に言えば「私はお前の父親だ」…従って目上だぞ。だが、言い合いの喧嘩をしているときに、そんな品のいい言葉遣いはしませんね。で、「我是にい(*)的ティエ(おやじ)」と言う俗な表現になります。
これが、言い回しの妙で、「ニィー ス ウォー ゾウデ」。ニィーはお前、スまたはシ(是)ウォー(我)ゾウ(作る)的…「お前はわしが作ったのだぞ」となります。これが第一変奏曲。
後は数限りなく、言い回しの変奏曲となります。中国語でも、父母の呼び方は数々有りますが、母親は文字通り母親と書いて「ムーチン」。ですが女偏に馬で「マァー」も母親。それで、いささか品のない言い方「ウォー(我)ツォー ニィー マァー」つまり、俺はお前の母親とやったぞ…つまり、母親にお前を産ましたのは俺だぞ…となり、基本形の意味を別な言い方で悪口らしく表現した訳。
二人の言い合いになると、エスカレートして、お前のおばあさん(祖母)とやったぞ、となり、「ニーデ パパ ス ウォー ゾウ デ」(お前のお父さんは、わしが作ったのだ)などと千変万化。口喧嘩の場合、咄嗟のやり取りで、お前は儂の目下だという意味の罵詈雑言をどんどんエスカレートさせてゆきます。
でも、もし中国を訪問される場合はくれぐれもこれらの言葉はお使いにならないように。貴方の、貴女の品性が疑われますから。
子供も幼稚園にあがり、小学校に通う年頃になると、友達から品のない悪い言葉から覚えてきて、親を困惑させますね。同様に、海外に出た日本人の中にも、そうした悪い言葉を教えている人もいるようです。イタリア旅行で、ミケランジェロの「最後の晩餐」を見るために、ミラノのサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会を訪れた時のこと。入り口で手に絵葉書やミラノ観光案内の日本語版を持ってしっこく売りつけてくるイタリア人がいました。
同行のめんめんの誰一人買いそうにないと、がらっと口調を変えて、馬鹿野郎、貧乏人、どケチなどの悪口雑言を並べ立てるのです。こころない日本人旅行者の品のなさを感じて、聞いていて恥ずかしくなりました。
ほい、脱線。中国語罵詈雑言学に戻ります。
中国解放の主力となった軍人たちは、湖南省あたりから黄土地帯の延安まで大遠征してきた毛沢東たちに従てきた貧農、工場労働者が中心となり途中に参軍してきた人々です。で、古参の幹部たちは、土俗そのままの言葉遣いで、軍隊内でねあるいは街頭でアジ演説をする場合でも、上に述べた悪口の切れ端を、大平元首相の演説に絶えず「あー、うー」など意味のない間投詞を入れるように、「タ マーデ」などと挟みます。原義から離れて、アーウー式の物ですが、どこか可笑し味があったものでした。
悪口の中身には、女性の性器を指す「ピー」という俗語があり、はじめの方で紹介した「ウォー(我)ツォー ニィー マァー」に加えて、ウォー(我)ツォー ニィー マァー ラカ ピーと言う柄の悪い言い方、お前のお母さんの***とやったぞ」という風に使われました。 中国人の演説の中にも、こうした下品な言葉が「あー」とか「うー」と言った間投詞のように頻繁に使われます。…もう書いていてうんざりしてきましたので、ここで止めて、本来の旅行記らしいものに戻ります。
国民党軍に対して、押されっぱなしだった八路軍改め中国人民解放軍が攻勢に転じ、どんどん前線が南下してゆき、私たちの第七後方病院からも何次かに分けてフーチンから移動していった時期になります。
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