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終戦後の旧満州残留放浪記 (第3回)

   辺境…富錦での1年間 

 

(1)フーチィン(富錦)で心に焼き付いた風景

 フーチィンはスンガリー(松花江)河畔の小さな町。ここに暮らした1年で一番心に残る風景と言えば、四季の移ろいによって様々な姿を見せてくれたスンガリー。

  【真夏のスンガリー】

 スンガリーの河岸に立つと、良く晴れた日でも対岸がぼんやり霞んで見えるほどの川幅があります。絶えず停泊しているフーチィン・ハルピン間の定期航路の船の白い船体が見え、石炭をバラ積みした喫水の浅いダルマ船や手漕ぎの漁舟が通っていました。こちら側に近く、樹の繁った中州のような島影が二つ。豊かな水量で表面を見る限りでは穏やかに流れていますが、その下に凄いくらい渦巻いている急な流れがひそんでいました。

 そのことを思い知ったのは、ある休日でのこと。この町の子供達も夏になれば水遊びに船着き場にやってきます。ごく岸近いところでバシャバシャやっているだけですが、北満とはいえ内陸性の気候で結構暑く、私たちも猿股1枚を水着がわりに泳いでいました。大きな定期客船は水深の浅い岸辺の桟橋には接岸できないので、100メートルほど沖合の島の近間に停泊し、小さな舟に乗り替えて上陸するのですが、私は病院の同僚4、5人と定期客船まで泳いで往き、しばらく甲羅干しして休憩していましたが、岸辺に帰ろうと、次々と甲板から飛び込んだのです。

 ところが勢いで1メートル以上も潜ったところ、表面とは違った水流が渦巻きながら大変な勢いで流れているのです。浮かび上がってみれば、もう客船からは50メートルほども下流に流されていました。ふと見ると、私のすぐ前でS君が苦しそうに水を掻きながら喘いでいます。下肢の痙攣でも起こしたのでしょうか。すぐ泳ぎ寄って脇から胴をかかえ、「ばたばたするなよ」と注意してから岸辺を目指して泳ぎ始めたのですが、岸辺と直角に泳いでいるつもりなのに、どんどん川下に流されていきます。

 なんとか踏ん張ってたどり着いた岸辺は、なんと客船も見えないくらいの下流。半身を川水に浸けながら、激しい息づかいの収まるまで休息。フーチンの町はずれも町外れ、疲れた体でS君をいたわりながら歩き、やっと宿舎にたどり着いたときはほっとしました。表面は穏やかに見えても、名だたる大河。無茶をするのではありません。

 【初冬のスンガリー】

 川岸の木々も、中島の木々も霜枯れて葉は落ち尽くしています。河岸はスンガリーの雄大な景観を見ながら散策したり、座り込んで休息したり、心の安まる場所です。とくに夕暮れ時ですと、定かには見えない対岸の空が真っ赤に夕焼け、その大きさと雲と水面に映る禍々しいほどの赤さに、身動きできないほどの感動を覚えます。一人で坐っているときは感動というよりは寂寥といった気分です。

 そんなある日、ふと気付いたのですが、手前の中島に黒々とした十字架がひとつ立っていました。夏から秋にかけては繁った木の葉に隠れていたのでしょう。小さな墓標でしょうか。終戦直前にこのあたりで戦闘があったということは耳にしていません。が、フーチンの町にキリスト教徒がいるとも思えませんし、万一、この町のキリスト教徒の誰かが亡くなっても、不便な中州の島に墓標を立てたとも考えられません。やはり、このあたりに住んでいたロシア人のものか、ロシアからやってきた人のものに違い有りません。

 何の関わりはないとしても、島の上に黒々と見える質素な十字架は、心に圧迫感に似た感慨をもたらします。

  【冬のスンガリー】

  ○結 氷○

 11月も末になると、結氷の時期を迎えます。私も大きな川がどのようにして氷に閉ざされるのか、見たことがありませんでした。北の海では、初め溶けけた「かき氷」のような、ざくざくしたものが押し寄せ、蓮のような氷となり、だんだん厚く凍り付いて行く…といった漠然とした印象でしたが、有る気温がぐんと低くなった日がつづいたある夜半、どーん、どーんという大きな物体どうしがぶつかり合うような音が響いてきました。中国人に聞くと、川が凍りかかっているのだ、ということ。

 明くる日、スンガリーの河岸まで見に行くと、盛んに上流から巨大な氷の固まりが流れ下ってきて、岸辺に打ち上げられた氷にのしかかるようにして砕け、大きな音を立てています。たたみ二畳ほどの大きさの氷が岸辺に打ち上げられています。石を穿つ水滴と言い、人々を家もろともに押し流してしまう洪水と言い、自然の中の水の怖ろしいばかりの力の前に、ただ呆然とするばかり。

 ○ 真冬の景色○

 スンガリーが完全に凍り付いてしまいますと、その上にしんしんと粉雪が降り積もり、白皚々…。そこに一筋の道ができ、馬車が積み荷を満載してゴトゴトと対岸を目指し、時折にはトラックも黒い排気ガスを吐きながら走り去って行きます。

 ハルピン・フーチン間の定期船も、島影に停泊したまま来春まで氷に閉ざされ、いつの間にか、こちら岸から氷上に電柱が船まで7、8本建てられて送電され、夜にはあかあかと電灯が点っていました。川の真ん中で船員達が、保守のため当番するのでしょうか。

  ○ 解 氷○

 あれは早春3月のことか、4月に入ってからかは記憶があやふやですが、ある夜、突然、夜半に川の方角からドーン、ドーンという体に響くような音が聞こえてきました。……そうです。あの結氷の時と同じ様な音。明くる朝、寒いのを我慢して食事前に川岸に駆けつけてみると、川の真ん中では一筋の水面が開け、大小さまざまな氷の固まりがぶつかり合いながら流れています。

 防寒着の綿入れの中で、手を擦りあわせながら、しばらく立ち去る気分になれません。壮大な自然のドラマが眼前に展開しています。岸に引っかかりかけてスピードの落ちた氷塊に、流れてきた氷塊がぶつかってドーン、ドーンという音をたてています。

 フーチンの春の跫音は、お腹に響きます。

 

(2)フーチィン(富錦)人間模様 [1]

 フーチィンには、私たち新京から移動してきた者ばかりでなく、あっという間に、各地から徴用されてやってきた日本人が増えていました。東満からは陸軍病院の正看護婦さんの集団が、ハルピンからはハルピン医科大学の医師たちと日赤の正看護婦さんたちが、ハルピン周辺に何カ所もあった開拓団からは、16、7歳の若い娘さんたちが……総勢で何人になるでしょうか。

 同時に、開院を待っていたように八路軍の戦傷病兵が、どんどん送られてきて、俄かごしらえの病棟はすぐに満杯になってしまいました。あーも、こーも言っている暇はありません。たちまちに賑やかな戦場と化してしまいます。まだ、中国人の医師は数えるほどしかいないので、治療は日本人の医師と看護婦さんが中心となり、開拓団からきたほっぺたの赤い娘さん達は、付添婦のような雑務に追いまくられています。

 しかし、前線から負傷して担ぎ込まれた兵士達は、懸命に身の回りの世話をやいてくれるピチピチの日本娘にすぐ好感を持ち、

「小姑娘(しょうくーにゃん)、しょうくーにゃん」

と大変な人気です。

 病院の従業員にくらべ戦傷病者の食事は、治療食の意味もあって内容に大きな違いがあります。ご飯に野菜炒め、実の少ない汁…といった職員に比し、ふかふかの蒸し立ての饅頭や豚肉たっぷりの料理、時には餃子まであるリッチな食事。

 日本の小クーニャンが、バケツのような容器に湯気の立つている食事を配って歩くと、傷病兵は美味しそうなものを取っておき、そっと「食べなさい」と、あとでそっと小クーニャンたちに渡していました。前線から転送されてきた八路軍の兵士達は、私たち日本人が遠近各地から寄せ集められてきたのと同様、彼らの出身も、南は雲南省から、湖北省辺りから毛沢東たちの率いる紅軍に従って、延安までの大遠征に加わった古参、あるいは山東省などの地でゲリラ活動に従事していたものまで居り、幹部には上海付近、その南の江蘇省の出身者、四川省の人までいて、中国人同志の間で、お互いに話が通じない…ということも珍しくはなかったのです。

 9割9分までが、貧農出身者で、都会人や国民党の職業軍人のように擦れたところが無く、純朴そのもの。終戦後の新京では、日本人が威張り散らしていた反動で、かって見下していた中国人たちから「日本鬼子(リーベンクイズ)」と罵られることも珍しくは有りませんでしたが、フーチンでの傷病兵たちは、ごく自然に親しぱい!私の部署は外科病棟の近くだったので、回復期の患者は時間をもてあまし気味で、松葉杖をついて周辺を歩き回り、小クーニャンの関心をひこうとして、食事の時に取っておいた肉まん=包子[ポォウズ]などをプレゼントします。

 先にも触れましたが、終戦後、除隊して行き場を失った陸軍看護婦(陸看)は紺色の制服のままで、何かプライドを鼻からぶらさげているような陸看当時のままの堅い態度でしたが、日赤からきた看護婦はどことなく砕けて付き合いやすそうな印象でしたが、これは、あくまでも私の個人的な第一印象でしかありません。

 まあ全般的な人間模様についての印象を、独断と偏見いっぱいに綴ってきましたが、そろそろ、印象に残った人々のスケッチに移りましょう。

【K太夫】 太夫とは当時の中国で、ごく普通に使われていた医師のことを称していた言葉です。K太夫は年の頃は24、5歳…といっても、全身…頭から足の先ま毛むくじゃらなので、年に見えますが、実際はもっと若かったかも知れません。もじゃもじゃの頭から、眼のまわりと鼻と口をのぞいてはほっぺたから喉にかけて、剛毛がびっしり。風呂場で更に観察したところでは、喉から下も胸毛が下腹部に続き、切れ目無く大腿、下腿、つま先まで途切れずに真っ黒な毛で覆われているのを見ました。まるで黒熊。

 ですが、メガネをかけた細い眼が愛嬌いっぱいで、威圧感は全くありませんでした。噂では、ハルピン医科大学のM教授に八路軍から徴用の通知が来たとき、家族のあるM教授の身代わりになって来たと言うことです。まだ、医師免許も取得していない大学生だったので、偽医師だということがバレないように一生懸命に勉強していました。自由時間に散策しているときでも、片手に必ず「内科診療の実際」というポケット判国語辞典の倍ほども厚さのある本を、あるいは「井上小内科学」を持ち、勉強しながら歩いている姿は、あるいはポーズだけであったかも知れませんが、皆に好意的に見られていたようです。

 1年あまり後のことですが、そのK医師が開通という内蒙古に近い田舎町で、手榴弾を抱いて自殺しました。建物に三方を囲まれた臨時の病棟の5センチほど降り積もった雪の中庭で。私たちは深夜にドンと響く音に目覚めたのですが、寝間着の上に防寒着をひっかけて中庭に出てみますと、片手は千切れて飛び、肉片が建物の壁にも付着している血だらけの凄惨な有様。

 事情は、当時「談白運動」という自分の出身階級による欠点を反省し、それが日頃の仕事にどんなマイナスをもたらしているか、「為人民服務」の精神から自分の日常を照らし、どういう風に認識するか……などについて、反省を皆の前でしゃべり、皆から反省の不十分な点を鋭く突っ込まれるという段取りで進められます。一種の思想改造運動であり、政治教育という面もある全員参加必須の会合でした。 

 何も失うものを持たない貧困な下層の労農階級を基盤とし、たていての日本人は資産家階級にすりよっておこぼれを頂戴するプチブルとみなされて、何度も繰り返し「反省不十分」だとされてきましたが、K医師の場合、フーチン時代に延安からやってきた民族幹事のSと張り合って、陸看のNさんと恋の鞘当てをしたことが、相当根に有ったようです。

 その上、ハルピン医大のM教授の身代わりとなって、医師免許もなしに医師として働いていたことが、大きな問題として取り上げられていました。とことん追いつめられたK医師は、逃げ場を失って自殺に走ったようでした。この事件は、相当にショックでした。

 

(3)フーチン(富錦)人間模様 [2]

 前回では、髭もじゃのK太夫(医師)の悲劇についての悲劇に関して綴りましたから、今回は、三角関係(K太夫の一方的な片思いも含めて)のもう一方の当事者であるS民族幹事についても触れてみます。

【S民族幹事】

 まず「民族幹事」とはなんぞや…から説明しなければ、前回に述べたK太夫(医師)を襲った悲劇は理解できないでしょうね。

 それには、当時の八路軍……いや、中国共産党のあらゆる組織に共通した組織形態ですが、軍であろうと生産組織であろうと、病院などであろうと、すべての組織は行政管理と思想管理の二本立てで、病院では事務・医療などを統括する院長を頂点とし、副院長、課長あるいは各科主治医などの医務行政の組織があり、別に、思想管理では政治委員がおり院長と同等な強い権限を持っていました。

 言葉の違う日本人従業員に対して政治委員的な役目を担ったのが民族幹事と呼ばれる人で、多くは日中戦争の時、華北の戦線で捕虜となった兵士のうち、労農貧困層出身を延安に集めて思想教育をした日本人学校の出身者が選ばれて民族幹事という名称で、あちこちに配属されたのでした。

 フーチンでは、私たちが到着してから約1ヶ月ほどしてS民族幹事が派遣されてきて着任。ほどなく私たちに、それぞれの出身階級を認識させることから教育が始まりました。彼らの認識で、人民を支配する側の資産階級…大きな会社を経営する資本家や彼らのみに奉仕する政治家などは「敵」とみなし、中間階級のプチブルも彼らに仕え、彼らの行動を支持するものではあるが、新しい世界を創ってゆくには彼らを思想的に根本的な改造を要するというものです。

 病院内でも、高等教育を受けた医師、技士、看護婦は文句なしにプチブル中産階級で、開拓団出身の若い女性達は労農階級として扱われ、教育においては専ら技術職の人々に思想改造運動の焦点が合わされたと思います。

 S民族幹事は、大柄な体格に似合わず、柔和な顔立ちの…見るからに木訥そのものでしたが、やはり、組織上は病院幹部の後押しもあって、私たちにたいしては高圧的な態度がちらちらしました。そのS民族幹事が用もないのに、陸看の宿舎に入り浸るようになり、瞬く間に陸看のNさんに片思いしている、という噂が広まりました。Nさんは当時陸看の看護婦さんの内一番若くて、中肉中背、頬がぽっちゃりとした享保雛のような顔立ちで、笑顔が可愛かった人。

 民族幹事のSさんも、厳しい情勢下で日本軍の捕虜として、日本人学校で教育されていた時と違って、もう縛られることもなく、こんどは新米の日本人を教育する側に廻り、少々威張れる立場になったので、精神的な緩みも出てきた頃でしょう。Nさんに首ったけとなったのも、精神的な緩みのためとも見られます。

  不幸なことに、髭もじゃのK医師もNさんに夢中になったので、恋の鞘当てが始まってしまったのです。

 この文章は小説ではありませんので、大急ぎ、他の人々のスケッチを終わらせてしまいましょう。

【中国人幹部たち】劉院長と医務課長の王さんは日本の大学を出ています。劉院長は病院を統括するという立場からか、他の中国人医師達に対する配慮であまり日本語をしゃべろうとはしませんでした。誰も人影がないところでは、私たちに思いがけず流ちょうな日本語で話しかけることはありましたが。

 日本人とのやりとりは主に王医務課長の仕事。背丈があまり高くなく、逆算角形で眼のおおきい彼は、いま思い出してみるとスパイ大作戦の主役に似たところがあります。頭がいいせいか、とてもせっかちで早口。日本人はなにかあると王さん、王さんと彼を頼りにしていました。

【日本人の医師たち】

 中村医師。小柄な彼は愛嬌のある気さくな人で内科担当。日赤看護婦の中でも大柄なおとなしい無口な女性を、いつの間にか口説き落として結婚。今で言う仮設住宅のような木造の宿舎に入りました。隣は年輩の黒木という耳鼻科医師夫妻。

 正月が近いある夜、私はなかなかストーブがうまく燃えてくれないので、火掻き棒を借りるため医師の宿舎を訪ね、火掻き棒を借りようと中村医師の部屋の引き違いの戸をノックしました、

「おう」

という、のんびりした返事がありましたので、がらっと戸を引き開けますと、4畳半くらいの間に敷いた布団が盛り上がっています。新婚早々の寝室におじゃまむし状態だったのです。……早々に泡喰って退却。

 翌朝、私が病棟の間を歩いていますと、後ろから小走りに近づいてきた足音で振り返ってみると、中村医師の奥さん。

「すかん」

と一言。背をどんと打たれて。

 水谷医師。中村医師と同じ年頃の小児科医師。軍の病院で小児はいないので内科をみていましたが、背丈は中村医師より上背があり、やはり院内結婚。ほがらかな性格で病棟勤務の看護婦たちの人気も抜群でしたが、程なく粟粒結核で高熱を発し、急速に悪化し結婚したばかりの奥さんを残して死亡してしまいました。

 黒木医師。先ほども書いたとおり耳鼻科の医師で、青黒い顔色のがりがりに痩せた人。飾り気のない人でしたが、奇妙な性癖があるらしく、奥さんの話では、

「夜中に突然しゃべり出すのよ。もう慣れっこになってますが、寝言で銭勘定しだすのには、呆れてしまいますわ。何と何とが幾ら幾らで、おい、釣り銭が間違っとるじゃあないか…なんて。」

 ここに挙げた3人は、共にフーチン滞在時に相次いで病没されてしまいました。人間模様はこれくらいにして、私の印象に残った出来事。私の眼に映ったフーチンについて書きます。

(4)フーチン・スケッチ

 ●石炭船

 スンガリー(松花江)には、多くの小舟や定期船が航行していましたが、ときおりシベリアからバラ積み石炭船が通り、フーチンの桟橋に横付けされることもありました。

 ある日、珍しく長い時間停泊している石炭船があり、船員らしい人がのんびり舷側に腰を下ろしてタバコを燻らせていたので、「船を見せて貰って良いか」と声をかけると、顎をしゃくって「ダー」とのこと。桟橋から乗り移ってのぞき込んでみますと、船倉には黒光りする石炭がバラ積みされていました。積み荷はあるし、時間待ちしているのだろうか、と考えていますと「こちらに来い」と、やっこらしょ腰を上げて船尾の方に誘います。多分、時間つぶしにも飽きて退屈していたのでしょう。船尾の操舵室らしいところには、なかなか立派な船室があって、絨毯を敷きアップライトのピアノまでありました。立派な居間です。

 日本の河川、近海を航行しているダルマ船とよく似たサイズのバラ積み船ですが、ここではスンガリー(松花江)、アムール(黒竜江)と荷物を積んで航行していると何日もかかるので、船室も居心地の良い設備になっているのでしょう。

● 風聞

 克山(コーシャン)でも、在満日本人の引き揚げの噂が聞こえてきましたが、フーチンでもどこからか、いろいろな噂が耳に入ってきます。ついにハルピンでも引き揚げが始まった…と言う風聞が聞こえてきます。

 また、幾ら後方病院だと言って、こんなスンガリー(松花江)を一寸下るとアムール川と合流する同江というソ連領に接する東北の隅っこ、更に下るとハバロフスクに到るところまで後退してきたのは、国共内戦で八路軍が押しまくられていたのだろうという推測がつきます。が、病院を開設した当時は、次々と移送されてくる患者があったのですが、半年も経たない内に、めっきりと新たに移ってくる傷病兵が少なくなってきました。

 そうでした。

 その成果から、戦線が南下し僻地の病院への移送が大幅に減ってきたのだろうと、容易に推測がつきます。その頃だったか、もう少し後先だったか、はっきりした記憶が有りませんが、ちょっと衝撃的なニュースが耳に入ってきました。ハルピンでのことなのか、ジャムスでの出来事だったか…それもはっきりしない、まことに「まだらボケ」風の記憶ですが、徴用されていた八路軍関係の職場から脱走して捕まった日本人が処刑されたと言うコワイ風聞でした

  どんな事情だったのか

  どういう風に処刑されたのか

  どんな職場からだっそうしたのか

 一切が分からずじまいでしたが、在留日本人の帰国が始まったのに、徴用されていたばっかりに、帰国しそびれてしまった…という焦りがあったのでは無かったでしょうか。もし、同じ職場に他の日本人がいたとしたら、私が受けたショックどころてではなかったと思います。まさに他人事てではありません。当局としては、特に技術職の日本人に安易に去られてては困る…という所からの一罰百戒かも知れない…とも思いました。

 日頃は日本人ににこやかに接していたとしても、他に影響が大きいと見ると、厳しい革命戦士の非情な貌がむき出しになるのかもしれません。

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 そろそろね記憶が曖昧になってきました。「まだらボケ」の始まりでしょうか。ここで、ついでに日時・場所の曖昧な記憶を一挙に公開してしまいましょう。

 ウーン、何時だったかネェ……。

(5)泡のような…不確かな記憶を拾ってみたら

 上記に述べたように、時日、場所などがどうしても思い出せない……しかし、確かあの頃ではなかったかなあ、という記憶を幾つか拾ってみましょう。

● 学習会から淡白(担白)運動まで

 以前に書いたように徴用日本人に対しても、思想教育のため中国共産党の基地だった延安で政治教育を受けた元兵士が、民族幹事として各組織に配備されてきました。

 K医師と看護婦のあいだで確執のあったS民族幹事もその一人。彼は赴任してきたときから暫くは、様子を掴むためか、いろいろな職場や宿舎などで医師、看護婦、雑役などに携わっている人々との雑談しかしなかったのですが、ほぼ様子が分かったのか、夏過ぎから勉強会らしいものを開始。

 まず、何を置いても先の日中戦争から太平洋戦争にいたる日本の侵略行為について、戦時中の教育でたたき込まれた聖戦思想の徹底した反省から出発。次に、他民族に対する故無き差別思想の反省……と進み、日本を誤った方向に導いた軍部、政治と結び着いた資本家、資本家に奉仕するプチブル、資本家に搾取されて来た労働者階級と貧農など、階級とはナンゾヤ、と論議が進み、各自の出身に拠って植え付けられた考え方の違いなどに及びます。

 その後は、各自が自分の出身階級と経験した来た差別扱いについての感想をのべ、なぜ、差別が行われた来たか、どのように侵略戦争に協力させられたかについて、意見・感想を述べ合います。こうした論議で、俄然優位に立つのは開拓団出身の若い人たち。正看護婦、医師、会社員などは権力に奉仕したプチブル階級と断じられ、反省を強いられます。それを舵取りするのがS民族幹事。K医師との三角関係的なトラブルも、そんな背景が悲惨な結末に繋がったいった…と考えられました。進歩分子は生家が貧農だった若い女性。昔、経済的なものにとどまらず、性差別もら受けていた彼女らは、今や立場が逆転し、民族幹事の支持を受けながら医師たちに対し、なんら臆せずにプチブル的な考え方を指摘し、糾弾する立場にありました。

● 民衆裁判、みせしめに公開処刑

 私たちの大部分が昭和28年、再開された引き揚げて帰国がきまるまで、こういった思想教育は、談白(担白)運動から三反五反運動、整風運動…と時々の目標により名前を変えながら続いていました。

  農村を基盤として都市を包囲し、

  被搾取階級が新しい時代のあるじに、

  従って、虐げられてきた農民、貧困労働者を勇気づけ、かっての支配階

  級に向かって立ち上がらせるために、

あくどく農民をこき使い、労働者を搾取してきた資本家にたいし、軍が主体となってかっての大地主、悪質な資本家、旧満州時代に中国人でありながら日本の軍部と結託して、日本人の権力にへつらった奸漢……を捕らえ、市中の広場で公開民衆裁判を行って彼らの罪状を糾弾し、権力に頭を押さえこまれ萎縮してきた民衆を奮い立たせるために、街角で公開処刑されてきました。

 今から考えると、本人の弁明もなく、一方的な断罪で死刑にされるなんて、野蛮きわまる蛮行だと言われるでしょうが、封建主義的な政治勢力と戦い、彼らが解放されるには、そうした「見せしめ」が欠かせなかったのかも知れません。

  まさに革命です。

 旧支配者を倒し、新しい民衆を主人公とした社会を樹立するためには、そうして民衆に時代が変わるのだ…という意識を植え付けるためには。フランス大革命のときのパリで、かっての支配者の代表としてルイ16世やマリ・アントワネットを初めとし、革命を目指した側でもジロンド党員たち、ダントン、ロベスピエールたち1343名が、断頭台の露となり、現在でも支配者の交代時にも、たくさんの血が流され続け、思想、宗教、民族その他の理由により、たくさんの生命を奪う蛮行が続いています。あれから半世紀経った今でも、宗教がらみの民族紛争は無差別殺人のテロという手段に訴えても、主張を通そうとしています。なかんずくイスラム原理主義者の考え方や行為は、全く理解の外だし、決して容認できるものではありません。しかし、彼らには彼らなりの価値観や行動規範があるのでしょうし、それを支持する人たちも少数ではありません。

 支配権を守るために、奪うために。…混沌とした現状に打開の道はあるのでしょうか。

 何処だったか、は思い出せませんが、私も一度ならず公開処刑の場に出逢ったことがあります。処刑に先立って、留置していた場所から、元大地主、悪質な資本家、彼らの走狗となった警察官などがトラックの荷台に乗せられて、市中を連れ廻されます。首には大きく罪状を記された札をぶら下げ、頭には紙で作った三角帽子がかぶせられ、一人一人後ろ手に縛られています。

 処刑場は私の見たときは、城壁の下の空き地。塀に沿って幾つもの穴が掘られていました。目隠しされた彼らは、穴の前に跪かせられ、後ろに一人ずつ銃を構えた兵士がたち、「チャンピー」という合図とともに、後頭部に至近距離から一斉に銃が発射されました。至近距離からの銃撃なので、後頭部の銃弾入射部には小さな弾痕があるだけなのに対し、頭部を貫通して出た顔面はザクロのように大きく裂け、血しぶきの後を追って、銃殺された彼らの体はゆっくりと穴の中に倒れてゆきす。

 週刊朝日に今「ひと、死に出あう」という連載があり、毎週、各界の著名人が近親者の死、自分は「死」についてどう思っているか、などを綴っています。そんなとき、私はふと旧満州で遭遇した処刑…という死について思い出すことがあります。断罪とともに「見せしめ」の為の死について。これは、私が戦後の異常な事態の時に、あるいは中国という超大国が政治体制の変革の時に遭遇したときの記憶です。

 もう二度とあの時代には戻りたくありません。


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