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終戦後の旧満州残留放浪記 (第2回)

   彷徨のはじまり 

1946年8月〜47年7月

(1) ハルピン(哈爾浜)

 新京からハルピンに向かう幹線の2本の線路は、2本ともハルピンに向かって全速力で突っ走る列車の競争のように見えた。八路軍の戦略、田舎から都包囲へ、圧倒的な国民党軍の攻勢に対しては、勢力を温存するために地方へ…が具現されたような逃げっぷりだった。 

 ハルピンというエキゾチックな響きと印象を持つ北満の都市は、私の憧れの土地。私の旧制中学校時代の同級生に大森忠行という親友がいました。彼は今風に言えば一種のおちこぼれと言うことも出来ます。ふらりと学校を無断休学して、船員見習いとして貨物船に乗り組み、上海に行って来たり、挙げ句の果てに退学して満州に渡り、満鉄に奉職。

 私には、海を越えたエキゾティシズムをふんぷんと漂わせるようなハルピン便りを寄越したりしていました。…キタイスカヤ大通り、石畳、スンガリー(松花江)、木造のロシア正教寺院…いろんな大森君から得たイメージが私の脳裏に生きています。

 故国を脱出し満州に渡ったのも大森君のイメージがあったからで、満州電業に入社し社員研修を終えて、現場に配属されるときも、ハルピンをヤヤ強引に希望したのも、大森君の影響です。シカシ、こんな形でハルピンの土を踏むとは。

 

     〔かささぎ〕

    かささぎは 

    一声なきて飛び立ちたれど

    平原は 冬枯れに白し

    忘却のふるさとへ

    かへりゆかん すべもなく

    ああ かささぎは

    一声なきて

    飛び立ちたれど

    いずかたの辺に

    その小さき 屍をさらすや

 

 これは親友大森君の絶唱で、今に至るまで私の一番好きな…というより、心に深く刻み込まれた「詩」です。彼は編集者としても活躍し、某美術系大学でも美学の講師をしていた詩人で、労作は何冊かの詩集としても出版されていますが、私の好きなのは「かささぎ」1編。

 惜しくも五十歳代で房総の海での事故で亡くなりました。

 さて、私はハルピンに到着。しかし、これからどうなるのか、一切知らされていません。不安を抱いたまま駅からやや下り勾配の石畳の道を今夜の宿舎に向かいました。

 宿舎に着いたのはいいのですが、その日も、次の日も何の指示もありません。荷物なんてなく着た切り雀。支給された煎餅布団1枚に柏餅風にくるまって第1夜を過ごし、明くる日は松花江の畔まで散歩してみました。ここハルピンの街は白系ロシア人の多いところで、松花江の中州、太陽島にはロシア人の格好のリゾートで、昔は色とりどりの海水着とビーチパラソルが花盛りだったと聞いていますが、戦後の混乱期ではそんな悠長な情景は見たくても、あり得ません。すでにロシア語の看板は取り払われて、エキゾチックな風情など薬にしたくてもカケラだにない中国語の看板に置き換わっていました。

 白系ロシア人…革命によって祖国を追われたエミグランデの街、かって私より早く日本から脱出した同級生の詩人、大森君がくれた便りの中の異国ハルピンは影も形もありません。恐らく大森君の見たものも彼の頭の中に生まれたイリュージョンではなかったのではないでしょうか。豊富な水量で岸辺を洗う松花江も、中州…太陽島の緑もおそらくは、十年前も、百年前も変わってはいないのでしょうが。

 宿舎に帰ってみると、日本人仲間がなにやら興奮した口調で話し合っています。私も何事かと首を突っ込んで聞いてみると、私たちが昨日脱出してきたばかりの長春(新京)では、在留日本人の帰国が始まるらしい……との噂があるというのです。まだ、事実かどうかは確認されていませんが、私たちには強烈なショックでした。

 三日目の夜、明日は北安へ移動する…という通知。

 

(2)ペイアン(北安)

 ペイアンまでの風景は、可成りの距離を走ったにもかかわらず、長春からハルピンまでの180度地平までみはるかす平坦な大地が、果てしなく続きます。

 今回は緊急脱出とは違ったので、昔で言う三等客車(中国で言う硬席車…対する言葉「軟席車」は一等車)。トイレもちゃんと付いていたので、もうアンペラ囲いの応急洗面器トイレの心配はありません。

 ペイアンはハルピンの北200キロ、見渡す限りの平原という列車の旅にも飽き疲れが出てきた頃、初めて山らしい影が見えてきました。綏化あたりから丘陵のようなものが見え、海倫を過ぎるとはっきり山といえるくらいの高さになります。  ペイアンまで来れば、黒龍江のほとりソ連領と相対する黒河とは指呼の間…思えば遠くへ来たもんだ、と。放浪、流浪、彷徨…いろいろな言葉がガタンゴトンと揺られている頭に浮かんできます。と同時に、これから先、どこまで流れて行くのだろうか、という不安も隠せません。

 この町での滞在記憶は完全に脱落しています。次の移動に備えての滞在のみ。しかし、長春での日本人引き揚げの噂に加えて、ハルピンからの引き揚げの風聞も聞こえてきました。まさかぁ……。

 当時の国民党軍と八路軍の装備には、ベトナムのゲリラとアメリカの近代装備ほどの差があったと思います。まだ八路軍は農民が武装蜂起したくらいの小火器しか持っていません。が、ベトナム・ゲリラがアメリカ軍を追いだしたように、やがてはその八路軍が力をつけて中国人民解放軍として、国民党軍を追い立て、海を越えて台湾に逃げ出す破目になったのです。農村に地盤をおく八路軍は、初戦の都市占拠を放棄して、支持基盤の農民の懐の中に退却し、農村を押さえて都市を包囲する…という作戦に移ったのです。

 評判になった「大地の子」でも、「チャーズ」というシ小説でも、私たちが脱出したあとの新京において、八路軍の新京再包囲により、農村からの食料搬入を閉ざされ、飢餓地獄に陥った様子が描写されています。私が心ならずも八路軍と共に新京を脱出できたのは、いいことだったかも知れません。

 日本が物量の差、原料資源と生産規模の差を無視して、アメリカを、世界を敵に回して無謀な戦争をしかけた位の差が、旧満州での彼我の間にはあり、当時の国民党軍の進撃スピードが予想外に早く、私たちは北に移動を重ねることになったようです。

 ペーアンには仕事もなく数日いただけで、再び移動の知らせ。再び列車でペーアンから西へ50キロのコーシャン(克山)ヘ。

(3) コーシャン(克山) 

 コーシャンは本当に四囲を山に囲まれた小さな盆地でした。ここに来てやっと本来の業務である病院を開設するとのこと。ここでの仕事のことは、1年弱いたはずですが、さっぱり覚えていません。病院の本部が開設され、病棟も整えられて患者も受け入れたはずなのですが、いくら思いだそうとしても、まるでこの期間だけ健忘症に罹ったように、さっぱり記憶から抜け落ちています。

 まあ、たいした出来事も無かったのだろう…と、脳の記憶野を探る無駄な抵抗はあきらめました。ただ、強烈に記憶していることは、もの凄い寒さ。11月になって、防寒衣服が支給されました。ダウンジャケット並に膨らんだ綿入りの上下。毛皮の縁取りのついて防寒帽。ミトンのような分厚い手袋。11月初旬は、うーつ寒い、と言いながらもまだ我慢できる程度でしたが、急速に温度がさがり、支給された防寒具一式を着けなければ、建物の外に出られません。うろ覚えですが、その頃聞いた話では、コーシャンは黒龍江省の、アムール川を隔ててロシアに向かい合う漠河、黒龍に次ぐ寒冷地だとのこと。

 だがコーシャンの寒さも相当なもの。マイナス40度、ひとたび強い風が吹けば、体感温度ではマイナス60度にもなりそうです。(そんな経験をしたのなら、冬の京都の底冷えなんか、へいちゃらだろう…。いえいえ、暖房に馴れたぐーたらに戻って、寒いのはご免蒙ります)

 新京の冬も経験していますが、零下25度から30度くらいまでは下がり、外出から部屋に帰ったとき、うっかり素手でドアのノブを掴もうものなら、掌がぴったりと金属のノブにひっついてしまいます。すぐ離せばどうということも有りませんが、凍傷になる怖れもあります。一度は、戸外の水道栓のところに洗面器を持ち出し、小物の洗濯をしようとしたとき、みるみる水に浸した手が紫色に変色してくるではありませんか。慌てて聞き覚えの方法…まず、雪に手を突っ込んで充分擦りあわせ、それから温水に手を浸けて、毛細血管まで血行が恢復するのを待ちます。じんじんと痺れるような感じが戻ってきたらOK…ということで危機は脱出できました。

 ところが、コーシャンの冬ではこんな新京での経験なんか、ものの役にも立ちませんでした。真冬になって、厳しい寒気が到来すると、あるだけの下着と衣服で着膨れた上に防寒装備をつけ、マスクで顔の露出面を覆い分厚い手袋をしていても、雪を吹き上げる寒風は着込んだもののすべてを通して、まるで針千本が肌に刺さるように感じられます。また、素早く瞬きしても上下の瞼がくっついてしまい、息をすると吸う息で鼻の穴がぴったり凍り付いてくっつき、強くふんと吐く息で溶ける有様。慌ててミトンを着けた手で顔を拭い、暖めます。これを際限なく繰り返しながら、目的の場所まで移動。

 4月になって雪が溶け、ああ春だと暖気を取り戻した太陽の光を愉しみましたが、直径1メートルほどの井戸の氷は6月まで分厚く水面を閉ざしています。

(4)コーシャン(克山)から佳木斯へ

 コーシャン(克山)から落ち着き先の富錦までの経路は、来るときと逆コースでペイアン(北安)そしてソイホワ(綏化)まで戻り、そこからはハルピンへのコースからそれて、ジャムス(佳木斯)を経て中ソ国境のトンジャン(同江)あたりで黒竜江に合流するフーラン川(呼蘭江)に沿って小興安嶺の南端に属する山群を横断し、ジャムス(佳木斯)に到るという鉄道による移動でした。

 コーシャン(克山)の町で記憶に残っているものはなにもない。山に囲まれた猫の額ほどの盆地。急遽借り上げた幾棟かの民家で病院を開設したものの、土間にベッドを並べただけで、設備を整えるいとまもあらばこそ。まるで仮設住宅そのもの。軽傷の兵士が僅かばかり収容されたが、野戦の救護所ほどにしか機能しないもの。こんな環境で過ごした一冬は、支給された綿服を通して束にした針で突かれるような寒風だけが強く印象に残ったものでした。

 さて、もう何度か経験した移動ですが、中国人兵士たちの移動準備の手早さは、きっと、あなた達には想像すら出来ないものでしょうね。彼らの持ち物を上げてみますと。……

 布団……言葉どおりの煎餅布団1枚。脱いだ衣服と僅かな肌着を丸めて枕とし布団にくるまって寝ます。
  茶碗と箸……アルミ鋳造製の粗末な椀ひとつと箸だけが全財産。移動の時は茶碗と上着の左のポケットに、箸は内ポケットに入れ、いざ食事になると、ポケットからそれらを取り出し、即時対応。

 夜半に急遽移動の命令が出ても、布団を縦に三つ折りし枕と服などを芯にくるくる巻いて、紐で上下二カ所をくくり、余った長さのところをリュックの負い紐のようにして、やっこらさと担ぐだけ。私たち徴用日本人がモタモタしているうちに、彼らの出発準備はとっくに終わっています。

 ここで彼らの衣服…つまり軍服についても述べてみましょう。みなさん、人民服って知っていますか?ごくお粗末な軍服。1970年代までは、テレビニュースに映った中国の風景の中では、老若男女ほとんどが着ていた折り襟の軍服みたいなもの。天安門に掲げられた巨大な毛沢東国家主席の像、日本を訪問した要人たちも着ていた服。ただし、当時の兵士たちが着ていたのは、薄いぺらぺらの綿服で、夏は素肌の上に1枚、冬は支給された服を十二単衣のように重ね着をして、寒さを凌いでいました。

 私たちが乗り込んだ列車は、ペイアンから南に下り、ハルピン・ジャムス間の幹線の北側の支線をえんえんと走り、ジャムスに到着しましたが、ここでも招待所(まあ早く言えば収容所)に入りましたが、どうやらここが目的地ではないらしく、ただぼんやりしていただけ。

 ジャムスは当時(旧満州)三江省の省都で、ロシアのハバロフスクをほぼ中心とするウスリー川、フーラン川(呼蘭江)が黒龍江に合流する平原の西南端に位置し、周辺の農工業の集散地です。省公署、市公署を初め行政諸機関が有る中心都市ですが、私の眼に映ったものといえば、ビルらしいビルもなく、いかにも中国風の建物ががらんとした道路の両側に連なっているだけ。交通機関は、たまに軍用車両をみかけるくらいで、人員、物資の輸送も馬車が中心でした。 

 次はいずこへ。当てのない旅、帰国の曙光も見えない中国奥地……辺境に流れてきたなぁ、と言う感慨のみでした。

 

(5)ジャムス(佳木斯)からフーチィン(富錦)へ

 ジャムスに何日滞在したのでしょう。宿舎からあまり外に出ることなく過ごした数日は、もう脳の襞をいくら探っても何も出てきません。国共内戦に関する情報の一片もなく、無為怠惰に過ごしたようでした。

 ある日、翌日に出発するとだけ告げられました。と言って準備するような荷物もなく、「あ、そうか」と無感動。新京を慌ただしく離れて以来、既に自分の意志で動くという方途は完全に断たれています。明くる日の出発は船。今までの移動はすべて列車によるものでしたが、今回の移動は中型の客船でスンガリー(松花江)を下る模様。ハルピンのリゾート太陽島を望んだときのスンガリーとは、川幅も大きくなり水量も豊になっていました。

 朝はやく出発し、その日の午後遅くにはソイピン(綏浜)の河岸の桟橋に着きました。はっきり言ってソイピン(綏浜)は手漕ぎの船での漁労と、高梁や野菜の栽培で暮らしをたてているような、見るからに寒村。宿舎に当てられた小学校の校舎に荷物を降ろすと、もう、何も考えられないほど空疎な状態でした。ここも単なる中継地らしく、仕事も命じられませんでした。

 二日目、フーチィン(富錦)へ移動。また停泊していた船に戻り、今度は小1時間もかかったでしょうか。フーチィン(富錦)に到着。町は見たところ、省都ジャムス(佳木斯)のような街ではありませんでしたが、コーシャン(克山)やソイピン(綏浜)に比べると、かなり大きいような印象でした。

 

(6)フーチィン(富錦)1.

 フーチィン(富錦)はスンガリー(松花江)に沿った一筋の街道に出来た宿場町の風情。1本のメインストリートの両側だけに建物が並び、はずれたところには畑地と、僅かに散在している小さな家ばかり。しかし、メインストリートの両側には商店もあり、お風呂屋さんまで有ります。なんと、私たち徴用日本人が入った宿舎はそのお風呂屋さんを中心とする一画。

 今度は着いたその日には、既に病院の開設準備が始まったてたようです。新京を出て以来、コーシャン(克山)で半年余り真似事のような診療活動をやったほかは、流浪、移動ばかりに明け暮れていましたが、今回こそは本格的な病院建設に着手する模様です。

 名も「第七後方医院」(中国では、日本の病院にあたるものを「医院」と呼び、町医者の開業する診療所を「病院」と称しています)と発表されました。それからの慌ただしいこと。管理運営本部は医務課を中心に診療体制を作るため、患者収容施設として第一所から第六所までの病棟を、かなり広範囲に分散して整えます。新規に大きな病棟を作っている余裕はなく、既存の建物を病棟に転用するため、地域的に分散せざるを得ない模様。

 私は20歳は年上の中西さんというレントゲン技士と一緒に、レントゲン診断設備を作ることになり、早速、二人は中国人幹部に同行し、ハルピンまで、レントゲン診断設備機器の受領に出かけることになりました。いずれ、同じ屋根の下で働くことになる同胞については、私の受けた印象を中心に、虚実とりまぜたうわさ話も加えて、路地裏の皆さんにお話ししようと思っていますが、なにはともあれ縁あって(なんて言うと、艶話のようですが)同じ職場に上司として働くことになった中西さんのことを、先に紹介してしまいます。

 追憶の中の人物の印象は極めて頼りないものですが、頭の中をかき回して再構築した中西氏は、当時、推定年齢で40歳から50歳くらい。頭こそつるつるに禿げていましたので、もっと年上のように見えますが、艶々とした顔色から案外もっと若かったのかも知れません。ダンディを絵に描いたような紳士で、中年にしてはお腹も出ていず、背の高い細身の体躯にいつも愛用されていたツィードの上着がとても良く似合っていました。それに片時も放したことのない、よく磨き込まれたパイプが、気障一歩手前で上品さを失わなかったのも、身に付いたものだからでしょう。

 奥さんは、どちらかと言えば寡黙な中西さんとは正反対ともいえる庶民派で、誰とでも気さくにつきあえる…悪く言えばガラッパチ風。上背もある中西さんとは対照的に、良くお喋りし、良く笑い転げる開けっぴろげな女性でした。

 さて、その中西氏と中国人幹部に同行してハルピンまで、船便で往復。スンガリー(松花江)を上流に遡行する往路は2泊3日、流れに乗って下る復路は1泊日。

 私は何十回かのヨーロッパ旅行のおり、観光船でライン下りやドナウ下りなどの船旅を愉しみましたが、いずれも、自然いっぱいの景観に恵まれましたが、スンガリー(松花江)の船旅ほど、人の手の入っていない…あるいは文明によって飼い慣らされていない自然の中の景色に逢ったことはありません。というのも、ヨーロッパの船旅は自然の緑いっぱいの中にも、時折しゃれた建物がちらほら散見されますが、スンガリー両岸にはもっと素朴な風景ばかりが際限なく続きます。ハルピンに到るまで、たまに見える村落は昔ながらの貧相とまで言える素朴な建物ばかり。

 もう一つ、忘れられない事は、二日目に手漕ぎの小さな漁船が近づいてきて網にかかった草魚を売りに来たときのこと。いかなるやり取りが有ったのか判りませんが、乗客たちがお金を出し合って二メートルほどもあろうかと思われる草魚を買いこみ、後部甲板の上でさばいて刺身にし、直径50センチくらいの大皿の上に盛り上げ、細く切ったキュウリをどっさり入れ、上から豪快に醤油をかけまぶして食べたことです。お皿を真ん中に車座になって、みんなでつつくお刺身。こんな豪快な食べ方は初めての経験でした。

 ハルピンで受領したレントゲン器械は、病院に帰ってから梱包を解き、元は銭湯だった建物の浴槽をつぶしたタイル張りの床に据え付けたのですが、これがとんでもない骨董品。大正末期あるいは昭和初期に京都の島津製作所で作られたものですが、制御盤とむき出しの管球をつけた診察台との間を裸線で繋いでいるし、20万ボルトだか30万ボルトだかの高圧二次電圧を測るのに、「火花間隙二次電圧測定装置」……早く言えば、ハンダ鏝の先に着いているような先の尖った金属棒の、一方が固定され、もう一方が可動式で感電防止のためエボナイトのついた取っ手を動かして、火花が飛ぶ距離を測って二次電圧をみるという原始的なしろもの。

 もともとが風呂屋の浴室だった場所。湿気がいっぱい。どうなるかというと、裸線は透視をするためカーテンを閉めた室内で、怪しい蛍光を発し、火花間隙を測定するためエボナイトの取っ手に触れると、ビリッと肩まで感電が走る有様。現役のお医者さん、あるいはレントゲン技師の方でも、こんな物騒なレントゲン器械は見たこともないでしょう。私はまだ入ったことはありませんが、島津の資料館だか博物館だかには、レントゲン機器の創世記の記念として、あるいは展示してあるかもしれません。


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