終戦後の八年間旧満州残留放浪記 (第1回)

新京にて

その1

1945年8月某日

  前の年の8月15日、旧満州の首都新京で終戦を迎えた私は、軍上層部が泡を食って家族もろとも在留邦人を見捨て、特別列車を仕立てて逃げ出した後の佐官級官舎にいました。

  終戦直前の8月12日に召集された私たちは、集合場所でお定まりの訓辞を受け、「いざというときは、これを抱いてソ連の戦車の下に飛び込め」と布団地雷なるものを渡され、隊列を組んで行進したあげく、総督府の前庭で野営。翌日、戦車壕をいくつか掘ったのち、新京の西へ。

 新京西郊の緑園という場所で、官舎にはいったのは、最後の召集でかき集められたで50歳以上と20歳未満の男までの総ざらい。中央銀行の役付きのロートル(爺い)から学生まで。まさに末期症状的寄せ集め部隊でした。

 あのことの国民の極限的飢餓状態は、飽食の時代に育った皆さんには想像もつかないでしょうね。が、私たちが入った佐官級宿舎には、ピカピカの白米が米櫃いっぱいに入っていて、流しの下には清酒が10本も。ちょうど鋤焼きを食べている最中に、緊急帰国通知があったのでしょうか、肉片と野菜がひからびかかったままの鍋、ご飯茶碗には食べかけの飯……おそらく身の回りの品と貴重品だけを持って、日本人同胞を見捨てて逃亡したあとがありありでした。

  2日後、終戦。正午に重大放送があるとのことで、戦車壕掘りもそこそこ宿舎にもどり、ピーピーガーガー雑音の伴奏で、あの天皇の終戦の詔勅を聞いた、という訳です。

 その後の職業軍人の荒れようといったら。… 軍刀を抜いて、あたり構わず斬りかかったり、私たち新兵に当たり散らしたり。時間がたって、少し落ち着いてくると将校が指揮して、トラックを調達し、市内の軍需品倉庫に在庫食料品の強奪に向かい、関東軍がため込んだ砂糖や缶詰などを満載して帰ってきました。

 その夜は、指揮命令系統の崩壊した後のことが検討され、考えられるソ連軍の来る前に、部隊長の判断で座して捕虜になるまいと、除隊の方法についての話し。

 くじ引きで、残留してソ連軍による武装解除に備える要員を決め、他はすぐ除隊して家に帰ろうという結論。イヤなことに籤運の良くない私は、こうした時に「大当たり」で残留組。

  夜半、新兵が寄り集まって脱走しようということに。ところが、その夜は暴風並の大雨となり、恨めしげに雨音を聞いていただけ。誰も脱走には踏み切れませんでした。

 まんじりともしなかった翌朝。ようやく白味かけてきたころ、囂々と戦車のキャタピラの音が。・・・ 窓を細く開けてのぞくと、何十台もの戦車が新京めざして通り過ぎて行きます。もう、脱走どころではありません。

 …雨がやみ、地表がもやっている中から湧いて出たような、凶凶しい鉄の固まりが、長い砲身を突き出しています。さながら、それが征服者の意志を誇示しているかのように。

  幸い、籤で決めた残留もご破算になり、みんなチリチリバラバラ、部隊は勝手に解散し、残らず帰って行きました。もし、残留していたら、間違いなく戦犯あるいは捕虜として、シベリア抑留の運命が待ちかまえていたでしょう。

  この時の、朝靄をついてのソ連戦車部隊が、終戦後の私にとって初めて経験する日本支配が崩壊して本来の姿に戻った風景でした。

 

その2

 これから数回は、終戦後の混乱の中に巻き込まれた1年間を、点描式に一つ一つの風景として描いて行きます。

 小説やルポでもなく、果たして脳裏に浮かんだ断片を風景として描けるものか、どうか。

 その前に、ちょつとインターミッション。

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  皆さんは幼少期あるいは青春期の出来事を、どれくらい覚えておいででしょうか。日常の日々の中では思い出すことさえない思い出を、ふとした事がきっかけで、鮮やかに脳裏に甦ることは有りませんか。

  旧制中学校の同期卒業生の「思い出」を私が編集を担当して、学校の所在地に因んで「鳥羽原頭に草萌えて」と題し、B5判188ページの第1部と276ページの第2部を刊行しました。

 その第1部に私は「それでも青春の日々だった」という400字詰め80枚ほどの文章を綴りました。その冒頭、「ぷろろおぐ」の書き出しに、

「ぼくらの青春は何色やったと思う?」

「そら真っ黒や」

という遙か後日の同窓会での対話を乗せ、「灰色だとばかり思っていた「青春」にときどきキラッと光る時間もあったのだ」と書いています。

 50年にもなろうとする日々の思い出は、ちょうど、薄いガラス玉が微塵に砕け散ったかけらのようなもの。一つ一つの破片はキラキラと美しい虹色に光っていますが、それを拾い集めて形とするのは大変な仕事です。

 イタリアのウンブリア州では、まだ微細な余震が続いているようですが、11月20日付・朝日新聞にアッシジで地震によりサン・フランチェスコ聖堂が重大な被害を受け、天井の崩壊により貴重なチマブーエの作品「福音者マタイ」の天井画が粉々になり、トロ箱位のプラスティック・ケースに拾い集めた破片を入れ、ウンブリア州文化財保護局のバメラ・パサラクアさんが、気の遠くなるような復旧作業に取りかかっている……と報じていました。

 私が取りかかったこのうろ覚えの記録も、似たような作業になってきます。しかし、私にとって幸運にも中学校2年まで8年間も新京に住んでいられたHIROSさんが、新京に住んでいられた時の極めて具体的な思い出をレスに書いていただいたので、いろいろキーワードを与えて頂いたことになり、大きな励みとなりました。 

 さあ、再び本文に戻って、うろ覚えの記憶を掘り起こして、続きを書きましょう。

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     激動と混乱の新京 

1945年8月〜46年5月

 ●浮き立つ日本人(1)

(1) 同室の友人は逃亡していた

 バラバラ除隊した私が、満州電業大同寮に帰ってみると、同室の友人S氏の姿がない。それどころか彼の持ち物一切が消え失せてしまっています。それどころか、私の机に上に1通の書き置きがありました。それには、

「**君、君はもうここには帰ってこないだろうから、君の荷物から必要なものは貰って行く。これから一応朝鮮国境の安東をめざし、日本に帰るチャンスをさぐる」

と書かれてありました。衣類などはそのままにして有りましたが、父からもらったカメラ…ツァイス・イコンタは消えていました。

 あいつめ、ちくしょう。

2) 満州電業都南寮

 私は終戦間際の飢餓状態と、理科系の学生の召集猶予も取り消された日本に絶望して内地で入社試験を受け、渡満したときに入寮した「都南寮」は、(資料がなく極めてあやふやな記憶ですが)男子ばかりの独身寮で、収容人員2000名、地下には室内プールがあり、裏にはサッカー・コート、野球のグラウンド、テニスコート8面があり、電業病院もある…東洋一の社員寮だと誇っていました。

 まるまる総合大学の学舎のような、堂々とした外観です。しかし、寮内には先輩社員の中に、満州ゴロを自認するグループがあって、入社間もない頃、早速彼らから洗礼を受ける羽目に。

  ある日、彼らからの使いが来て、今日晩の9時に0000号室に来い、という呼び出しです。予感があり、行きたくはありませんでしたが、行かないともっと非道い仕打ちが待っているに決まっています。

 しかしもし、無視して行かなければ事態はもっと悪くなるのは、火を見るより明らか。六畳一間くらいの指定された部屋に入ったとたん、五、六人の先輩に取り囲まれました。彼らを牛耳っているのは、私を取り囲んだ強面の面々ではなく、隅にいた色白、小柄の男らしく、

「おい、新入。いまからここでの生活を教えてやる。歯を食いしばって、股を開け」

 これが合図で、スリッパ、ベルトの尾錠、軍靴の底など、今まで経験したことのない手段でめった打ちにされました。これに比べると学校時代の上級生たちから何かにつけて受けた制裁など、しれたもの。何で殴られ、痛めつけられるのか、一言の説明もなしでした。

  二、三日のあいだに同期で入社、入寮した全員が、目尻、唇を切り、顔面は青痣だらけ。満州ゴロを自認する彼らも、戦局の悪化から薄々破局を予感して、ぶつけようもない不安を紛らわせるため、私たち弱い立場の者に八つ当たりしたのだろう(…と、今の私は)と想像します。

  私たちも一方的にやっつけられてばかりではたまりません。後日、大広場のあたりで、例のなまっちょろい色白、小柄のリーダーを捕まえて、お返しをしました。ほんの腕一本と足の骨を折って、側溝にたたき込んで。一週間ほどたって、ギプスを捲き松葉杖にすがったなまっちょろい先輩は擦れ違った私たちに一言も口を利かず、うつむいたままでした。

  日本の満州支配機構の一つとして機能していた特殊会社が接収され、満州電業の都南寮は閉鎖。やむなく市中の下宿屋のような部屋に移ったのは、終戦後一ヶ月とはたたない日でした。

(3)終戦後の日本人社会

 今年(平成9年)に入って、大手都市銀行の北海道拓殖銀行を初め、山一証券などの大蔵省がメンツにかけても潰さないと信じられていた金融機関の破綻が相次ぎ、最大手の製造業、商社までが醜悪な事態に陥っています。ことに、山一証券は自主的な廃業に追い込まれて7600人の社員の行方が気遣われていますが、昭和20年8月15日を境に生活の根拠を失ってしまった在満の日本人は、目の前に迫った極寒の季節と失業のダブルパンチに浮き足立っていました。

  まだ、何時日本に帰国できるか五里霧中。次第に衣類、家財をただ同然の価格で売り食い状態。 ソ連の参戦でいち早く家財一切を失った北満の開拓団からは、ボロボロの衣装…中には麻袋(マータイ)に首と両手を出す穴を空けたものを着ていた女性もいました…で歩いて新京まで避難してきた人々も続々と続いています。

  こんな例がありました。

 6月27日に夫婦と妻の妹、子供二人が開拓団に入植するため満州に着き、ハルピン近くの開拓団に行く前に新京で何泊かする事になり、都南寮から頼まれて、その家族に私の部屋を提供することになりました。

 9月になって間もなく、その家族がソ連軍に追い立てられ、着の身着のまま新京に舞い戻り、再び、私の部屋を尋ねてきました。移住するとて日本から送った家財道具など一式は、当然、二度と戻りません。敗色濃くなってから、何のための渡満だったのでしょう。

  さいわい、ご主人が商才にたけた方だったので、あちこち仕事を探し歩いた末、ぼろ屋を借りて味噌の製造販売を始め、私が都南寮を出るまでに家族を借家に引き取り、商売は成功したようでした。

その3

(4)終戦後の日本人社会…2

 私が終戦後の新京にいたのは正味一年。その間の状況を秩序だって述べようにも、メモ一つないのと、記憶があいまいな上、混乱していて綴りようも有りません。ここは幾つかのキーワードに従って、「時空混乱」の極みとなりますが、思い出すまま書いてゆくしかないでしょう。順不同で並べてみますと、 

  不穏な朝鮮人の動き

  進駐ソ連兵

  日本人武器隠匿事件

  国民党軍と八路軍との内戦

  国民党の特務との諍い

  流言蜚語

  コックリさん

  徴用

 

……という項目になるでしょうか。以下、時間的な経過は無茶苦茶ですが続けます。

 ○不穏な朝鮮人の動き

  これも、突き詰めてみれば「流言蜚語」のうちに入るのかも知れません。旧満州の新京でも(後に数年滞在した間島省都の延吉街は、住民の大半が朝鮮人で、現在では延辺自治区となっていますが)朝鮮人が住んでいる区域があったようです。

 日本人と日本人におもねて中国人には威張っていた朝鮮人と、二重の差別が存在していましたが、日本軍という暴力機関と傀儡政権の権力構造が一朝にして崩壊すると、祖国を日本に奪われた朝鮮人たちの積年の恨みつらみが、一気に噴き出した様相を呈してきました。

  私は直接に被害を受けたわけでは有りませんでしたが、どこからともない風聞で、日本人が朝鮮人に襲われたとか、財産を強奪されたとかの風聞が聞こえてきます。もちろん、全部が全部本当のことだったかどうかは分かりません。敗戦によって情報がなくなって、伝聞あるいは流言蜚語にも近い話も相当有ったのでしょうが、確かめる手段もなかった世界です。 

 しかし、関東大震災のおりにも、ためにする風聞で朝鮮人に対する蛮行があちこちで起こり、たくさんの無辜の朝鮮人が殺害されたこと、朝鮮併合ごは抜き差しならないほどの、差別意識が現在まで尾を引いていることでも分かるように、満州でも、頭を押さえつけられ続けてきた朝鮮人の不満が一気に爆発したとて不思議はないでしょう。

 私にも真相は不明です。しかし、庇護者のいなくなった日本人社会を、不安と緊張をもたらしたものでした。

  進駐ソ連兵

 終戦の次の日。明け方の空気を轟々と震わせて、ソ連の大型戦車が街道を新京目指して通り過ぎて行く光景を第1回に書きました。ソ連兵の占領がどのくらい続いたのか記憶に有りませんが、町を歩くにはソ連兵のダワイに合わない様、ずいぶん神経を使ったもの。

 「ダワイ」とは「出せ」と言うこと。紳士的に上品に言うと「ダイチエ・ムニェ」ですが、噂によると欧州戦線からたくさんの部隊を遥々極東に廻送する時間的な余裕がないソ連は、シベリア地区に服役中の囚人を持って臨時の部隊を編成して、満州に突入したとのこと。

 その規律の悪さ、品の無さ、強欲ぶりはまさに悪人集団、かてて加えて先勝気分ときているので、始末におえません。 町中に繰り出してくると、出会ったら最後、まず手を差し出して、

「ダワイ」

ときます。腕時計をよこせ…。彼らは腕時計など持ったことがないのでしょう。中には、片腕に四つも五つも時計をはめて悦にいっている兵隊もいました。

 もっともソ連兵を忌避したのは、若い女性でした。強姦事件が頻発し、五十過ぎの婦人も襲われる始末。まもなく、若い女性はやむなく外出するときは、髪を刈り上げて男物の背広を着たり、髪を刈り上げたうえ顔に煤を塗って乞食のようなボロボロの服装で、女性と分からない様にカモフラージュ。その頃になって、日本人会が出来ましたが、相手がソ連兵ときては無法行為に対抗しようも有りません。

 そんな一日。私に日本人会から呼び出しがかかり、怪我をしたソ連兵が何か言っているので聞いて欲しい…と。

 その頃はまだロシア語の聞き取りも怪しいものでしたが、とりあえず聞いてみると、親指を切ったので病院に連れて行け…という。上官らしい兵隊も一緒にジープに同乗し、知り合いの医者のところに連れて行き、手当てを受けさせました。

 縫合を必要とするくらい深く切っていましたが、その段になって怪我をした兵隊の大袈裟に泣き騒ぐこと!日頃は悪さばかりしている男、しかも叩いても死なないようながっしりした大男のくせに。…

「何だ、たった二針くらいで」

と医師もぶつぶつ。

  元の所まで送って行くというので、再び軍用ジープに同乗。だが、元の日本人会の事務所ではなく、1軒の住宅の前に止まり、ちょっと寄って行くと言う 私は彼らが何か用事が有るのだろうと考え、所在無く応接間で待っていると、突然、大声で詰問しているような大声。玄関を見に行くと、肩に上級の肩章をつけた将校が、顔を真っ赤にして喚いていました。

「お前は何だ?」

と矛先が私に。しどろもどろで状況を説明しましたが、なにか納得しないようす。突然のことに、適当な単語が出てこないのには参りました。親指を切った兵士とその上官は、将校のところを物色していたもようなのです。将校は私が手引きしていた…と疑っていた模様ですが、押し問答の末やっと解放されましたが、とんだ貧乏籤。

 二ヶ月も経った頃、正規軍が新京に入って来たと言う噂が流れましたが、それを裏書きするように、ぐんと治安が良くなり、ダワイの現行犯がたくさん憲兵のような軍人に逮捕された、と聞きました。

 そんな一日、また日本人会からの呼び出し。もう、揉め事はゴメンだと、おそるおそる行くと、またソ連兵からの依頼だと。しかし今度は、将校の入っている家からの依頼で、コンソール型の電蓄が鳴らないので修理できないか、とのこと。

  たんなる扱い方だけの問題だったので、簡単に終わり、長居は無用と早速辞去したかったのに、むりやり居間に連れ込まれ、さー乾杯しようという。全く下戸の私。形だけグラスに唇をつけただけで、グラスをテーブルに置くと、

「ピーチェ・ド・ドゥナー」

を繰り返す。杯を干せ、グラスの底まで飲み干せ…と言うのです。いくら飲めないと言っても聞き入れません。やっとの思いで喉が焼け付くのを我慢、グラスを空にすると、すかさずなみなみとウオッカを注ぎます。とうとう2杯目を3分の1を流し込んだとたん、頭がくらくらして、あえなくダウン。人事不省。ひどい目に遭いました。

その4

(5)終戦後の日本人社会…3

○ 日本人武器隠匿事件

 終戦後の新京の一年間で、私は何度もあわやという事件に捲き込まれています。その一つが、いささか大げさな表現だとは思いますが「日本人の武器隠匿事件」という思ってもみない事態の発生でした。

 発端は、庇護者を失った日本人が不安に駆られるあまり、復員兵から入手したのでしょうか、かなりの数の拳銃を所持している人があり、それが却ってアクシデントを招きかねないという事になったのです。 私も除隊のどさくさに紛れて、コルトの婦人用小型拳銃を1丁を隠し持っていました。

 どういう経緯かは思い出せませんが、皆から集めた拳銃類を私が処分する羽目になり、油紙にしっかりと包んで、今は使われていない古井戸の底に沈めたのです。

  ある日、国民党の兵士が4、5人やって来て、私は空き部屋に連れ込まれ彼らの尋問を受ける羽目になりました。

「集めた武器を何処に隠したのか」

と、頭から私を犯人と決めてかかったもの言い。きっと、密告する誰かがいたのでしょう。率直に認めると、日本人会の役員をはじめ、たくさんの人々に累が及びそうなので、あくまでもシラを切り通すつもりになり、

「私は一切知らない。疑うなら何処でも探すがいい。友人宅も教えるから……」

 引率者らしい兵士が腰のホルダーから拳銃を抜き、安全装置をはずして撃鉄を起こしました。20センチは有りそうな軍事用の大型拳銃です。

「今、二人を探しにやる。もし嘘をついていたらお前を殺す。」

  これが、第1回目の生死の分かれ道。私が堂々と(実際はやけくその居直り)振る舞ったので、彼はちょっと考え直したようです。待つこと数時間。私は彼の監視下におかれ、身動きもままなりません。結局、武器は何処からも発見できず、部下の士官は私を解放してくれました。生きた心地がしないというのは、この時の状態です。撃鉄を起こした長身の拳銃を胸に突きつけられると言うのは、あまり嬉しいことでは有りません。

 糞度胸ではなく、やけくその居直りももうご免……という心境で、終わって彼らが立ち去った瞬間、へなへなと腰が抜けたような思いでした。

 ○国民党の特務との諍い

 前に「浮き立つ日本人」と間違った表現をしてしまいましたが、正しくは「浮き足立つ日本人」でした。遅蒔きながら訂正します。

 その中で、二、三私が遭遇した事例を書きましたが、全般的な状況を書き切れていませんので、ここに追加します。

  日本人支配の満州国が崩壊し、庇護者と収入と未来を失ってしまった在留邦人は、ボロボロの衣服に身一つで僻地より、命からがら避難してきた開拓団入植者と、頭には一刻も早く内地に帰りたいと思いながら、家にあるものの売り食いに明け暮れていた元からの新京在住者で膨れ上がっていました。

  一方、その頃にはソ連軍が進駐してきていたので、露和辞典、和露辞典を欲しがる中国人がいました。私は一時期、牧師をしている朝鮮人と仲が良かったので、彼と組んで露天の古本屋を開業していました。日本人の家庭を廻って辞典を仕入れるのは私の役目、店番も交替でしていました。

 そんな或る日の夕刻。リヤカーに売れ残りの書籍をいれた木箱二つ積んで牧師の家まで帰った来たところ、黒い帽子をかぶり、長い黒マントを着込んだ男に呼び止められました。

「ザイリー、ユウ ションマ ドンシー(中にどんなものが入っているのか)」と尋ねられました。私は別に不審なものは入っていない、とのつもりで、「メイヨー ションマ」(何もないよ)と答えたところ、男はつかつかと歩み寄り、箱の蓋をあけ、

「ウエイ ショマ ソウメイヨー」(何で、無いと言うのか)と詰め寄ってきます。私を威嚇するためか内懐から拳銃をだしてきます。私は誤解を与えたことを悟り、マズイッと思った瞬間、牧師の家の格子戸を開けて逃げ、後ろ手で格子戸を力任せにぴしゃっと閉めたので、私に続こうとしていた男の拳銃を持った手を挟んでしまったのです。

 落とした拳銃を男が拾っている間に、私は牧師の家に逃げ込み、通り抜けて裏道に出ました。その時は無事、特務らしい便衣(平服のまま特殊任務についていた中国の軍人)の手から逃れましたが、半年近く危なくて牧師の家の近所には近寄れませんでした。無謀なことをしたものです。

 ○内戦のさ中で [1]

 終戦までは、国民党軍と毛沢東の率いる中国共産党の八路軍とには、日本軍という共通の敵がありましたが、日本軍が終戦により武装解除されたとたん、路線の違う両軍の激突が始まりました。

 また東北人民解放軍(初めは東北民主聯軍と称していて、金日成たち朝鮮人たちも加わっていました)と言う旧満州で活躍していた共産党軍がおり、日本の支配と傀儡政権の打破を目指していました。

  新京の情勢でいえば、双方は二度も三度も互いに新京を取り合っていました。その際に市街戦が繰り返され、取ったり取られたりの状況。

  その際、占拠した方から日本人会に軍の使役に日本人から人数を出すようにと命令があり、私もどちらの使役にもかり出されたことが有ります。

 国民党軍が占拠したときは、軍の厩舎の清掃を命じられましたが、軍馬が百頭ばかり繋がれた広い厩舎を一日がかりで清掃したにもかかわらず、報酬はゼロ。

 対して、八路軍の使役の時は、ちゃんと昼食も出たし報酬ももらいました。人民の軍隊を標榜する八路軍には「五大規律・八項注意」というモットーが行き届いていて、住民から食料や必要品を調達するときも、ちゃんと妥当な対価を支払いましたし、乱暴なことは御法度でしたが、国民党軍は威張り散らし、町の人から忌み嫌われていたようです。

その5

○ 内戦に巻き込まれて [2]

 ある一夜、国民党軍と八路軍との内戦は市街に及び、激しい撃ち合いの銃声が、当時、私が都南寮を出て転がり込んだアパートにまで聞こえてきました。まだソ連軍が居座っていたころです。物好きにも、

「ちょっと見物に行こうか」

と友人二人を誘って、寮を出て、街灯の暗い路地から大同大街の方に歩いて行ったところ、だんだん激しい銃声がま近かになってきます。とあるビルの壁からそっと頭を出そうとしたとき、ものすごい勢いで眼に前を弾が飛び交っている様子。 いくら酔狂な男でも、これ以上は1歩も進めません。

「もう引き返そうや」

と、1ブロックほど戻りかけてきたとき、あたりを警戒していたらしい国民党兵に誰何され、思わず立ち止まりました。

「誰か」

「元、電業にいた日本人です」

「どうして今頃このあたりをウロウロしているのだ」

「友人宅からの帰りです」

「ちょつと身体検査をする、武器は持っていないだろうな」

 ここで、私の頭の中は真っ白。何気なく護身用に小さなナイフをズボンのポケットに入れていたからです。小さいと言っても刃物。見付かればどんな誤解を受けるかわかりません。連れの友人達にも迷惑をかけそうです。友人が上から下まで探られているあいだに、そっと、ナイフを入れていたズボンのポケットに手を入れ、ポケットの底を破いてナイフを落とし、足でそっと蹴りました。

  次は私が検査される番。あたりが暗かったのが幸いして、蹴ったちいさなナイフは夜の暗さにまぎれて発見されずに済み、ホッと全身から力が抜けだしてしまいました。…酔狂な冒険は止めることです。

 寮に帰った来ると、用心のため扉がしっかりと施錠されていました。が、安心したせいか、また悪戯心がむくむく。ドンドンと力任せにドアを叩くと、大声で、

「ダワイ、ダワイ」

と、やったものです。まだまだ露助(ロスケ…ソ連兵)のダワイにも怯えていた頃なので、玄関まで様子を見に降りてきていた誰かが、ドカドカと足音たてて階段を二階に駆け上がって行く様子。改めて、ドアを叩き、

「僕だぁ、今帰ってきた」

というと、みんなは真剣になって怒りだしました。

「すまん、すまん」

とこちらは平謝り。

 ○八路軍の進攻 [3]

 新京を支配した勢力は、国民党から八路軍へ、八路軍から国民党へと、何度か変わりましたが、これは初めて八路軍が国民党の支配する新京を制圧する際のことです。私は、2度目の転居で新しい5階建てのビルに引っ越してきてから間もない頃の出来事です。

 私は突然乱入してきた国民党軍の兵士に引っ立てられ、ビルの屋上に連れて行かれました。事情を一言も説明しないままなので、どういうことかさっぱり見当がつきません。うすうす近頃は八路軍が優勢で、新京は包囲されている…との噂は耳に入っていました。「こりゃあ、国民党軍の旗色が悪くなってきたんではないか」と気付いていましたが、それにしても唐突なこと。

  小隊長らしいのが、私に向かっていいました。

「よいか。お前はここで見張っているんだ。何かあったら俺達が下にいるから報告するんだ」

と言って、去りました。

 恐る恐る屋上の低い囲いにとりついて見ていますと、遠くの方に点々と赤い旗が立っています。きっと八路軍の包囲網が市街地に入ってきた模様でした。銃声がしきりにしています。近くのビルの屋上では、国民党軍らしい兵士が機関銃を据えて郊外の方向に向かって乱射の真っ最中。

 そのうち、赤旗の包囲網が次第に市の中心に向かって動いています。どうやら圧倒的に八路の方が優勢な模様。そうこうしている内に、八路軍からの弾が次第に激しく、近づいてくるように思えます。近くのビルから射撃していた機関銃が沈黙。 流れ弾がひゅるひゅると飛んでくるようになり、思わず頭をすくめるようになりました。ひゅるひゅるは遠くにそれた弾、シュッシュッと鋭い音はほんの近くをかすめて、屋上の塔屋のコンクリートの壁にぶっぶっと当たります。

 ふと、振り返ってみると、一人だけ私を監視していた国民党兵士が消えていました。これ以上は生命にかかわります。そっと、四つん這いになって塔屋の階段にたどり着き、自分の部屋に帰りましたが、もう兵士の影も形も有りませんでした。多分、逃亡したのでしょう。 

 ビルの前は道路をはさんで長い塀が続いています。その道路にはまだ戦闘が続いているのでしょう。流れ弾が左右から飛んできています。

 それから3日間というものは、危なくて一歩もビルから出られませんでした。困ったのは買い置きの食料がなかったことでした。同じビルの中国人から精白前の殻付きの高梁を分けて貰いましたが、おかずになる材料が有りません。二食目からは冷えた高梁飯に、水をぶっかけ、塩もないので唐辛子の粉末をかけて食べ、命をつないだのですが、皮付きの高梁は消化が悪く、血便がでるまでお腹を痛めました。

 銃声の途絶えた3日目に、八路軍の兵士がどかどかと入ってきて、銃口を向けて、

「手を挙げろ」

生まれてこの方、まだ、ホールドアップなんて経験はありません。まごまごしていると銃の先で胸をこづかれ、やっと「ああ、手を挙げろといっているんだな」と気付く始末。やがて、家捜しをして(多分、国民党兵士を匿っているのではないかという捜査だったのでしょう)から立ち去りました。

 ビルの前にパン売りが来て、地獄に仏の心境。少々高いことなんかは、飢えには替えられません。早速三つパンを買うと、その場でむしゃぶりつきました。

その6

(6)新京からの脱出…彷徨の始まり

  ○すべてを棄てて

 八路軍が新京を制圧して、一ヶ月後、私の住んでいたビルの日本人に二度目の使役提供の通知があった。今度は臨時の労役ではなく、八路軍の設置した病院勤務だとのこと。しかも住み込みでという。臨時労役なれば家族持ちでも勤まるが、継続した住み込みなれば、家族が別れて住むことになり、二の足を踏んでしまいます。

 誰かの発案で籤引きでということになりましたが、貧乏籤を抽き当てたのがなんと、幼子を二人も抱えた夫婦ものでした。見かねた私が「幸い私は独身ですから、代わりましょう」と気軽に申し出たのが、私の運命を大きく変えることになるとは。……

 少し前から国共両軍の勢力が対峙していることは判っていましたが、急に情勢が緊迫。八路軍の病院に移って間もなく、四囲から砲声がとどろき、国民党軍の双胴の戦闘爆撃機P−38が鋭い旋回能力を誇示するように、かなり低空で飛び回っていました。思わず見とれるくらい優美な姿でした。京都にいたときも重爆撃機B29が比叡山の遙か上空を悠々と飛ぶ禍々しい姿は、度々見たことがあるし、兵庫県の仁川にあった川西航空機工場でも、ずん胴のグラマン艦載戦闘機が、姿に似合わぬ俊敏さで低空から地上掃射をしているのも見たことがあります。

 しかし、P−38は優美な殺し屋。双胴、双発で旋回性能が素晴らしく良く、獲物を追う豹かジャッカルのように精悍。頭上を旋回していたかとおもうと遠ざかり、また翼を翻して舞い戻り機銃掃射。

 それから起こった騒動は、私にすさまじい環境の激変をもたらしたのです。八路軍は一切をあげてハルピンへの撤退を決めたようでした。その日の内に移動の命令が下り、2時間後には新京駅に集合。「ハルピン往きに乗車せよ」

 内心「ソンナ無茶ナ」と慌てふためきました。なぜなら、ほんの2、3日……長くても1週間もすれば住んでいた寮に帰れる、と思い、ほんの数日の着替えのみで、一切は寮に置いていたからです。衣類などはまた手に入りますが、一番心残りなのは幼少時からの写真アルバム。これは二度と手に入らない大切な思い出がいっぱい詰まっています。私は中国人幹部に「一度、家に帰って大切なものを持ってきたい」と訴えましたが、一言「時間がない」。

 気持ちの上では、引きずられるように、ほど近い新京駅まで皆といっしょに歩いて往き、乗せられたのが何と無蓋貨車。乗り終わるや否や、汽笛も鳴らさず発車。貨車では手回りの小さな包みだけを持った日本人徴用者と元々からの勤務員の中国人が半々。

 ここまで詳しい説明は何一つなく、貨車の板仕切にもたれていました。周囲に低い丘はあるものの、目路を遮るものの無い曠野を列車はひたすら驀進しています。団塊になった雲が曠野に影を点々と落としていました。

  皆困ったのが、1時間たち2時間過ぎる内に尿意が我慢できないほど募ってくること。初めはもじもじしながら我慢していましたが、顔色が変わってくるほど切羽づまって来ます。だが、列車はハルピンに着くまでノンストップのようす。男は交替で車両の連結機に出て、片手で貨車の縁に掴まりながらでも用を足せますが、悲惨なのは女性です。

 ついに堪りかねた女性が集まってひそひそ相談していましたが、高梁の茎で編んだアンペラという敷物で丸い囲いをつくり、何人かの女性が周りに立ってアンペラの囲いを保持し、まず一人が洗面器をもって中に入りました。

 じゃんじゃら、じゃんじゃら、ジャーツと、金属製の洗面器は情け容赦なく派手な音を立てます。男達は気の毒で見ていられない心境でそっぽむいていました。いくら生理的な必要に迫られているとは言え、むごいこと。

 列車は小さな駅も大きな駅もすっ飛ばして走っています。2時間半ほども経った頃でしょうか。後ろから複線のもう一方を、別な列車が追いついてきました。なんと、新京方面への線路をも使って八路軍はハルピンに向かっているのです。追いつき、暫くは併走していましたが客車を引っ張っている機関車のほうが馬力が強いのでしょうか、間もなく私たちを追い越していってしまいました。


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