印象記『中国・江南の春』

第7回 無錫から鎮江をへて楊州まで その1
旅の第4日目
ハイウエイと鎮江市内観光 その1
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1999年4月13日(火) 16,421歩〔一日で歩いた歩数〕
【バスの迷走】
蘇州から鎮江に向かう行程が、たいへんな騒動だった。
8時00分に無錫大飯店を出発。広い道路をかなり西まで走ったところで右折し、広いが場末めいて雰囲気の道路を北進。やがて、とんてでもない細い道を通って、工場の塀に沿って…うん?近道かな?まあ、たまにはこんな事もあるさ…とこの時点では鷹揚にのんびり構えていた。
ところが、中型バスでも走りにくい畦道に毛の生えたような道になり、遮断機もないい踏切に差し掛かったが、なんと、通行止めの標識にさえぎられた。
「この前来たときには通れたのに…」
と、ドライバーはぶつくさ。地図を出してみると、なるほど、何処かで東西に走っている列車の線路を渡らねば、高速道路には辿り着けない。つまるところは、以前来たこととのある抜け道を通るつもりだったらしい。が、ここからが大変。バスがやっと者幅いっぱいでは、ユーターンもままならず、そろりそろりとバックして、無事、もとのやや広い道路には出られたが。
ここからの迷走振りがひどかった。
もとの賑やかな大通に戻って、さらに西に向かって走り、そこから北進し、無事、鉄路のガード下を潜れたのは良かったが、それからは始めて通る見覚えの無い道らしく、右往左往を重ね、すっかり自身を喪失したのか、頻繁にバスを止めては、地元の通行人を捉まえては、道順を尋ねまくっていた。
踏切で通せんぼの時までは、私ばりか皆も「まあ、こんなこともあるさ」とゆったり構えていたが、そのうち、時間ばかり食うので、すこしづつイライラしてきた。
私「尤君、このドライバーはプロだろ?たいして遠いところじゃあなく、同じ江蘇しょうなのに、道を知らないのかね?」
尤「中国は広いからね」
私「始めから行く先がきまっているのに、もっと地理に詳しいドライバ−を手配できなかったの?」
尤「同じ国営企業同士なので、文句は言えない」
と、尤君はものすごく気弱なのてである。
押し問答は同道めぐり。中国は国営企業の倒産もやむなしという荒療治も可とし、外国企業にも門戸を開いて、雨後の竹の子の勢いで合弁企業も著しく伸びたが、まだ、国営企業間にはこうしたもたれ合いの風習が抜けていないのだろう。特に生産企業ではなくサービス産業では、昔からの国営企業同士の間では改められていない、としか考えられない。
各地方、各地域の旅客運送業務や旅行斡旋、宿泊や乗車券・チケットなどの手配を扱うエージェントは、まだ海外企業が参入するような環境ではなく、国営企業がほぼ独占しているのてではなかろうか。とすると、国営旅行社も旅客運送業者に遠慮し、欠点を指摘することも、クレームをつけることにも腰が引けてしまうものと思われる。
私もこれ以上、尤君を責めてみても事態は改善されまいと追及をあきらめた。
南京・上海間の高速道路の両側は、ここも菜の花て一杯の風景が続く。片側二車線の道路がゆるいカーヴを描く。途中、ちょっと安手のヨーロッパ風の建物があるドライブインでトイレ小休止。
江南の春は菜の花景色
ドライブインの建物
ハイウエイの両側に広がる菜の花畠
どこまで走っても菜の花の海
私たちが走った区間限りでは、ハイウエイは都会らしい都会の近くを走らず、何処までいってもたまに小さな村落が見えるだけで、田園風景ばかり。だから、日本のハイウエイのように市内に近づくと、遮音壁に風景から遮られてて、景色もゆっくり堪能できないものとは大違いだった。
丹陽市あたりで高速道路を降り午前11時頃、鎮江に入り、こぎれいな鎮江賓館に入ってトイレ休憩した後、市内観光に出かけた。
【鎮江、市内観光 1】 鎮江市は江蘇省のほぼ中央に位置し、京杭大運河が長江に出るところにある。紀元前11世紀…つまり今から3000年もの昔、周の時代に「宣」と呼ばれていたところ。春秋戦国時代には呉の国の城が築かれ、三国時代には呉の国の孫権が都を置いていた。地図を取り出して眺めると、長江の南岸に位置し、見所は金山寺景勝地区、焦山風景勝区、北困山景勝地区という鎮江湾に面した三つの風致地区と、南部景勝地区、西津渡景勝区が観光ポイント。私たちは、金山寺と焦山の二つを見学する予定。
【金山寺】鎮江賓館から10分ほどで金山寺に到着。金山寺…と言えば、われわれ通俗の輩にはすぐ「金山寺味噌」と単純に連想してしまう。味噌はもともと中国からもたらされたものには違いないが、オカズ味噌としての、あの甘〜い金山寺味噌ではなかったようだ。
金山寺に近づくと、バスの通る道筋はまるまる旧市街の風景となる。道に沿った小さな店と店のあいだには、綱を張り渡して下着類の洗濯物が万国旗状態。それでも足りなくて、店の軒を突き破っている樹の太い枝と二階の手摺との間にも、綱にぶら下げられた洗濯物。土間にも無造作に商品を並べている店。庶民的といえば、これほど庶民的な風景はないだろうという町の一角に金山寺の参道への入り口があった。
のんびり洗濯物が玄関先に影を落とす上天気
金山山に近づくと旧市街の庶民の暮らしが間近に
門の上に「大型的蝶花木展」という真っ赤な布地に文字を縫い取りにした看板。これは三流芝居の大仰な看板より品がない。門の右脇に「金山售票」と書かれた切符売り場があり、門の前の電線や伸びた樹の枝からも竹ひごに紙を張って作った蝶々がたくさんぶら下げられていた。ちょっと辟易するほどの庶民らしい雰囲気だ。
金山寺の入り口は一昔前の遊園地気分
参道に入ると、両側は門前町のように土産物屋や飲食店が軒を並べ、それが終わると、やっと大寺院らしい雰囲気の場所に出た。大きな池があり、軒端のそっくり返った屋根付の橋が架かっいる。そちらに進むと蝶々と花のイベント会場のようだった。更に真っ直ぐ進むと、やっと目的の金山寺の前に出たのである。右手に、黄色い塀にアーチ門が三つ並び、その前に高い二脚に支えられた石柱の門には軒端の思いっきり反った屋根、屋根の下には、「鎮江 金山寺」と書かれた古風な扁額がかかっていたた。
金山寺の門前は線香の煙たち込めて
門に対してたくさんの線香に煙っているお堂があり、周りには青銅製の高さ3メートルあまりの三重の塔に似た灯篭が何基も立っていた。また門に近いところには、同じ形ながら金色のものもあり「江天禅寺」と浮き彫りの文字も見える。さきほどまでの安っぽい蝶と花の祭りとは打って変わって、由緒ある寺らしい雰囲気。
三つのアーチのある入り口
ここ金山寺は、もともとは一つの島であったと言う標高44m、周囲55mの丘であったが、清の時代に陸続きになってという。金山と言う地名は、唐代にここで修行をしていた法海禅師が、この地で金を掘り当てたからだとのこと。大門を入って真っ直ぐ行くと、東晋時代〔317−420〕の創建で、金山寺〔江天禅寺〕の本殿にあたる大雄宝殿がある。高い石垣の上に建てられているので余計に大きく見えるのだろう。さすが、堂々とした風格がある。
本堂 大雄宝殿
画僧雪舟も二度この寺を訪れているというから、昔の日本にも知られた名刹なのだろう。
丘の斜面に建てられているので、大雄宝殿の前を少し左手に向かって歩むと丘の斜面に雛壇のように立ち並んでいる堂宇や塔が一望できた。慈寿塔は一度に多人数は上れないだろうからと、私たちは2班に分かれ、私は他の7人と共に「白蛇伝」の伝説で有名な「白龍洞」を先に見学することにした。
斜面にそって立ち並んでいる塔宇
だが、案内の尤君と金山寺の北裏手の石段を降りて行ったのだが…、白龍洞への扉は通行止めの張り紙。そのあたりの改修工事のためらしい。だが、元来た道を引き返して、他のルートから白龍洞を目指したが、こちらのルートも塞がっている。本当に没法子〔メイファーズ〕だった。まあ、こんなことも有るさ、と気を取り直して、中国の各地で見られる八角と軒端の反りあがった慈寿塔を目指して、大雄宝殿の裏から堂宇のあいだの石段を登っていった。
慈寿塔
上り詰めてみると、折り重なるような堂宇の間に一面の水田が見えていた。更に遠くに見えている一条の水路は長江に違いない。八角の慈寿塔は私の立っているテラスとほぼ同じ高さだったので、窮屈な塔の回廊より自由に動ける広いテラスの方がいいと、塔の方はパス。帰りは反対の方角にある石段を降りた。
堂塔の間から見える水田風景
12時30分 金山寺を出発。昼食のため鎮江に入ってまずトイレを借りた鎮江賓館に向かった。