久保田城写真 ALL Photo by Ken究所長 |
20万5千石 |
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久保田藩(秋田藩)
佐竹家は鎌倉以来の源氏の名門であるが、戦国期の佐竹義重は常陸太田を根拠に近隣を切り従えた。
謀略にも長けた義重は会津の芦名家、岩城の岩城家に実子を送り込んで一門化し、南は北条家、北は伊達家と争った。
秀吉の小田原攻め関東仕置きの後も、まだ支配の行き届いていなかった鹿島地方の領主33人を饗応と称して集め、一気に謀殺するなどして常陸一国の支配を確立する。関ヶ原にあたっては隠居した義重は、「家康に与すべし」の考えだったようだが、子の当主佐竹義宣は石田三成と昵懇であった。そのため上杉征伐時に限りなく黒に近いグレーな態度を取り、家康から50万石以上と目される旧領を没収され、出羽秋田郡に移される。
移封時は佐竹領とされた秋田仙北両郡は未検地で、石高不明のままの左遷であった。その後20万5千石の所領が認められる。佐竹義処は庶長兄の佐竹義オキ(ウ冠に眞)の子、甥の佐竹義都(よしくに)にも1万石を分知、式部少輔家と称される。
この両家は一門の重きを成すが、宗藩四代佐竹義格に嗣子がないところから、両家による後継争いが激化。
両家相互に宗藩藩主を立てるという約定が成され、宗藩五代には壱岐守家から、佐竹義長の長男が佐竹義峯として入る。
六代には式部少輔家佐竹義堅が世子となっていたが、相続前に死去、両家相互の約定から、義堅の子義真が六代藩主に収まるが、藩主になれなかったとは言え、式部少輔家の義堅が一旦は世子となった以上、次ぎは壱岐守家からと考える壱岐守一派はこれに激怒、両家それぞれに他の佐竹一門各家以下、家臣、ニ分して、党を成し争い、いわゆる秋田騒動となる。この佐竹義真は22歳で急死。壱岐守家一派の毒殺説もある。式部少輔家はこの義真の死去で絶え、七代には壱岐守家から佐竹義明が入り、壱岐守・式部少輔両家対立の構造は無くなるが、藩内の抗争は継嗣というよりも経済政策を巡る政争となって尾を引く。
本来、土地柄からも米作を持って藩財政の基本とすべきところ、常陸からの減転封による入部当初、家臣の知行減を糊塗緩和するため、入部当初は豊富であった、秋田杉の美林の出荷と、院内銀山等の収入を、藩財政のあてにし、構造的に本藩の蔵入地の割合が少なかった。
当初は回っていたが、早晩、材木と銀山は枯渇し、藩財政の構造的な赤字体質が表面化する。
秋田騒動は、これらに対処するための銀札発行などの経済政策を巡った争いの面が主なのだが、藩主の家督争い、義真の毒殺の風聞、等が幕末から明治にかけて、脚色され、誇張されていった。佐竹家も仙台藩の「要害」に似て、一門家臣を封地に屋敷を構えさせる、厳密には一国一城令に反した政策を取っている。
常陸時代以来のいわゆる佐竹四家は、佐竹東家が久保田城下に、佐竹西家(小場家)が大館に、現在も城下町の面影を残す角館には佐竹北家、湯沢は佐竹南家の預り領。
その他に横手に戸村家、院内に大山家などの佐竹一門家臣が入っていた。久保田藩(秋田藩)は幕末戊辰戦争では奥羽越列藩同盟に加わらず、薩長新政府側に立って、周囲から責められ孤軍奮戦する。
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佐竹義重の長男 |
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出羽亀田藩、岩城貞隆の嫡男で、亀田藩を嗣ぎ、岩城吉隆となるが、のち義宣の養子となる。岩城貞隆は佐竹義重の三男なので、佐竹義隆は義宣の甥。 |
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二代佐竹義隆の二男 |
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三代佐竹義処の三男 |
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壱岐守家=秋田新田藩主、佐竹壱岐守義長の嫡男。佐竹義長は三代佐竹義処の弟。 |
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佐竹義隆の庶長子佐竹義オキの子佐竹式部少輔家の佐竹義都(よしくに)の子義堅が義峯の養子に入っていたが、義峯に先立つ。その佐竹義堅の子。 |
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一門の佐竹東家から壱岐守家=秋田新田藩二代藩主に入った佐竹壱岐守義道の長男 |
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七代佐竹義明の長男 |
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八代佐竹義敦の長男 |
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九代佐竹義和の長男 |
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十代佐竹義厚の二男 |
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陸奥相馬中村藩主、相馬益胤の三男で、当初久保田新田藩主佐竹義核 |
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