津山藩

森家→松平(越前)家

美作は関ヶ原後、備前、美作二ヶ国を与えられていた、小早川秀秋の領地だったが、秀秋が無嗣改易されると、信濃松代(川中島)より森忠政が18万6千石で津山に入った。

森忠政は本能寺の変で、信長に殉じた森蘭丸、坊丸、力丸の弟。忠政には実子の男子がいずれも早世していたので、重臣の関成次の長男を養子に定めていた。関成次は忠政の姉の子であるばかりでなく妻は忠政の娘であった。二代森長継である。
関家は森家の一門格となって、のちに備中新見藩の関家の創設に繋がる。

森長継が隠居し、長武、長成、と継ぐが、いずれも早く亡くなり、長成が急逝すると、関衆利(あつとし)を末期養子として願い出て、認められたが発狂したため、ついに森家は断絶となる。しかし四代前の藩主であった隠居森長継が87歳で存命であった。
そのため、森家の名跡を継ぐことを許されて、備中西江原に2万石で再出仕を命じられ、二十三男の森長直はその後、播磨赤穂に。

森家のあとには、越前松平家の宗家、越後高田藩の松平(越前)光長が越後騒動で、改易となるが、養子の松平(越前)宣富が名家の故をもって、再興を許され、石高は10万石ながら、美作津山を与えられる。

しかし宣富の子浅五郎が11歳で没したため、またもや無嗣改易の危機。名家の故を以って、宣富の甥の長熙に半知5万石ながら、相続が認められる。

津山松平(越前)家は、将軍家の兄筋の結城秀康家の嫡流宗家でありながら、わずか5万石の小藩となってしまう。

何とか元の10万石への復帰を願った松平(越前)斉孝は、庶子ではあったが実子松平慶倫があったが、子沢山で困っていた将軍家斉の16男を養子に迎え世子斉民とし、その手土産として10万石への復活を獲得する。

割りを食った慶倫は斉民に子がなかったので、次ぎの藩主となることができた。


歴代藩主

森家

信濃川中島より 18万6千石
外様 大広間 国主


 

藩主

官位・通称

出自(実父・嫡出関係)

初代

森忠政(ただまさ)

従四位下 右近大夫 侍従
森可成の十男

二代

森長継(ながつぐ)

従四位下 大内記
森家重臣関成次の長男 森忠政の外孫

三代

森長武(ながたけ)

従四位下 伯耆守
森長継の五男

四代

森長成(ながなり)

従四位下 美作守 侍従
森長継の長男森忠継の長男

五代

森衆利(あつとし)

不詳
関衆利として臣下となっていたが、実は森長継の二十四男

乱心除封
のち備中西江原を経て播磨赤穂へ

松平(越前)家

越後高田より 10万石→5万石→10万石
親藩 大広間 城主


 

藩主

官位・通称

出自(実父・嫡出関係)

初代

松平(越前)宣富(のぶとみ)

従四位下 越後守 左近衛権少将
結城秀康の五男出羽山形藩・播磨姫路藩主の松平(越前)直基の三男で引越し大名の松平(越前)直矩の三男 松平(越前)光長の名跡を継ぐ。

二代

松平(越前)浅五郎(あさごろう)

なし
松平(越前)宣富の長男

三代

松平(越前)長熙(ながひろ)

従四位下 越後守
松平(越前)宣富の弟松平(越前)知清の三男

四代

松平(越前)長孝(ながたか)

従四位下 越後守 侍従
出雲広瀬藩主松平(越前)近朝の三男

五代

松平(越前)康哉(やすちか)

従四位下 越後守 侍従
松平(越前)長孝の五男

六代

松平(越前)康乂(やすはる)

従四位下 越後守
松平(越前)康哉の子

七代

松平(越前)斉孝(なりたか)

従四位上 越後守 左近衛中将
松平(越前)康哉の四男

八代

松平(越前)斉民(なりたみ)

正四位 越後守 左近衛中将
十一代将軍徳川家斉の十六男

九代

松平(越前)慶倫(よしとも)

正四位下 三河守 左近衛中将
松平(越前)斉孝の四男

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