鳥取藩

池田家→池田家→池田家

関ヶ原で西軍についた宮部継潤が改易されると、当初因幡鳥取藩には池田輝政の弟、池田長吉が6万石で入り、長幸に継いで、備中松山へ。

播磨姫路にあった池田宗家、輝政の嫡孫池田光政が因幡伯耆二ヶ国32万5千石で入る。

前後するが、一方、備前岡山には小早川秀秋改易のあと、池田輝政の二男、家康の娘の子で、家康が非常に愛した外孫、池田忠継がわずか5歳で備前一国28万石を別家として与えられ岡山藩主となり、さらに38万石となる。後見として姫路藩主である兄池田利隆が岡山城に入って実務を見た。
しかし、忠継はわずか3年、8歳で早世。
弟の忠雄が継ぎ、この時、3人の弟忠澄、政綱、輝興に播磨の所領を分知して、分知し、32万石となった。
池田忠雄も31歳で亡くなり、子の光仲が3歳で岡山藩主となるが、幼く山陽の拠点岡山は治めがたいとして、従兄弟の池田光政と交替する。

そもそも5歳の池田忠継を岡山城主に入れて、わずか2代あとになって、甥の幼主光仲には岡山は治めがたし、というのもいささか無理な理屈でもあり、池田家の家臣たちが、光仲が幼いため、減封を恐れて、池田家の方から、岡山と鳥取のチェンジを申し出たようだが、家康の孫への偏愛に始まったボタンの掛け違いを直したという感もある。
池田輝政の最初の室は中川氏の娘で池田利隆はその子であり、その後継室として家康の娘富子を迎え、忠継、忠雄が生まれているのである。
この経緯もあり、嫡流は姫路→鳥取→岡山と移った利隆→光政の流れであり、岡山→鳥取に移ってきた忠継→忠雄→光仲は分家筋なのだが、鳥取の光仲の池田家には、家康の血が入っており三葉葵の紋の使用を許されているし、若干石高も高い。


歴代藩主

池田家

6万石
外様 城主


 

藩主

官位・通称

出自(実父・嫡出関係)

初代

池田長吉(ながよし)

従五位下 備中守
池田勝入斎信輝(恒興)の三男

二代

池田長幸(ながよし)

従五位下 備中守
池田長吉の長男

備中松山へ

池田家

播磨姫路より 32万5千石
外様 大広間 国主


 

藩主

官位・通称

出自(実父・嫡出関係)

初代

池田光政(みつまさ)

従四位下 左近衛権少将
池田利隆の長男

備前岡山へ

池田家

備前岡山より 32万5千石
外様 大広間 国主


 

藩主

官位・通称

出自(実父・嫡出関係)

初代

池田光仲(みつなか)

従四位下 左近衛少将
池田忠雄の長男

二代

池田綱清(つなきよ)

従四位下 伯耆守 左少将
池田光仲の長男

三代

池田吉泰(よしやす)

従四位下 相模守 侍従
池田光仲の二男東館鳥取新田藩主池田仲澄の長男

四代

池田宗泰(むねやす)

従四位下 相模守 侍従
池田吉泰の長男

五代

池田重寛(しげのぶ)

従四位下 相模守 左少将
池田宗泰の長男

六代

池田治道(はるみち)

従四位下 相模守 侍従
池田重寛の三男

七代

池田斉邦(なりくに)

従四位下 相模守 侍従
池田治道の長男

八代

池田斉稷(なりとし)

従四位上 因幡守 左近衛中将
池田治道の二男

九代

池田斉訓(なりみち)

従四位上 因幡守 左近衛少将
池田斉稷の二男

十代

池田慶行(よしゆき)

従四位下 因幡守 左近衛少将
東館鳥取新田藩主池田仲律の長男

十一代

池田慶栄(よしたか)

従四位上 因幡守 侍従
加賀金沢藩主前田斉泰の二男

十二代

池田慶徳(よしのり)

従四位上 因幡守 左近衛中将
常陸水戸藩主徳川斉昭の五男

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