松江藩

堀尾家→京極家→松平(越前)家

毛利輝元の所領だった出雲も、関ヶ原で敗れると没収され、秀吉子飼いの堀尾吉晴・忠氏父子が遠江浜松12万石から倍増の24万石で入封。
当初は尼子氏の古城月山富田城に入るが、松江に移転。堀尾忠晴に継ぐが、無嗣改易となる。ここでも、徳川幕府による豊臣大名の改易は行われている。

後を受けて、若狭小浜より京極忠高が24万石で入るが、これも嗣子無く改易。
のちに一門の京極高和に播磨竜野に6万石で名跡を取立られる。

親藩の結城秀康の三男、越前松平直政が信濃松本より、18万6千石で入って、以降、松平(越前)家の支配で230年、松江に在封。

他藩同様、財政難に苦しむ中、五代藩主宣維が亡くなった時、六代藩主宗衍は3歳であった。国入りもできぬまま、飢饉・天災・一揆が相次いでいた。
17歳で初国入りした宗衍は「御直捌(おじきさばき)」と言われる藩主親政による、藩政大改革を断行。
家老による国政を廃止し、新規に登用した官僚に政治を行わせた。資金繰りに余裕を持たせるため富農を相手にメリットを付けて年貢の先払いを奨励。この資金で藩直営の殖産興業を実施。
しかし、これらは成功するかに見えたが、火災、天災が相次ぎ、せっかくの資金もその穴埋めにまわり、藩財政は逼迫の度を加えてしまう。
宗衍はこの状況を見て、39歳にして隠居を決意。17歳の治郷に譲る。

七代治郷はさらに有名だが、その藩政の立て直しの内容は、仕置職朝日丹波茂保に、絶対的な権限を与え、強権的なリストラ人員整理と、藩政機構改革、年貢増強、藩債務の踏み倒し、藩札の通用停止、という激しいものだった。先代の殖産興業を継承し、さらに藩営の海運業に乗り出す。
強権改革は成功し、藩財政は好転する。
治郷の「不昧」公として有名な茶人大名の風流を可能ならしめたのは、このような背景があって潤った藩庫によるのである。


歴代藩主

堀尾家

24万石
外様 城主


 

藩主

官位・通称

出自(実父・嫡出関係)

 

堀尾吉晴(よしはる)

従四位下 帯刀
堀尾泰時の長男

初代

堀尾忠氏(ただうじ)

従四位下 出雲守
堀尾吉晴の二男

二代

堀尾忠晴(ただはる)

従四位下 山城守
堀尾忠氏の長男

無嗣改易

京極家

若狭小浜より24万石
外様 城主


 

藩主

官位・通称

出自(実父・嫡出関係)

初代

京極忠高(ただたか)

従四位下 若狭守 左少将
京極高次の長男

無嗣改易
のち一門に播磨竜野に名跡取立

松平(越前)家

信濃松本より 18万6千石
親藩 大広間 国主


 

藩主

官位・通称

出自(実父・嫡出関係)

初代

松平(越前)直政(なおまさ)

従四位上 出羽守 左近衛権少将
結城秀康の三男

二代

松平(越前)綱隆(つなたか)

従四位下 出羽守 侍従
松平(越前)直政の長男

三代

松平(越前)綱近(つなちか)

従四位下 出羽守 侍従
松平(越前)綱隆の四男

四代

松平(越前)吉透(よしとう)

従四位下 出羽守 侍従
松平(越前)綱隆の五男

五代

松平(越前)宣維(のぶずみ)

従四位下 出羽守 左近衛権少将
松平(越前)吉透の二男

六代

松平(越前)宗衍(むねのぶ)

従四位下 出羽守 左近衛権少将
松平(越前)宣維の長男

七代

松平(越前)治郷(はるさと)

従四位下 出羽守 侍従
松平(越前)宗衍の二男

八代

松平(越前)斉恒(なりつね)

従四位上 出雲守 左近衛権少将
松平(越前)治郷の長男

九代

松平(越前)斉斎(なりとき)

従四位上 出羽守 左近衛権少将
松平(越前)斉恒の長男

十代

松平(越前)定安(さだやす)

従四位上 出雲守 左近衛権少将
美作津山藩主松平(越前)斉孝の七男

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