ラッコの悲しい歴史
ラッコ生息域
濃い青が現在、薄い青が以前生息していた海域
- ラッコは、1741年にロシア皇帝の命によって、ベーリングを隊長とする探検隊がアラスカを発見した後に、現在のベーリング島で座礁した時に発見された。生き延びた博物学者のステラーらは約900枚のラッコの毛皮をもって
帰国。北太平洋に最高級の毛皮をもつ動物がいることがわかったため、ハンターや毛皮商人たちが
カムチャッカ周辺に殺到し、乱獲が始まった。
- ハンターたちは、続いてアリューシャン列島沿いに北アメリカ沿岸を荒し、さらにこれらの地域のラッコが少なくなると千島列島沿いに南下してきた。江戸時代末期にロシア人が
北海道周辺に姿を現した裏には、ラッコの狩猟という目的があったのである。
- 良質な毛皮を求めて乱獲されたため、30万頭はいたと思われていたものが20世紀初頭には絶滅寸前まで 追い詰められてしまった。
- そのため、1911年に結ばれた国際保護条約(日本、ロシア、カナダ、アメリカの4か国間で結ばれた「オットセイ保護条約」。1988年に失効した。)による保護活動が実を結び、商業取り引きが規制されていることもあり、近年は個体数を徐々に回復させており、世界全体での生息数は
およそ12万〜18万程度ではないかと推測されている。
- 1989年3月、アラスカ湾でスーパータンカー「エクソン・バルディーズ号」が座礁し、約4000万リットルもの原油が流出した。この事故は多くの生き物の命を奪ったが、ラッコも例外ではない。必至のグルーミングにもかかわらず原油はラッコの毛にからみ付いた。そのため空気層を失ったラッコ達は体温と体力を奪われ、6000頭が凍死、または溺死したといわれています。
- アラスカラッコについては近年の調査で徐々に数を増しており、現在では水族館でも見られるが、アメリカのカリフォルニアラッコの生息数は、約2000頭といわれており国際保護動物として依然厳しい法のもとにあります。また、1991年にロシアの行った調査によると、千島列島の個体数は10000頭と見積もられています。根室半島から知床半島周辺の沿岸で千島の個体数増加を 反映して、毎年のように来遊する姿が確認されているそうです。
吉川美代子「ラッコのいる海」(立風書房)より引用
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