'06年3月26日

   幼なじみの同級生から封書が届いた。中学の同窓会の案内状だった。開封した書状には「還暦記念同窓会」の表題が躍っている。20名ほどの幹事が名を連ね、かなり力のこもった企画のようだ。卒業後暫くして1度だけ開催された記憶がある。それ以来のおよそ40年ぶりの開催である。

  それにしても誰が考えたのか「還暦記念」とは、いかにも大胆で刺激的なコピーだ。60歳を迎えて紛れもなく還暦には違いない。自分では「とうとう還暦を迎えて」などと多少自嘲気味に口にするものの、他人からあらためて指摘されると、いささか抵抗感を覚えるものである。にもかかわらず、このコピーは成功を収めている。受信者に「還暦」という節目の年をあらためて意識させることで、これを逃すと次はないのではないかという不安を抱かせる効果を与えている。コピー考案者の巧妙な罠にまんまと嵌った私は、出席欄にマルをつけて返信した。
   同窓会当日がやってきた。なんといっても懐かしい顔ぶれたちとの40年ぶりの再会である。とりわけ親しかった女の子や密かに思いを寄せた女の子との再会の期待に、心躍るものがあったとしてもやむをえまい。そんな夫の様子を横目で見ながら妻はなんとなくよそよそしい(・・・と感じるのは思い過ごしだろうか)。それでも「センスのないオヤジ姿で送り出しては沽券にかかわる」とでも思っているのか、あれこれと着ていくものの世話を焼く。

  朝9時過ぎに家を出て最寄駅に向う。三宮で乗り継いで11時前にJR姫路駅に到着。お城側の北口ローターリーが、会場送迎バス利用組に指定された集合場所だ。それらしき場所には、見間違いようもない男女の還暦軍団がたむろっている。遠目に一同の顔を見渡してみる。ヤバイ!どの顔も思い出せない。作り笑いでごまかしながら近づいた私に、幹事風の級友が、名乗りをあげながら声を掛けてくれる。旧友達の輪の中で名乗り合う内に、ようやく目の前の顔が記憶に残る遠い昔の顔と一致してくる。
  予定の11時をかなりオーバーして送迎バスが出発した。姫路駅から5kmほど北の広嶺山腹の「ハイランドビラ姫路」が会場である。10分足らずで到着した会場のロビー正面の受付には、女性幹事たちの応接が待っていた。会費を支払い、名札、テーブル指定メモ、式次第と出席者名簿のパンフレットを受け取る。記念写真の返信用封筒に住所・氏名を書いて手渡す。手際の良い一連の手順が、幹事達による事前準備の周到さを窺わせる。

 受付が一段落した頃を見計らって、正面玄関前での記念撮影の合図がある。写真屋をやっている級友が、中学時代と変わらぬ軽口を叩きながら、撮影を仕切っている。「プロみたいやな〜」誰かがまぜっかえしている。総勢70名余りを収容するには多少無理のある3列のひな壇に全員が納まり、無事撮影を終えるために費やされた時間と無駄口が、40年の垣根を取り払っていた。
 12時前、各自所定のテーブルに着いていよいよ開宴である。参加者は5クラスあった卒業年次のクラス別に各テーブルに振り分けられているようだ。5組だった私の席は、奥行の長い会場に並べられた10席ほどの宴席の最後列のテーブルだった。先生も含めて80名近くの同窓会の宴席風景は壮観だった。最前列の先生方の姿が、はるか彼方に見える。
 司会者が開会を告げ、幹事挨拶、乾杯、恩師祝辞と続く。出席の6名の先生方の内、2名の先生からの挨拶の後、食事に入る。しばらくしてから参加者全員の自己紹介となる。クラス順に司会者が名前を読み上げ、本人が起立し名前を告げる。予定されていた近況報告は参加者の余りの多さに割愛されたようだ。
 自己紹介されて、かろうじて顔と名前が一致する場合が多い。再会を願っていた女の子(その瞬間までイメージは女の子なのである)の名前が呼ばれる。この時ほど心ときめく瞬間はない。脳裏にあるイメージとの照合結果に安堵したり、驚いたり・・・・。

 同じテーブルの隣りの席は、小学校以来の幼なじみで、再会したかった女性のひとりだった。親同士の付き合いも深かったこともあって、特に親しかった。そんな共通の話題で盛り上がっていた時、スナップ撮影に余念のない級友(例の写真屋さん)がやってきた。早速、ツーショット撮影をリクエスト。ファインダー越しに写真屋さんが口にする。「ええんかな?そんなにくっついて!」。彼女がすかさず切り返す。「ええのッ、親も認めてるんやから!」。先刻の話題をタイムリーに取込んだ見事なジョークだった。口にした当人の年齢と、科白の内容との落差に思わず噴き出した。
 同じテーブルの反対隣りは、今も親しい付き合いが続いているらしい男性二人の席だった。自己紹介の時だった。そのひとりを紹介する際の司会者の口上が、鮮やかに40数年前の光景を浮かび上がらせた。「中学時代、学生帽をテカテカに光らせていたF君です」。丸刈りに学生帽の着用が義務付けられていた時代である。学生帽をいかにカッコよく加工して被るかが、校則通りの型に嵌った学校生活に飽き足らない当時のアウトローたちの腕の見せ所だった。F君はそんなグループの男気のある代表格だった。ふと思い出して小学校以来の級友だった在日朝鮮人のK君の消息を尋ねた。私にとって、当時なぜか気の合った今尚気がかりな友人だった。「金ちゃんは、卒業後しばらくして北朝鮮に行ったきり、帰ってこんのや」。返ってきた回答は衝撃的なものだった。私たちの年代以上の日本人にとって、重くてブルーな歴史的テーマを巡るドラマが、身近なところで展開していた。
 自己紹介も終わり、フリータイムになった。おもいおもいにテーブルを巡り歩く。とあるテーブルに同じ町内の幼なじみだった女性がいた。隣席を確保し、昔話に花が咲く。確か中学時代は、学級委員を分担し合ったパートナーだった筈。嬉しい再会だった。「お正月にあなたの家で、近所の男の子も女の子も一緒に同級生ばかりで、明け方まで百人一首やゲームをして遊んだのを覚えてる?○○ちゃんや○○ちゃんや・・・・」。問われてみて初めて呼び戻される記憶がある事を知らされた。忘却の彼方にあった胸をときめかせた楽しかった筈の思い出が瞬時に蘇る。

 再び司会者が登場して懐かしい写真のスライド上映が始まった。卒業アルバムから取り込んだクラス写真やクラブ活動紹介写真、卒業旅行などのスナップ写真の数々だ。クラス写真の正面には担任の先生が陣取っている。「アッ夏ミカンや!」「タンクローや!」。照明の落とされた会場から当時の先生たちの渾名が飛び交う。スナップ写真の場面では正体のわからない人物を見つけて「アレは誰や。本人がおったら出てきて説明せいッ!」などと喚いている。ご丁寧に登場した本人がまぶしい光の中で「これが私です」などと指さしたりする。懐かしさと楽しさに酒の酔いが拍車をかけて、誰もが中学生時代の童心に返っている。
 高揚した宴席の終焉を迎え、全員による校歌斉唱となる。どの顔にも戸惑いが浮かんでいる。戸惑いを救ったのはやはり幹事たちの周到な準備だった。式次第のパンフレットには歌詞が記載され、会場には伴奏が流れる。還暦世代のカラオケで鍛えられた自慢の喉が、懐かしのメロディーを歌い上げる。
 幹事の閉会挨拶の後、司会者からは同じ建物の別会場に用意された二次会の案内と不参加者の送迎バスの案内が告げられる。当初、帰宅時間の長さを念頭に不参加予定だった私も、この盛り上がりと高揚した気分の前で、その意思はとっくに失せていた。
 隣の部屋に会場を移して二次会が始まった。正面にはお決まりのカラオケセットが準備されているものの稼働率はいたって低い。たまに誰かが歌っていたようだが、ほとんど誰も聞いていない。いつでも楽しめるカラオケなどより、今しか味わえない旧交を温めるという貴重なひと時の方がはるかに大切なのだ。始まりと終わりの合図以外には幹事の出番もない。参加者が自由にテーブルを巡り、おもいおもいに懇親を深め、クラブ活動グループやら仲良しグループで集合写真の撮影に興じている。

 結局、3時間の同窓会でも補えなかった懇親の延長戦でもあった二次会が、お開きを迎えたのは5時前だった。
 
 還暦の年は、「同窓会の旬の年」のようだ。今年の正月に開催された高校の同窓会にも出席した。やはり20数年ぶりの久々の同窓会だったが、楽しさと盛り上がりは、今回の中学の同窓会がはるかに勝っていた。なぜだろう。
 
今回参加の同級生たちは、全員同じ小学校の同級生でもある。その小学校は、当時なぜか広域の校区を持ち、生徒数3,000人を擁する日本一のマンモス小学校といわれていた。ただ中学になると、西部、中部、東部の3校に分散された。中学校の校区はかなり狭くなり、それだけに同級生たちは隣近所の遊び友達の比率が高くなる。高校は、姫路市全域の選抜制だった。従って高校では、ごく一部を除き初めて出会う同級生が大半となる。
 かっての級友たちとの再会の場である同窓会の楽しさは、級友との共通の時間や体験の密度に比例している。幼友達でもある中学の同級生は、幼児からの10年以上に及ぶ遊び友達である場合が多い。おのずと呼び交わす呼称も、「○○ちゃん」と、ファーストネームになる。しかも異性の級友たちとは、幼児期の無邪気な○○ちゃんが、いつの間にか異性として成長している様を意識し合う思春期を共有した仲でもある。こんな貴重な体験を共有する中学の同窓会に、受験戦争に追われた僅か3年の高校の同窓会が及ぶわけがない。

 定年後の再雇用で尚、現役ではあるものの、意識はリタイヤ後の生活に向っている。20数年住みついた我が家のある地域にも郷愁を覚えるこの頃である。その思いをホームページで具体化しようと地域紹介サイト「にしのみや山口風土記」を立ち上げた。暇を見つけて史跡や名所を訪ね、地域の史書を読んでいる。やりがいのある楽しいひと時だ。同時にそれは、私にとっての新たな故郷づくりのいとなみなのかもしれない。とはいえ、そのいとなみが所詮本当の故郷の疑似体験であることに変わりはない。望郷の念がひときわ強くなる年齢にさしかかっているのだろう。
 同窓会の幹事のひとりである女性から、今回の同窓会のために幹事たちが数回打合せの場を持ったと聞かされた。「大変だった」という彼女の言葉の中に、それを上回る幼なじみ達との共同作業の楽しさが込められていた。故郷に今もとどまっていれば私も真っ先に手を上げたに違いない。そして「ひめじ飾磨風土記」を立ち上げていたことだろう。
 楽しかった中学同窓会は、故郷を離れたツケの支払いを味わったチョッピリほろ苦い同窓会でもあった。