ここのところ年相応に時代小説に嵌っている。藤沢周平、山本周五郎、乙川優三郎、山本一力等の作品を片っ端から読んだ。その小説世界の舞台の多くは、江戸である。以来、時代小説を読みながら舞台となっている江戸の街々を思い描いたりする。深川界隈の地図を眺め、ぜひ訪れたい富岡八幡宮の位置を確かめたりもする。
 そんな時、アマゾン のHPサイトで「江戸散歩 東京散歩」という本が目についた。カスタマーレビューを読むと、時代小説の舞台をゆっくり散策したい時の格好の書籍のようだ。早速、NETで注文した。届けられた「江戸散歩 東京散歩」は、全頁カラーの地図、写真、イラストをふんだんに使用したビジュアルなガイドブックだった。
 6月21日から1年ぶりの1泊2日の東京出張だった。2日目は朝10時からの業務だった。早朝のひとときを江戸時代小説の中心舞台である深川界隈を「江戸散歩 東京散歩」のコピーを片手に散策した。
 赤羽駅前のビジネスホテルを早朝6時半に出発した。JR京浜東北線と都営大江戸線を乗り継いで7時15分頃には門前中町駅に着いた。地下鉄出口を上がり永代通りを東に進むと深川不動尊の看板がある。左折して風情のある参道@に入ると正面に本堂ABが見える。
 成田山の本尊・不動明王を江戸で参拝したいという気運の中で元禄7年に深川永代寺境内で開帳されたのが深川不動堂のおこりといわれる。本堂で参拝を済ませ境内を巡る。不動尊像Cや成田山内陣十六講Dの石碑がある。
 深川不動堂の参道から東に富岡八幡宮が間近に見えている。一旦永代通りに出て八幡宮正面の鳥居前@に出る。時代小説にしばしば登場する江戸庶民の崇拝を集めた八幡様である。
 鳥居をくぐるとすぐ左に銅像がある。江戸後期の測量家で近代日本地図の祖といわれる伊能忠敬像Aである。銅像前には以下の案内板がある。「忠敬は事業成功後、50歳で江戸に出て八幡宮近くの門前仲町に隠宅を構えた。寛政12年(1800年)に富岡八幡に参拝後、蝦夷地測量の旅に出た。」
 更に進むと神輿庫Bがあり、一の宮、二ノ宮の二基の黄金神輿が納められているのがガラス戸越に見える。54基の町神輿が勢揃いし渡御する様は、しばしば時代小説にも登場する。
 緩やかな階段を昇るといよいよ本殿Cである。寛永4年(1627年)創建の「江戸最大の八幡宮」である。参拝の後、右手の回廊奥の横綱力士碑に向う。富岡八幡は江戸勧進相撲発祥の地でもある。1684年に始まった勧進相撲は以降約100年に渡ってこの境内で本場所が行なわれた。横綱力士碑Dは明治33年に歴代横綱を顕彰する碑として建立された。
 富岡八幡宮を出て永代通りを西に進む。時代小説の舞台としてしばしば登場する永代橋の今をぜひとも見ておきたい。
 「江戸散歩 東京散歩」の地図をみると永代橋の南手前に巽橋があり川沿いに北上できそうだ。永代通りに架かる福島橋を渡り左折し大島川沿いに行くとそれらしき橋がある。巽橋の表示@を確認し川を覗くと風情のある屋形船が二艘Aつながれている。無味乾燥な都会の風景の中に辛うじて残された江戸下町の情緒だった。
 巽橋の架かる河岸通りを北に向かい途中左折し永代公園に入る。広大な隅田川が眼前に広がり、た前方にはアーチ型の巨大な鋼鉄橋Bが見える。江戸情緒を連想させる「永代橋」の、時代小説ファンには落胆を味あわさせられる今の姿である。永代橋下Cの遊歩道をくぐり、大通りに上る。ちなみに時代小説にしばしば登場する「大川」は隅田川の下流、吾妻橋周辺から河口にかけての隅田川の呼称である。
 地図では「赤穂義士休息の地碑」があることになっている。探し回ってよぷやく角地のビル前に建つ石碑Dを見つけた。義士のひとり大高源吾の俳人仲間であった竹口作兵衛が本懐を遂げた義士達に甘酒粥を振舞った所と刻まれている。
東に大島川まで戻り袂を北に向う。首都高速の下をくぐり更に進むと清澄公園@に出た。公園内を横切り早朝で閉園中の清澄庭園を横目に霊巌寺に向う。
 霊巌寺は清澄庭園の向いの清澄通りを挟んだ位置にあった。土塀に囲まれた落着いた雰囲気の参道の正面に本堂Aが見える。参道西側には銅像地蔵菩薩坐像Bがある。享保年間建立の江戸地蔵のひとつで東京都の指定文化財である。本堂西側に史跡・松平定信墓所Cがある。寛政の改革の立役者である老中・松平定信の墓である。
 霊巌寺に隣接して東側に深川江戸資料館がある。江戸時代の街並みを等身大で再現した資料館と資料にある。残念ながらここで10時の業務に間に合うためのタイムリミットである9時を迎える。正面玄関Dの画像撮影にとどめ東京メトロ・清澄白河駅に向った。資料館見学や清澄庭園散策は次回の楽しみとしよう。