■家内と小旅行に出かけた。かねてから訪ねたかった奈良町である。朝7時に自宅を出て、マイカー、JR宝塚線、地下鉄御堂筋線、近鉄奈良線を乗り継いで、近鉄奈良駅に9時前に着いた。車中で書棚にあった蔵書のムック本「奈良おさんぽマップ」で散策ルートをマーキングした。
■駅前に建つ行基菩薩立像に対面した後、すぐ横の南に真っすぐ伸びた東向通り商店街のアーケードを進む。連休とはいえ開店前の商店街は人影もまばらだ。その先の餅飯殿(もちいどの)センター街のアーケードを更に南に進み広い車道を渡った先の奈良町に到着した。駅から10数分の道のりだった。
■南に伸びる小路で「からくりおもちゃ館」の案内看板が目に入った。西に行くと民家を利用した無料公開のおもちゃ館があった。テーブルに江戸時代から親しまれていたからくりの復元玩具がいっぱい並んでいる。ガイド役の中年の婦人が遊び方を説明してくれる。
 
■小路から東に入った所に奈良町で使われていた生活用具等の展示館「奈良町資料館」がある。開館前で入館できなかったが、入口庇には身代わり申(さる)の赤い人形が幾つもぶら下がっている。この町の多くの民家の軒先に下げられている魔よけの人形である。すぐ近くには庚申信仰の拠点である「庚申堂」がある。
■小路に戻り南に行くと「誕生寺」がある。当麻寺の曼荼羅ゆかりの中将姫の生誕地と伝わる寺院である。小路を東に折れて進んだ先に「ならまち格子の家」があ。奈良町の伝統的な格子造りの町家を再現して無料公開されている建物である。奥行きのある間取りの部屋に、中庭、離れ、蔵、台所、二階間などの風情を味わえる。
■格子の家を南に行くと「ならまち振興館」がある。奈良伝統の蚊帳製造の勝村商店分家の住まいで開業医として住民からも親しまれた建物を市が買い取って無料公開したものである。二階からの若草山や三笠山の眺望をボランティアガイドの同年輩の男性の案内で印象深く眺めた。
■そこから折り返し北に向かい元興寺(がんごうじ)塔跡に着いた。奈良町の中心寺院である元興寺の五重塔跡である。東寺の五重塔よりも大きかったという基壇の石組だけが今も残されている。すぐ南に縁結びの「御霊神社」があり若い女性たちの参拝姿があった。神社前の小路を西に向い「十輪院」に立ち寄った。国宝の本堂は民家を思わせる低層の独特の形で鎌倉時代の寄棟造りの正面の蔀戸が美しい仏堂である。
■すぐ東の狭い路地を北に向い東に折れて進んだ先に、室町時代の寝殿造り書院遺構の「今西家書院」がある。門前から眺めただけで先に進む。車道を渡った所に「福知院」がある。興福寺の僧・玄肪が創建した古刹で本堂は重要文化財である。
■福知院の北側の大通りを渡った西側に「名勝・旧大乗院庭園」がある。車道に面した文化館から入園料(100円)を払って入園する。室町時代に善阿弥が作庭を始めたという大きな池を中心とした庭園は、中島に架けられた赤い太鼓橋が印象的な美しい名園だった。
■庭園を出て西に進み、「元興寺」に着いた。蘇我馬子が飛鳥に建立した日本最古の仏教寺院・法興寺(飛鳥寺)が平城京遷都に伴い移転され元興寺になった。現在の奈良町は元興寺の境内につくられた町と言えるほど広大な寺域だったという。古都奈良の文化財として世界遺産に登録されている。拝観料(400円)を納めて東門をくぐり境内に入る。ともに国宝である本堂と禅堂の風格のある仏閣が前後に連なっている。参拝の後、収蔵庫展示の宝物や発掘遺跡などを見学した。
■元興寺から餅飯殿センター街に入ってすぐのビル2階で昼食をとった。朝、チェックしておいた「懐石料理・円」という店だった。注文した茶がゆ膳(2000円)は期待以上の美味しさだった。サラッとした茶がゆに鶏のくわ焼、子芋・出し巻きのお椀、奈良漬寿司、筍とフキのお汁、酒粕や苺など地場素材の天ぷらと、奈良の味たっぷりの大満足御膳だった。
■昼食を終えたのが12時半頃だった。まだたっぷり時間はある。少し歩き疲れはあるもののこの際、世界遺産登録の興福寺、東大寺にも足を伸ばすことにした。センター街北の三条通りを東に進み猿沢の池の手前の石段を北に上ると八角の興福寺・南円堂がある。その前を東に行くと興福寺の五重塔と東金堂の威容がある。二つの伽藍の間を更に東に進み南大門のある通りに出る。
 
■北に向かって10分ばかり歩いてようやく南大門に辿り着いた。運慶、快慶作と伝わる左右の巨大な木造金剛力士立像(国宝)の迫力にあらためて感じ入った。中門の西の端の受付で拝観料(500円)を納めて大仏殿に向かった。連休中でもありさすがに世界遺産見学の観光客が押しかけている。大仏殿の中は撮影自由である。正面の大仏(盧舎那仏像)の迫力と造形美を思う存分デジカメに納めた。周囲を取り巻く多聞天像や広目天像などの多彩な仏像群にも目を見張らされた。
■大仏殿西側の戒壇院を目にした後、近鉄奈良駅に向った。駅前商店街でお土産の葛切り餅を買い、2時33分発の近鉄急行に乗車し自宅に戻ったのは4時半頃だった。万歩計は2万9千歩を数えさすがに疲れが押し寄せた。それでも念願の奈良町に加え、美味しい昼食と興福寺、東大寺まで訪ねられたのだから充実した1日だったことは間違いない。
 
 
ならまちの歴史のアウトライン
ならまちの歴史は、8世紀初めに遷都された平城京の外京として多くの社寺が置かれたことから始まるという。飛鳥の法興寺( 飛鳥寺) が元興寺としてこの地に移され、その境内を中心とした地域がならまちである。中世以降も大寺院に保護された商工業の町として栄えた。室町後期から戦国期には支配層の混乱のなかで町民自治が高まった。江戸中期以降も東大寺や春日大社の門前町として都市機能を維持した。第二次世界大戦で空襲を免れたことで街路や町並みが残された。20世紀後半には住民による町屋保存活動が活発化し、各地のまちづくり運動の先鞭をつけた。
ならまちのカルチャーと観光の町としての再生
ならまちの歴史をざっと追ってみて気づいた。1300年にも及ぶ歴史と町衆としての自治意識や残された古い町並みといった要素がこの町のカルチャーを形成している。かっての伝統産業は今や衰退し、歴史と町並みをウリにした観光の町として再生した。そのための町ぐるみの取組みが活発である。
住民ぐるみの町おこしの息吹
ならまちには「からくりおもちゃ館」「奈良町資料館」「ならまち振興館」「ならまち格子の家」など古民家を活用した無料公開の見学施設が多い。そのどこにも住民ボランティアが詰めている。彼らは積極的に観光客に話しかけ町の魅力を伝えようとする。奈良町情報館発行の「おさんぽMAP」にも住民たちが顔写真入りで施設のポイントを案内している。昼食をとったお店のママさんはお料理ガイドを忘れない。住民ぐるみの町おこしの息づかいが伝わる町である。
伝統的な「暮らしを守る風土
他方で伝統的な暮らしぶりを維持する風土も息づいている。民家の多くの軒下に庚申信仰のシンボルである「身代わり申(さる)」の赤い人形がぶら下がっている。銭湯の多さにも驚かされる。あちこちに風呂屋の煙突を目にする。町の高齢化だけでない頑なに銭湯を利用するカルチャーがあるのだろう。
 町並み散策とは町の風景を愛でるだけでなく町の息吹を感じる旅であることをあらためて教えられたならまち散策だった。