先日、宮水学園のオープンカレッジで「小浜宿」の話を聞いて以来、いつ小浜を訪ねようかと思っていた。バスで宝塚まで出なければならない。通勤ラッシュを避けるには週末しかない。猛暑を避けるには早朝が良い。というわけで日曜日の今朝、5:37の始発バスに乗車し宝塚経由で小浜に向かった。宝塚から阪急でひと駅の清荒神で下車したのは6時20分頃だった。ここからは最新携帯iPhoneのGPS機能付きマップが威力を発揮する。起動と同時に現在地マップを表示してくれる。しかも指先操作で拡大縮小は思いのままである。iPhoneをナビ代わりに10数分で小浜宿の北の端「国府橋」に到着した。
 小浜は南西北の三方を大堀川に囲まれ、さらに東側には溜池を掘り土塁を廻らして防御性を高めた城塞型の寺内町だったという。15世紀末に創建された浄土真宗寺院・毫摂寺(ごうしょうじ)を中核とした自治集落である。また江戸時代以降は京伏見街道から西宮街道に続く街道と有馬街道が交差する交通の要衝の宿場町として発展した。街道ごとに三方の町の入口には門を構えていた。実際に散策しながら今なお残る門跡を目にした。京伏見街道入口の東門、有馬街道の北門、西宮街道の南門である。
 北門跡の前の整備されたまっすぐの道を南に向かう。西側に真新しい木の鳥居がありその奥に大木に囲まれた皇大神社の本殿がある。室町時代の創建と伝えられる天照皇大神をお祀りする神社である。少し南に行くと東側に南門跡がある。更に進むと四つ角の正面に道標が見える。中央に「南無阿弥陀仏」と刻まれ「大へん古い道標」と題された案内板には江戸時代初期の年号が記されている。四つ角を右折し馬街道と呼ばれるゆるやかな坂道を下る。左にカーブした角に「谷風岩五郎墓」がある。明治時代初期に大関にまでなった小浜出身の力士のようだ。墓の後の高台に首地蔵がある。石段上の社の奥に野ざらしの大きな顔だけのお地蔵さんが二体並んでいる。カーブの先の墓地を右に見ながら道なりに南に進むと国道176号線に合流する。左折し次の通りを大堀橋を渡って北に入ると再び小浜宿となる。
 先ほどの道標のある辻を東に向かい小学校校門の東側の八つ橋稲荷神社を参拝する。幾つもの赤い鳥居のアーチの先に社殿がある。「狐塚」と呼ばれ人と狐の出会いの民話を伝えた神社のようだ。社殿裏側の小路を抜け北に向かう道路突き当りを東に進む。突き当りの大通りを左折し少し行くと東西に京伏見街道の旧街道がある。左折してすぐのところに東門跡がある。
 旧街道を西に進み突き当りを右折する。三叉路角に道標がある。地中から発掘された江戸中期の道標で右に行くと昆陽寺を経て尼崎に至ると示されている。その先にも道標がある。江戸末期のもので「左/三田有馬 右/中山 大坂」と刻まれている。そばの三叉路を左折してすぐ北側に江戸時代の復元された制札場と今は公民館となっている旧代官所跡がある。制札場は一般に高札場と言われ、江戸中期に小浜にあったものだ。 
 
 制札前の道筋は宿場町の風情を色濃く残した風景だ。南側には戦国武将・山中鹿之助の末裔と言われる山中家があり、その隣は小浜宿資料館である。向い側には軒先に杉玉を吊るした「菊仁」酒造の風情ある家屋が残されている。資料館西側の小路の先に毫摂寺境内への入口がある。東側の山門は閉じられておりこちらからしか入れない。広々とした境内の北側一角に白亜の洋風建築の開基堂があった。江戸末期建立の本堂は、さすがに小浜御坊とも称される格式を思わせる風格を備えていた。仏閣の広大な敷地を取り巻くアイボリーの長大な土塀が見事だった。
 資料館を右折し北に向かう道路が京伏見街道から分岐した旧有馬街道である。この街道沿いに「とんかち館」がある。小浜が江戸時代に腕の良い大工や左官の多く住む町であったことを偲んだ資料館である。その隣には、切り妻平入りの町家が並んでいた倉橋町の復元家屋が残されていた。有馬街道は突き当りを左折しさらに突き当りを右折して北に向かう。右手に北門跡があり、国府橋を渡るとそこは米谷(まいたに)となる。国府橋手前西側の石段を降り大堀側に沿って西にいわし坂がある。太古の昔に小浜が内海であったことの名残であるという。江戸時代までは国府橋はなくこの坂道が有馬街道だった。また国府橋の先の道路がカーブした所には現在は歴史民俗資料館となっている旧和田家がある。宝塚市指定文化財で18世紀始めに建てられた宝塚市最古の住宅である。
 5時半に自宅を出て6時半から8時頃までの1時間半の小浜宿散策だった。真夏の早朝の比較的快適で興味深い歴史探訪だった。観光バスが入れない狭い生活道路で構成された街並みが、今尚風情ある宿場町の面影と多くの史跡を残している。心安らぐ必見の町である。