明日香亮のつぶやき日記 2006年7月

宮崎出張の翌日の休日を利用して鹿児島に遊んだ。駆け足の観光を終えて思った。この街は、街全体が「幕末のテーマ館」なのではないか。悠久の歴史からみれば、つかの間のひと時である「幕末」という瞬間が、街のいたるところに永久保存されている。日本史の中で、薩摩という名前のこの街の歴史が、その一瞬に光り輝いたことは間違いない。その輝きは、幕末以外の鹿児島の歴史を霞ませてしまったかのようだ。
 鹿児島市の観光誘致にかける熱意は随所に感じられる。そのエネルギーの多くは、光り輝いた幕末の薩摩をアピールすることにかけられているかに見える。そしてそれは、この地を訪れる観光客の多くの期待にかなっているのだろう。
 日本にとって明治維新の偉業は、国際的にも誇れるものだ。「失われた10年」の後のグローバリズムに傾斜しすぎた小泉改革の危うさが目につきだした。日本は今尚彷徨っている。日本と日本人の近代の原点である明治維新に、あらためて目が向けられるのではないか。鹿児島市の幕末に特化した観光施策が奏功しているように思える所以である。
■宮崎から鹿児島へは日豊本線のJR特急「きりしま」で約2時間の旅である。途中、鹿児島県境を越えるとすぐに霧島神宮駅がある。この際だから霧島神宮に参拝することにし途中下車した。神宮をイメージした駅舎を出ると駅前に神宮行の巡回バスが待っていた。年代物のバスの車体が、過疎地のローカルバスの経営の厳しさを物語っていた。車内に押しボタンすら設置されていない。乗客は、声を上げて下車駅を運転手に告げるという懐かしい通信手法を行使することになる。
■バスに揺られること約15分。朱塗りの橋の前のロータリーで下車。橋向うの階段を登り、朱塗りの鳥居をくぐると表参道へと続く。表参道先に社務所があり、その右手の階段先の参道を経てようやく本殿に辿りつく。さすがに官幣大社の堂々たる境内である。最後の参道を進むにつれて、左右対称の美しい朱の社殿の全貌が徐々に広がる。社殿前の樹齢七百年の老杉が参拝者を圧倒する。
■再びバスに乗車し霧島神宮駅に戻る。霧島神宮駅から各駅停車で60分、鹿児島中央駅に降り立った。その名前とともに旅人にはいささか違和感を覚える再開発後の近代的なビルだった。梅雨の明けきらない鹿児島の街は小雨に煙っていた。 
■改札口前の観光案内所で、シティービューという市内観光巡回バスと市電、市バス乗り放題の1日乗車券を購入した。昨秋の長崎観光でも感じたが、歴史のある地方都市の市電の多くは今尚健在である。市民の足としてだけでなく、個人で訪れる観光客にとってもありがたい乗物だ。
■シティービューに乗車し最初のスポットである「磯庭園・仙厳園」に向う。薩摩藩主・島津家の別邸跡である。鹿児島中央駅からシテービューで約30分の北方にある。錦江湾の磯海岸に沿って広がる細長い庭園である。桜島が見事に庭園の借景としてどこからも遠望できる。順路に沿ってしばらく進むと昔ながらの茶店に出会う。名物「両棒餅(ぢゃんぼもち)」の看板に誘われて暖簾をくぐる。甘たれをつけた餅に二本の串を差して食べる。二本差しの侍のことを薩摩では両棒持ちと呼んでいたことから名づけられたと言われている。磯庭園を出ると隣は島津家の歴代当主とその家族を祀っている鶴嶺神社がある。更にその隣にある「尚古集成館」は、島津家伝来の史料を中心に歴代当主の鎧、薩摩切子や薩摩焼などの工芸品、機械類などを収蔵している。島津家第28代当主・島津斉彬よって起こされた集成館事業(日本最初の洋式産業群の総称)を顕彰する記念館でもある。
■シティービューの最終バスに乗車し、次の停留所の石橋記念公園で降りた。江戸時代末期に鹿児島市の中心を流れる甲突川に五つのアーチ型の石橋が架けられ、「甲突川の五石橋」として親しまれていた。平成5年の大洪水で二つの橋が流出し、残された玉江橋、高麗橋、西田橋の三つを、この地に移設保存したものだ。三つのアーチ型石橋は、一つ一つが長崎の眼鏡橋以上の規模で、なかなか迫力があった。このほか、この公園には、幕末の薩摩藩と英国艦隊との砲撃戦の跡が記念碑として残されている。薩英戦争記念碑と祗園之洲砲台跡の記念碑である。司馬遼太郎の幕末の歴史小説に登場する舞台を思いおこし、感慨ひとしおである。 
■石橋記念公園を後にして、市電の走る電車通りまで歩く。「桜橋桟橋通り」の電停で初めて市電に乗車。市内最大の繁華街・天文館に向う。繁華街の名前にしては一風変わった「天文館」は江戸時代この界隈に天文観測や暦を研究する「明時館(別名「天文館」)があったことに由来している。「天文館通り」の明るくて広々とした商店街を進む。
■いよいよ夕食である。事前にNET検索していた薩摩の郷土料理の店「さつま路」の白壁づくりの建物の格子戸を開ける。お目当ての郷土料理「大久保膳」(3,150円)をオーダー。西郷隆盛、大久保利通という薩摩の生んだ二人の英傑は、その日本人好みのキャラクターの西郷の前では、陰険さのただよう大久保はいつも分が悪い。さつま路のお品書きでもワンランク上の「西郷膳」がある。
 食前酒、小鉢とともに最初に登場したのは「黒豚の角煮と桜島大根の煮付け」だった。角煮の柔らかさ以上に感嘆したのは大根の方だ。これほど味のしみ込んだ煮付けは初めてと言っていい抜群のおいしさだった。ネットのクーポン画面でプリントしたビールサービスが到着。名物きびなご(生臭さが残りイマイチ)、鰹のたたき、さつま揚げと続く。更に黒豚唐揚げ、粟ごはん、具だくさんの薩摩汁、漬物三種が出され、最後にむらさき芋のムースのデザートで完了。特筆は粟ごはんで、粟の粘りのある食感に不思議なおいしさを味わった。市電に乗り込みホテルのある鹿児島中央駅で下車。
■ネット予約していたホテル・東急インは鹿児島中央駅から徒歩数分の便利な立地だった。例によって早朝に目覚め、朝飯前のホテル周辺の史跡めぐりに出かける。ホテル横を流れる甲突側に架かる橋を渡った所に「大久保利通像」があった。椰子の木に囲まれた小さな公園に建つ洋装の大久保像だ。川沿いに緑地公園が続きその遊歩道を南に下ると「大久保利通生い立ちの地」の記念碑があった。更に、「維新ふるさと館」を間に挟んだ向こう側の小公園の中に「西郷隆盛生誕の地」の記念碑があり、この界隈のこうした記念碑の多さに驚く。維新ふるさと館玄関向いの辻に「幕末・維新の偉人を生んだ加冶屋町」という掲示板があった。これによればこの界隈が薩摩藩独特の武士の子弟の教育制度の学区に相当する「郷中」の内の下加冶屋郷中だったということだ。
■強くなった雨脚に、早朝散策を断念を余儀なくさせられた。ホテルに帰り、朝食を採る。和洋を取り揃えたビュッフェスタイルである。早朝の散策を補って余りある豪華な朝食に舌鼓する。
■ホテルを出発し9時発の定期観光バスの発着地である鹿児島中央駅前のバスターミナルに向う。鹿児島市交通局が運営する所要時間約3時間30分、2,200円の「桜島自然遊覧コース」に乗車した。梅雨時の平日とあって、乗客はわずか3人である。大赤字を背負ったガイド付の観光バスは小雨の中を出発した。
■ナポリ通り、パース通り等の姉妹都市にちなんで名づけられた大通りを走りぬけ、数分で桜島桟橋に到着。ここから対岸の桜島まではフェリーで十数分の近さである。フェリーに乗込んだバスから下車し、フェリーデッキからの景色を楽しむ。対岸からのフェリーが近づく。昼間は10分に一本の間隔で24時間就航ある。1回の運賃150円、学生の1ヶ月の定期代1,350円という「市民の足料金」が維持されている。接岸前にバスに乗車し、桜島港に到着。ここからの乗客もなく、乗員乗客5名のバスは、いよいよ桜島周遊に向う。
■桜島特有の火山灰よけの屋根付の墓石群を車窓から眺めたりしながら、最初の下車観光地に到着。標高373mの湯之平展望所である。展望所の掲示板には、日本の代表的活火山である桜島の噴火の歴史が記されている。雲に覆われた北岳、中岳、南岳の頂きが間近に迫った展望台だった。
 海岸線に向う車中からは噴火の土石流を堰き止めるために二重、三重に築かれた砂防ダムが遠望できる。海岸線をしばらく走ると天然記念物「藤野のあこう群」がある。台風災害の多い南九州に自生する亜熱帯植物で石垣の隙間を縫うようにタコの足のような根が張り出し土塁を支えている。水の流れることのない桜島の、瓦礫に覆われた川床が火山の島の風景を描いている。周回道路沿いの中学校の校庭横にバスが停車した。黒神埋没鳥居が通路を跨ぐように異様な姿を見せた。大正3年の大噴火の膨大な火山灰がここにあった3mの鳥居の上部1mを残して埋め尽くしたのだ。
 最後の下車観光は有村溶岩展望所だ。噴火で流れ出した溶岩群の中に設けられた展望所である。溶岩面に桜島ゆかりの人物達の碑文が記されている。筑前福岡藩脱藩の幕末の志士・平野國臣の西郷隆盛との会談後に詠んだ歌が印象的だった。「わが胸の燃ゆる思ひにくらぶれば煙はうすし桜島山」。身近に活火山の生々しさを実感した3時間ほどの周遊を終えて、桜島を後にした。
■定期観光バスを天文館通りで下車し、昼食を採ることにした。ネットのグルメ情報を見てぜひ味わってみたいと思っていた奄美大島郷土料理の「地鶏の鶏飯」だ。天文館通りのアーケード沿いにある「味の四季」という店を訪ねた。湯気のあがるおでん鍋の前のカウンターに席をとり鶏飯(1,050円)を注文する。照り焼きにした地鶏スライスを中心に錦糸玉子やしいたけ、紅しょうが、ネギなどの具材をご飯に載せ、鶏ガラで採った濃厚なスープをたっぷりかけてお茶漬けのように食べた。なんともいえない不思議な味だった。
■最後のそしてメインの市内歴史探訪に出かける。天文館通りを北に向い大通りに出ると正面に照国神社の石造りの大鳥居がある。その先に本殿があり本殿右手の門をくぐると広場の奥に、照国神社の祭神である「島津斉彬銅像」が高い台座の上で見上げる形で設置されている。
■大鳥居前の中央公園手前の大通りを左に進むとすぐに木立に囲まれた小さな公園があり、軍服姿の威風堂々たる「西郷隆盛銅像」が建っている。道路を挟んだ向かい側にはちょとした石舞台があり記念写真撮影場所が用意されている。今なお衰えぬ西郷さんの人気の程が窺える。記念撮影スポットと同じ敷地の県文化センター玄関横に「小松帯刀銅像」もある。幕末の薩摩藩家老で西郷、大久保をサポートした功労者である。
■照国神社前から鶴丸城跡にかけての磯街道沿いに石畳の遊歩道が続いている。西郷隆盛像前からこの「歴史と文化の道」と呼ばれ道左に蓮の葉っぱに埋まったお堀を眺めながら進む。「史跡・鶴丸城跡」の石碑があり御桜門後にかかる橋がある。
■お堀が途切れた所を左に折れて進むと「薩摩義士碑」がある。江戸時代に幕府の命で木曽川の治水事業に携わり、命を落とした80余命の供養塔である。
■義士碑の横の坂道を進み、JR鹿児島本線を跨ぐ架橋を渡って左に折れる。しばらく進むと、西郷隆盛の座右の銘「敬天愛人の碑」という案内版があった。JRの線路を除くとトンネル入口の看板のような位置に石碑が付けられていた。線路沿いの坂道を更に進んで突き当たりのS字カーブを抜けたところに「西郷洞窟」があった。西南戦争で政府軍の総攻撃の前に薩摩軍がたてこもった洞窟である。西郷が自刃するまでの最後の5日間を過ごしたといわれている。
■洞窟から来た道を戻り、JRの架橋を曲がらず真っ直ぐ進む。しばらくすると左手に「西郷隆盛終焉の地」の記念碑があった。記念碑の前のJRの踏切を渡りそのまま南に下り磯街道まで出て右に折れる。九州循環器病センターの広い敷地を囲む石垣塀が続いている。塀のあちこちに丸い穴が見える。西南戦争の激戦を物語る弾丸の跡だ。塀が途切れ、小さな門があり傍に「史跡・私学校跡」の石碑がある。征韓論争に敗れ官職を辞して帰郷した西郷隆盛が西郷を慕う若者たちに押され設立した学校の跡である。義士碑のある通りを右折して「黎明館」に向う。鹿児島の古代から現代に至る文化遺産をジオラマ等を駆使して紹介した展示館(入場300円)である。駆け足で見学した。
■磯街道に戻り、西郷像前から中央公園を抜け、千石馬場通りを西に進むと右にザビエル教会、左にザビエル公園がありその前に「ザビエル帯鹿記念碑」がある。ザビエルの鹿児島上陸400年を記念して作られた記念碑である。
■そこから10数分歩いて、最後の見学地の「維新ふるさと館」(入場300円)に入館した。単なる展示だけでなく郷中教育をCGやITを駆使して体験できるコーナーもあり体感型の歴史館である。呼び物は維新体感ホールで上演される約25分間の「維新への道」というドラマ仕立ての歴史紹介である。維新の英傑たちのロボットが、音と光などを駆使した多彩な演出で維新にいたる物語を演じている。
■ふるさと館を後にして徒歩数分の鹿児島中央駅に向う。駅前の「若き薩摩の群像」をあらためて眺めた。維新直前に薩摩藩が密かに派遣した17名の英国留学生たちの像である。
■中央駅の向かい側に高速バスセンターがる。鹿児島空港までは空港バスで約40分の道のりである。1日半の密度の濃い鹿児島ツアーが終わった。