明日香亮のつぶやき日記

1998年7月
7月17日(金) ナヌッ・・・あの車谷が直木賞!!
今月も日記のネタに巡り合えないままアッという間に月半ば過ぎ。JRの通勤車中の日経新聞。思いもかけず飛び込む日記ネタ!。
『・・・直木賞は車谷長吉(くるまたに・ちょうきつ)氏(53)の「赤目四十八瀧心中未遂」(文芸春秋刊)に決まった。・・・』
ナヌッ・・・あの車谷(しゃたに)が直木賞!!
『・・・車谷氏は兵庫県生まれ。・・・』
その通り、彼は小生と同じ姫路市は飾磨区出身なのだ。何を隠そう、小学、中学、高校と同じ学校に通った御学友なのだ! 家にだって遊びに行ったこともあるんだから・・・。もっとも高校卒業後は全くの音信不通。ついこの間まで彼が作家であることすら知らなかったんだから、偉そうなことは言えた義理ではない。
『・・・慶応大学卒。広告代理店勤務などを経て作家に。93年「鹽壷の匙」で三島由紀夫賞などを受賞。・・・』
「車谷が三島由紀夫賞をとって単行本を出しているんやけど知っとったか?」 「その作品集の中にどうもお前がモデルらしい描写のある作品があったけど、読んでみたら?」 1年ほど前、高校時代の友人G君からこんな電話をもらった。
早速その単行本『鹽壷の匙(しおつぼのさじ)』を購入した。(鹽の検索は大変だった。部首索引もダメ。手書き認識検索もダメ。総画数検索でなんとか検索。車谷君!ハタ迷惑なタイトルはやめてくれ。) 表紙の帯には「第6回 三島由紀夫賞受賞・芸術選奨文部大臣新人賞受賞」の文字が輝いている。
早速、自分の描写とおぼしき個所を探してみる。アッタ! 作品集のうちの「吃りの父が歌った軍歌」の中の一部である。
「・・・三年前、私も藩黌以来の県立高校の入学試験に失敗し、二次募集をしても定員に満たない市立高校へ半強制的に振り分け入学させられた・・・(中略)・・・私の通い始めたのは、人の口の端に「土亀とパン助の収容所」と侮られている学校だった。・・・(中略)・・・私と同じ憂き目を見た生徒が二十人程いて、連中の顔に滲み出た卑屈さは、そっくりそのまま私のものであった。それが私には我慢がならなかった。『生島、俺な、この学校へ来たこと好かったと思とんや・・・、な、な、お前も自分のこと土亀でええ思うやろ、思う言うて呉れ』 演劇部の主役、三宅はこう言って私に同意を求めるのだった。自分で自分を受止められない腑抜けが洩らす切ない泣き言だった。私は、『嘘つけ』と言い放って、横を向いていた。三宅は私を憎み、私から離れて行った。どいつもこいつも三宅と同じ腐れ掛けた自己欺瞞を口にして、肩を寄せ合っていた。・・・」 (新潮社版「鹽壷の匙」170〜171頁)
G君は、文中の「演劇部の主役、三宅」とは、小生ではないかという。確かに小生は、高校時代、演劇部なんぞという軟派な部活で過ごした。3年の文化祭では、フランス喜劇「モリエール作・スカパンのわるだくみ」で主役スカパンを演じもした。当時の住所が「姫路市飾磨区三宅」だったことも車谷なら良く知っていたはず。となれば「演劇部の主役、三宅」はヤッパリ自分のことか?それにしてはヒドイ登場のしかたではないか。腑抜けのチャンピオンみたいなものだ。マッいいか。私小説の世界で自分の心象を描く時、対象となる素材の記号は何でもよかったのだろう。たまたま思いついた記号が「演劇部の主役、三宅」だったということか。などと変な納得のしかたをすることにした。
読売新聞の受賞者紹介。「車谷長吉さん 本名・車谷嘉彦(しゃたに・よしひこ)。兵庫県生まれ。慶応大文学部卒。広告代理店などに勤務後、八年余り料理人として各地を転々とした。(へ〜ッ。知らんかったな〜。ヤッパ苦労したんだ。) 著書に「鹽壷の匙」(三島由紀夫賞)、「漂流物」(平林たい子賞)など。夫人は詩人の高橋順子さん。(かっこいい!作家夫婦なんだ。)
彼の受賞のニュースは、間違いなく嬉しい出来事だったし、級友であったことを誇らしく思う。とはいえ、おそらくこれからも『直木賞作家・車谷長吉』氏に会うこともないだろう。只、ひょっとして会えたとしたら『腑抜けが洩らす切ない泣き言』を言ってやろう。『車谷、俺な、お前と級友だったこと好かったと思とんや・・・、な、な、お前もええ思うやろ、思う言うて呉れ』
7月7日(火) フォルクローレって何だ!
「さくら会」という東京では結構伝統のある(らしい)異業種交流会があったそうな。そのメンバーたちの何人かが単身赴任で大坂にやってきた。大阪での再会はごく自然に阪チョン異業種交流会の結成につながったようだ。メンバー各々の人脈から阪チョン以外の大阪原住民の参加も始まった。小生は昨年3月からこの交流会に参加している。メンバーの中心人物でもあった旧知の元西友労組委員長氏の紹介だった。彼がチケットセゾンのSSコミュニケーションズの大阪支社長として赴任してきたのがキッカケ。(もっとも彼の阪チョンは2年を超えることなく終了した。) 顔ぶれは多士済々。ホテルニューオータニ、ダイヤモンド社、住友金属、SSコミュニケーションズ、パナソニック映像、サントリー等々のサラリーマン諸氏。団塊世代前後のオジサンたちである。月1回程度の例会は、歌舞伎俳優を招いての呑み会、牡蠣料理等のグルメコース、サントリーモルツの利き酒(?)の会等々。
(左の写真は、昨年7月の例会の時の元バスケット日本代表だった岡山さんとのスナップ。彼は現在、住友金属の社員で大阪さくら会のメンバーである。)
今年7月の例会は、「心斎橋倶楽部」なるビアレストランでの「ペルーの男性歌手の歌と歓談の夕べ」。名幹事の独自のルートでテーブルはステージ真後ろの一等席。ペルー人のエンタテナーによる南米民謡「フォルクローレ」のステージが始まった。フォルクローレのポピュラーソング「コンドルが飛んでいく」は確かに聞き覚えのあるメロディーだった。ギターやペルーの民族楽器を交えての酔客相手の約40分もの熱唱。終了後、我々のテーブルでの歓談。長い日本での滞在は日本語を彼の第二言語にしているようだ。彼の名は「セサール・ラ・トーレ」。インカの末裔「チキア族」出身とのこと。フジモリ大統領の評判に話題が及んだ。日本人の一般的なフジモリびいきを知らないはずはない。にもかかわらず大統領の良い点・悪い点をキチンと彼なりの意見として述べていたのが印象的だった。
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