明日香亮のつぶやき日記

2000年9月

9月20日(水) さくら会9月例会「尼崎に嵐を呼ぶサラリーマン」
■ 9月11日、例によって岡さんからの「大阪さくら会」9月例会の案内メール。
テーマ:<食文化研究(魚編)>
日程   9月20日(水)18時半〜21時 
会場   尼崎市:住友精密工業(株)内 <料亭 かんざき>
さくら会の原点(?)に戻って「うまい肴と美酒を囲んでの食文化フリートークバトル」とのこと。別名「大阪酒だ会」の本領か?というわけで次のような興味深いメーッセージが添付されている。
@ 宮川さん提供による明石昼市であがった魚をたべましょう。
A 食文化研究家 山下氏(料亭かんざき支配人)を囲んでおおいに語りましょう。
B メンバーの近況報告をお願いします。
■ 18:15、JR尼崎駅改札口に集合し、集まったメンバー7人(川島さん、竹内さん、森さん、市川さん、高橋さん、矢野さん、日高)とタクシー2台に分乗し、会場の住友精密工業に。工場入口の守衛所で名前の入場登録。工場内の従業員クラブのような建物内に「料亭かんざき」があった。2階宴会場には既に宮川さん、井上さん、生原さん、三浦さん、神崎さんがビールグラス片手に待ち構えている。総勢12名の大宴会の始まり。
■ 乾杯の後、本番突入。テーブルに並べられた魚介類、野菜(ナント、松茸も・・・)を、個人用鍋で各自お好みのタレで戴くという趣向。もちろん宮川さん持参の明石昼市のハマチや鯛のお刺身もどっさり。ほどなく目玉商品の発表。宮川さん提供の南氷洋の極上の鯨肉1kg!!チルドのお刺身状態(ルイベ)で豪華に登場。 さて美酒はといえば、これまた新潟の銘酒「越乃寒梅」「雪中梅」が支配人の手配で並べられる。
■ 井上さんから「料亭かんざき」支配人の山下孝夫さんが紹介される。住友精密工業から子会社「住精サービス」に出向中とのこと。住精サービスの取締役にして「かんざき」の支配人でもある。彼のプロフィールはひとくちでは到底言い尽くせない。手元に当日頂いた「週間東洋経済」(1999.10.9号)の彼の取材記事のコピーがある。
京大経済学部卒業後、住友精密で27年間を過ごしたエリート社員の自由奔放なサラリーマン人生が語られている。「会社人間である前に人生をおおいに楽しめ」をモットーに部下を巻き込んでの能狂言、歌舞伎、浪曲、義太夫の芸特訓。部内新人忘年会歌舞伎の上演等々。やり過ぎて43歳の厄年には窓際族の仲間入り。それを逆手に以降は「面白なんでもプロデューサー」を自称し、社外イベントに汗を流す。「熊野古道ピア」で人形浄瑠璃公演のプロデュースや「井原西鶴の世界史的評価」をテーマに近畿大学や大阪教育大学での講演。義太夫、能、河内音頭、浪曲、常盤津の師匠のついての挑戦。昨年6月に「住精サービス」に出向。「かんざき支配人」の肩書をフル活用して食通武装でメニューの大改革。「大阪にわか」の継承者・露の五郎一門を招いての「宴会寄席」の開催。尼崎市民まつりでは「海路の熊野・尼崎パレード」と称する仮装行列で参加。と書き尽くせないほどのエピソードが綴られている。
サラリーマンの可能性の大きさと深さをつくづく思い知らされる人物である。宴席の盛り上がりの中で、支配人の得意の義太夫が披露され、やんやの喝采。取材記事は、こう結ばれている。「出過ぎたクイはもう打てぬ」を持論に社内外の人脈フル活用でこの10年余を走り続け、今”尼崎に嵐を呼ぶ男”は大忙しである。」
■ 支配人の迫力に圧倒された後、初参加の高橋さん、矢野さんを皮切りにメンバーの近況報告である。不況下での会社人間たちの職場環境の厳しさ、老後を見据えた泥縄の夫婦愛、親たちの介護問題等々・・・が、こもごもに語られる。50歳の元気印そのものの支配人に比べなんとも意気上がらない50代中心のメンバーたちの近況ではある。
とはいえ、こうした交換をとおして、様々な人生に触発され、あらためて自分自身を見詰め直し、明日に向って再挑戦の気概を貯える機会になっているのかもしれない。「さくら会の原点に戻る」との主催者の意図はじゅうぶん達成された9月例会だったtのではないか。午後9時30分、予定より30分オーバーの閉会。メンバーたちの千鳥足がJR尼崎駅に向う。
9月17日(日) 思い出の店が退店する
■ JR福知山駅前の大型店「ファミリー」の核テナントだった福知山店が退店する。9月24日を最終営業日として28年間の幕を閉じ、1階の食品売場は長年のライバル店舗であった「さとう」に跡を引継いでもらうことになったようだ。「ファミリー対さとう」の30年戦争は、こうして劇的な形で幕が引かれることになった。
■ ファミリーとの退店協議をM専務とともに1年半にわたって担当した。閉店1週間前の今日、専務に同行し、最後の挨拶にファミリーを訪問した。
■ 私にとっても1989年8月から3年半を店長として勤務した思い出深い店である。2年前には店長時代の親しかった知人の葬儀に参列し涙した。
■ 今振返れば私の店長時代の1991年度が売上げのピークだった。その後、スーパーマーケットを中心に競合が相次ぎ、毎年二桁近い売上げ減が続いた。そして3年前に郊外にファミリーの何倍もの規模でJ社の大型SCが開店した。この開店が既に赤字体質化していた福知山店の息の根を止める結果となった。経費削減策では到底追いつかない赤字幅の拡大は誰の目にも明らかだった。
■ 退店協議は難航したもののなんとか合意に達した。一週間後にはファミリーの看板から当社の名前が消える。閉店売り尽しは、連日大盛況である。28年間のこの地域での営業努力に対するお客様からの最後のエールなのか。
■ 「閉店売りつくし」の店内を巡回。店長時代の顔ぶれだった女子社員やパートさんの何人かに声をかける。そのほとんどが地元採用者である。1店だけ飛び離れた遠隔地店舗の退店に伴い、彼女たちは退職する他はない。「さとう」への再就職の道も可能だったようだが「今更、ライバル店に行く気はない」というのが多くの気持だという。その気持のありがたさの反面、厳しい雇用環境での彼女たちの再就職のけわしさを思えば、何ともいえない切なさがこみあげる。
■ 約30年前、福知山駅前に新たな大型商業施設である「さとう福知山店」と「ファミリー」が開店した。そのことが、福知山城の直下にあった歴史のある名門商店街である「新町商店街」の隆盛を奪った。
3年前、市の郊外に大規模な駐車場を備えた大型ショッピングセンターが開店した。そのことが、駅前の地域一番の大型商業施設の存続を危うくさせている。とはいえ、郊外の大型ショッピングセンターまで足を運べない旧市街地のお年寄りたちの駅前商業施設への期待の声も聞こえる。行政は、中心市街地活性化法の活用であらためて駅前商業施設の梃入れに乗り出しはじめた。
■ 商業立地の変遷、ライバル店との競合の結末、個人的な思い入れの幕引き・・・。様々のドラマの終焉が訪れた。
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