| 性 別 | 男性 |
| 出 身 地 | 東京都杉並区に生をうけるが以後愛知県名古屋市、兵庫県西宮市,
東京都目黒区と移り、現在は千葉県在住 |
| ● 私のDecade ● 創作活動をはじめて10年以上が過ぎていった。 その10年の創作活動の一部を振り返ってみようと思う。 ■イラストから始まる
大学時代は造形・絵画とも美術科の先生に評価して頂いていたが、芸術系は生きる手段にはならないと割り切っていた。 ![]() 社会人になり、ふと思い立って、それまでには全く描いた事のなかったタイプのイラストを描いたのが1993年10月。バブルの狂乱の残り火がまだあった 当時、パソコン通信の世界ではアニメチックだっ たりオタッキーだったりのマニア受けするイラストは多かったが、こころ安らぐイラストにはなかなかお目にかかれなかった。その中にあって、“子供時代の淡い想い出をどこか重ねられるようなやさしい色調とタッチ”を意識した私のイラストは新鮮に受け止められ、 性別を問わず、非マニア層に多くの支持を頂いた。いくつかの書籍やCD−ROMに 収録され、インターネットを発表の場に切り替えると、Yahoo! Internet Guideなどの一般性の高いサイト紹介雑誌にも写真入りで紹介もされた。その後、いわゆる『癒しブーム』がやってきた。ブームの先駆けであったといえる かもしれない。 性別を超えた普遍性をイラストに表したかったが、女性的なイラスト故に女性だと勘違いされる事も多かった。ゆえにプロフィールには男性を明示する事にし た。 イラストとは異なる試みである音楽も取り入
れた作品を制作したり、タッチを変えた作品を制作する中、筋ジストロフィーであ
りながら限られた生を懸命に生きた
轟木敏秀氏に イラストの制
作を依頼されたのは
1つの大きな出来事であった。誰もが限られた生を生きている。だが、難病デュ
シェンヌ型筋ジストロ
フィーに犯され、筋肉の萎縮に伴い体の自由を失い、やがて死にゆく運命を、自分ならどう受け入れるだろうか……。自分の生を問い直すきっかけになったと
思っている。■インターネットとは なんだろうか
活動を通じてインターネットの可能性を認識する一方、文字主体のコミュニケーションや匿名性にまつわるさまざまな問題を感じた。当時インターネットの認知
度がま
だ低い中、とまどうであろう初心者のために、自分なりの視点で問題を伝えるためのサイト『インターネット べからず集』を立ち上げたところ、初心者のみならず小
〜大学〜生涯教育機関等、きわめて広範に支持を頂くサイトとなり、さまざまな書籍や雑誌、サイトに紹介されるようになった。今でこそ初心者啓蒙サイトも増え、内容も少々古くなってきたが、未だ多くの支持を受け続けているため、今しばらくはその役を負わせたいと考えている。 ■文章表現への挑戦か ら舞台へ 私は絵画や造形などの美術表現、音楽表現を得意として来た一方、子供の頃から文章表現が苦手だった。自分は文才がないと自覚していたし、小説の伏線を考 えるなんておよそできない事だと思っていた。しかし、論理にも感 覚にも訴えうるストーリーをまとめていく事はいつか挑戦せねばならない事だと考えていた。 ある時、ひょんなことからお話作りが実現した。ある人とやりとりする中で、キャラクターができ、その背景設定をお遊びで考えていくうちにストーリーがま とまっていった。文章に起こしていくと、意外にも伏線を張り巡らせる作業が自分でもできるものだと気づく。そうして2つの実験的な『大人のための童話』が できていった。 読んでもらうと、面白いほど読み手によって感じ方が違う。表面のストーリーしか読み取らない人もいれば、キャラクターに込めた複雑な感情の機微を読み解く人もいる。苦労の多かった人ほど、読み取りが深く、キャラクターへの感情移入も強い。読み手の人生が反映する読み方ができるという点で、『大人のための童話』は成功したと言えるのかもしれな い。 後にこの童話はやがて舞台脚本を書く足がかりとなる。 あるイベントの打ち上げで、さまざまなイベントを手がけるある方から、「脚本を書かないか」と声をかけられた。当時
私は地域活動の中でメーリングリストを通じ
てさまざまなやりとりを行っ
ていた。そこで私は、意図的に読み手によって浅くも深くも読み取れる文章をよく書いていたのだが、その意図をみごとに読み取っていたのがこの方である。氏
曰く、そうした文章をかけるなら、オペラなどの舞台脚本も充分書けるはずだという。 そんなことから執筆に多少自信を持ち、別な方からの作品の評価もあった事から後に、簡単ながら170人もの出演者がある大きな舞台の脚本を書く機会を頂 いた。作品として成功に終 わり、その後はミュージカル脚本をリライトする作業を行ってい る。今後はより本格的にミュージカル脚本を書く事もあろうと考えている。 ■地域の活動へ ここ6年はほぼインターネット上の創作活動を休止し、ある特殊性のある街へ移住し現実世界で活動の幅を広げてきた。
ここでさまざまな分野の優秀な先輩た
ちと
出会い、住民運動的な活動に参加することで地域コミュニティの創出という大きな課題に取り組んできた。中でも、設計段階から行政・住民・建築家が共に力を
寄せ合った全
国でも珍しいコミュニティ施設立ち上げのとりくみは『近代建築』『新建築』『日経
アーキテクチャー』など建築雑誌だけでなく、朝日新聞の
首都圏版および全
国版に掲載され、私も実名および肩書きで載せて頂いた。また、我々の活動は土屋文化
振興財団の助成金の対象にして頂いた。更に、同施設は住民参加という成り立ちも評価されていくつかの建築賞を受賞している。 1つの大きな事業が成り、もうひとつのコミュニティを創出する仕掛けのため
に、皆が奔走した。詳細は省くが、異例づくめのこの音楽ホールを含む施設において、
行政が予算をほとんどつけられなかったのが、ホールの顔ともいうべきコンサートピアノである。この重要なものを住民自身の手で導入すべく運動を展開した。
行政に働きかけ、沢山のピアノを比較検討してデータを集め、募金
やチャリティコンサートを行いお金を集めた。さまざまな方々を巻き込み導入がかなったのは、現在国内に三台しかない貴重な世界的名器である。日本において
は公共ホールには普通無難なスタインウェイかヤマハしか入らない。住民が先頭に立ったからこそ世
界的視野の元、他にはない、街の特性を象徴する優秀なピアノを導入できたと言える。
当初のねらい通り権威主義的価値観に風穴を開け、住民の文化活動のシンボル的な存在となり、子供からプロまで多くの方に活用頂いている。選定には、専門的な知識を持つという事もあり、私は中
心的に関わらせて頂いた。大いに誇りとしたい。現在も管理面で関わり続けている。 やがてこれまで作り上げたものを生かす立場となった。自分自身で育
ててきた感性・能力・技術を生かし、いくつもの地域イベントに関わってきた。イラスト・デザイン系の能力は、イベント・コンサートポスターや公共性の高い
サイトの作成で生かせている。これまでは全く縁遠い国内外さまざまなプロ演奏家のコンサートにもスタッフとして関わる事が できた。名だたる演奏家と接する機会をもてたのはまさに光栄 であった。 優秀なスタッフが集まる地域最大のアマチュア音楽イベントでは、舞台監督・音響担当として参加させていただいた。大
成功のこのイベントのシリーズ化に伴
い脚本、コ
ンピュータアニメーション、動画編集などで自らの作品としての舞台をつくり、さらに自分の可能性を試す機会を頂いている。ここでは諸先輩方
に可愛がって頂けるのが本当にありがたい。(この他にも、さまざまな活動を行ってきた10年だった。ある種の感覚を記述する困難にあえて挑戦し、他にはない情報を公開するサイトの運営を行っていた 事もある。また、詐欺の告発的な活動ではさすがに身の危険を感じた事もあった。) 意外なものが別なものと結びつき大きく花を開く。「今は己を磨く時期」とひたすら耐える事の多かった子供時代、その
時培った多くのものが、ここ6年
に思わぬ形で実を結び、すばらしく充実した時期を送る事ができた。■10年を超えて 社会人となった自分の、創作的活動の第一歩は、このHPの中にあった。 今となっては稚拙なイラスト群をどう扱うか、少々悩んだ。HPを閉じてしまうことも考えたが、そんな中、故 轟木敏秀氏の主治医であった南九州病院 院長 福 永秀敏先生より、随筆集出版のお知 らせを頂いた((株)日総研出版より刊行 『病む人に学ぶ』ISBN4-89014-966-X)。福永先生は轟木敏秀氏のことを書くにあたり、私のイラストの掲載許可を打診してこられたのだ。勿論喜んで 許可 させて頂いた。それと同時 に、サイト継続の責任を感じた。 活動の場を変え、ほとんど更新もしなくなったこのHP内のイラスト群は大幅に整理した。初期のイラストの一部と、『リアルイラストレーション』群、舞台 脚本を書く下地と なった『大人のための童話』2作。これらを記念碑として残しておく事にした。新たな10年の間、更新機会はほとんどないかと思うが、たまに訪れる方のお目 汚 しにで もなればと思っている。 2004.8.15
YUH ※ 本ページ掲載の画像のうち、4番目と9番目は私が参加したイベントで大手広告会社 電通のアートディレクターがボランティアで制作した作品、他のものは私自身が制作した作品の一部とサイトのスクリーンショットの縮小版です。 |
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