善をなさんとして害をなすのか?

ソマリアにおける国際的援助活動

アレックス・ド・ワール、ラキヤ・オマール筆  

 ソマリアは援助機関の夢がかなったところだ。彼らは政府になった。何をするのも全く自由だ。責任も機構もなく、協力者はいなくて論議すべき相手もいない。ソマリア人たちは無力だ。我々は全く影響力を持たない。我々は、ほとんどが恐ろしく若い外国人たちのやりたい放題に耐えなくてはならない。彼らは、ソマリア人の無力さを見て自分たちが必要欠くべからざる存在だと感じている。これが彼らが常に望んできた状況だと思わずにはいられない。

 これは、モガディシオで働くソマリア人の医者であるアブディラティフ・ユニスが語った言葉だ。彼は数千のソマリア人専門家の一人であり、彼らの存在はソマリアの事実上の政府である援助機関、米軍主導の多国籍軍そして国連から無視されている。
 ソマリアにおける中央政府の不在は、アメリカやヨーロッパの援助活動家たちが第三世界の国々で手に入れるにいたった尋常ではない力を浮き彫りにした。彼らが戦争で荒廃したモザンビークで果たした役割はすでに、一部での議論の対象となっていた。しかし、現代史上にもまれなことに、ソマリアでは一国の運命まるごとがほとんど援助団体の手の内にあるかのように見える。実際、ほんの一部のアメリカの団体からの圧力が、アフリカで最大の米軍部隊配置を意味する「希望回復作戦」を引き出すのに決定的な役割を果たした。
 米軍といくつかのアメリカの援助団体、特にCAREとロサンゼルスを本拠とする国際医療部隊の緊密な関係は、ソマリア人や関心を持って見守る外国人たちに危惧を抱かせている。モハメッド・シアド・バーレがソマリアをめちゃくちゃにした20年間、援助団体は政治に「干渉」することはできないと言って沈黙を続けた。そして今、ソマリア人に何の相談もなく彼らは外国からの侵略を促しそして歓迎している。多くのソマリア人は、アメリカの援助団体は「人道的国際主義」の代表者なのか、米軍の先遣隊なのかと問いかけている。
 援助機関は厳しい調査を受けなくてはならない。アメリカでは民間奉仕機関(PVOs)と呼ばれ、ヨーロッパでは非政府機関(NGO)と呼ばれていることが、これらの団体の秘められたそして現在も拡大しつつある力を覆い隠している。1992年、彼らを通して、世界銀行からよりも多くの援助が第三世界に対して行なわれた。彼らは50万トンもの食料援助を扱い、カンボジアからアンゴラまで貧しい国々の政治に大きな影響を及ぼした。彼らは際だった公共のイメージを持っている。彼らの宣伝は、彼らを助けのない犠牲者たちを救いにやってきた慈善の天使であるかのように描いている。そしてそうした宣伝を通じて彼らは、慈善のために普通の市民から何千万ドルかを集め、いくつもの政府から何億ドルかを集めている。

ソマリアの例

 ソマリアが暴力と悲惨な飢饉に陥っていった1991年から1992年にかけ、援助活動家たちはソマリアにおける国際社会の唯一の代表だった。彼らは国家と人々を国際的なメディアがどのように描くのかに大きく関わった。彼らが(直接の近隣国を除いて)世界との関係を決定し、そして彼らが外国からの支援の唯一の水路であった。
 1992年12月のソマリアへの米軍部隊の押しつけは西側の奉仕団体の実体を明らかにした瞬間だったかもしれない。部隊が上陸する前には、団体のいくつかは作戦の熱心な支持者であり、いくつかは反対していた。そして残りはその両極の間のどれかの意見を持っていた。しばしば、経験を積んだ現地スタッフと本部に詰める、政治的圧力に屈しやすく本国において資金を集めるできごとにより敏感になっている幹部スタッフの間には不一致があった。しかし結局のところ、全ての団体が介入に協力した。
 一方、アメリカでは、対外強硬主義すれすれの、普通にはあり得ない支援を批判しない大衆的な雰囲気が創り出されていた。この未知へのジャンプが引き起こす諸問題について真剣に討論することは困難になった。アメリカ政府はこの遥か彼方の国の飢えつつある人々のために「何か」をしようとしていた。この行為の「徳義」は疑ってはならなかった。
 ソマリアでアメリカが行った冒険の弁明者たちは、それが飢饉を克服したと主張するだろう。これは間違っている。部隊がモガディシオから内陸へ押し出されたあの時点で飢饉がほぼ終わりかけていたのは全く明らかだった。軍隊の予期していなかった問題の一つは、飢えている民衆が存在しないことにまごついた兵士たちにカウンセリングを行うことであった。国連の危機への対応の遅さを公的な場で批判したことで10月の終わりに国連の特別嘱託を辞任せざるを得なくなるまでに、モハメッド・サーノウンはすでに食料の大量輸入の停止を要請していた。よく雨が降ったので、1月には豊作が予想されていた。飢饉を終わらせたのは雨とソマリアの農民たちの粘り強さであって、外国からの介入ではない。
 しかし、もし飢饉への援助が引き渡されたとしても、この種の作戦はソマリアであれ他のどこであれ飢餓の問題への回答ではない。飢饉救済の成功は全く別のやり方の中にある。インドそしてボツワナのようなごくわずかなアフリカの国々が飢饉を克服できたのは、民主的な責任体制のおかげであった。これらの国では、飢饉は政治的な問題である。飢饉が切迫している時、そのことをジャーナリストが緊急の課題として取り上げ、労働組合員たちそして有権者たち、さらには国会議員、行政機関、政府にとっての切実な関心の対象となる。すなわち飢饉を政治的な問題にすることが克服の秘訣なのだ。
 これは、政治嫌いの国際援助機関の「人道的な」メッセージとは全く反対だ。こうした機関にとって、飢饉は人間への脅威であって政治的なスキャンダルではない。飢饉救済プログラムに着手することは自ら祝福すべきことであって恥ではない。ソマリアでは、国際的な飢饉援助が人々から力を奪っていく巨大なメカニズムとなってしまった、そしてこの国のすでに打ち壊された行政機構を崩壊させてしまった。これは例外ではない。これは飢饉の犠牲者たちを無力で助けを待っていると描き出すことの上に成り立つ国際的な飢饉救済システムそのものの論理的な帰着点である。
 人々の生死に関わる緊急事態に備えたり適切に対応したりすることに関して、国連の諸機関が無能力だと言うことは現在広く知られている。ソマリアでは、国連もほとんどの二国間援助国も存在しなかったために、PVOsが通常の能力を超えた膨大なプログラムを実施せざるを得なかった。ではPVOsが国連の怠慢によって残されたギャップに橋を架けるのが当然だったのだろうか?それともPVOsは警告を発し、国際的な救済システムが行動を起こすように仕向けることに専念すべきだったのだろうか?答えはこうだ。彼らは望まずしても最前線に押し出されてしまったのだから、両方の責任を果たすべきだった。国連があまりにどうしようもなく振る舞ってきたので、彼らは前例がない位に力をふるえる位置にいるのだ。
 PVOsは食糧援助計画に圧倒的な影響力を持ち、一部の小さくて貧しい国々と同じくらいの予算を獲得している。その過程で、巨大なPVOsはかつては特徴としていた独立性を犠牲にした。これに対しオックファム(UK)などいくつかのPVOsは政府からの資金に上限率を設けるなどしているが、独立性の喪失は世界的な傾向である。
 しかし、PVOsがほんとうに効果的なのは、第三世界においてではなく、彼らの本国においてである。彼らはメディアに対して大きな影響力を持っている。もしオックファムやCAREがセイシェルで緊急事態だと言えば、アメリカそしてヨーロッパの全てのジャーナリストにとって、セイシェルは緊急事態なのだ。援助機関がうまく役割を果たしてくれれば、セイシェルは援助を得ることができる。それもPVOsからだけではなく、はるかに重要なことに国連、アメリカそしてヨーロッパ共同体から得ることができる。メディアを使って引き出した援助の額はPVOs全てが供給し得る額をはるかに上回っている。
 とは言っても、PVOsは援助に関する競争相手である国連の巨大な機関や政府の部署に比べると効率的で柔軟だ。ソマリアは国連の諸機関が、意志決定に手間取り扱いづらく、官僚的な内部抗争で麻痺し、おそろしく現場に不向きであることを明らかにした。ソマリアの災害がコントロールできなくなることを防ぎえた、ユニセフや国際保健機構を含む国連の諸機関は、しかし、そうしないことを選んだ。
 一方で、民間奉仕団体は災害救援活動に固有の諸問題を克服することができるのだろうか?それらの団体が持つにいたった、奉仕に関わる倫理や勇気と言ったいくつかの特質は確かに強い印象を与える。国家主権を無視し国際的なルールをも都合よく解釈することがそれらの団体に柔軟性を与えている。また、これらの団体の多く、特に現地の協力者を通じて資金を供給しており、外国人たちが持ち込む高姿勢なプロジェクトには関わらない団体は、現地の人々の主体性を尊重して活動しているという名声にふさわしい。援助団体のうち最善のものは、人間の思いやりの理想を表しており、国際連帯の強力な表現となっている。

イメージをはぎ取る

 だが、こうした肯定的な特質のイメージは世を欺くこともできる。カルカッタのマザーテレサは現代の聖人なのかもしれない、しかし、インドの貧困に関わる広範な問題へ彼女の事業がどう影響しているのかについてはきちんと調べる必要がある。彼女は、インドのスラム街の自助団体からはひどく嫌われている。彼らは、彼女の努力は援助依存症を創り出したと主張している。同様に、国際的な慈善活動によって産み出された強力な神話から上っ面をはぎ取る必要がある。奉仕団体はまず第一に資金を集める分野でプロである。だから彼らは創り出したイメージを維持しようとする。彼らの意図は一見して「善」に基づいているので、例えば企業を見る時にだったら絶対にしないだろうに、我々は彼らが宣伝の中で言っていることを額面通りに受けとめがちである。
 常識の範囲内では、奉仕団体はメディアからの批判も免れている。ソマリアでは、ほかの飢饉地域同様に、世界中のジャーナリストが救援団体のスタッフに迎えられ案内されている。記者たちは援助機関から分析、証言そしてもてなしを得ている。記者たちは援助機関を信頼し、それらの団体が客観的であると想定し、打ち解けて交際する。また、西洋人と話すことは、ヨーロッパの言語をしゃべらないかもしれない、あるいは単純な手に入れやすいわかりやすい話をできないかもしれない現地の人々の見方を探るよりも、楽なのだ。メディアにとって、災害をめぐる話は簡単なプロットでなければならないし、また当然にも救い主が登場しなくてはならない、それも西側世界の人間がそれとわかる救い主が。
 奉仕機関は非効率で無能力にもなりえる。どの援助活動家も何万ドルもを無駄にする初歩的な大失敗の経験を持っている。スタッフへの給与が多すぎたり不正が行われることもあり得る。しかも、援助活動のように、若くて経験もないボランティアたちに名声と影響力を与え、政策決定者たちへ近づくことを可能にする仕事は、この世界にはほとんどない。若いボランティアが専門家並に稼ぎ、加えて特典として(使用人付きで)無償の住宅や四輪駆動車、長期の休暇そして危険手当を与えられる。大学を出たばかりの人間が、はるかに経験があり能力もある地元の協力者たち、彼らはほんのわずかしか給与を受けていない、を指揮して事業を進める。たとえば、アブディは大きな国連の救援機関の中で最上級の地位にいるソマリア人だ。彼は西側の大学の卒業生である。彼は若い外国人と相部屋で、相部屋の相手のレジュメを検討し監督することになっている。彼は若い同僚よりもはるかに現場を経験している。「だが」アブディは説明する。「彼は外国人なのでドルで月に3000ドルを得ていて、プラス25%の危険手当と便宜がある。しかもヨーロッパ人地区に住んでいて、家賃も食料も水も他の娯楽用品もただで使える。私は、ソマリアシリングで250ドル相当を受け取る。そういうことだ。」
 援助団体のスタッフはしばしば現地の協力者と一緒に仕事を進めることができず、ほかのところであればとても耐えられない人種差別とみられる行為がアフリカ中の慈善事業の中で日常的に繰り返されている。米国であれば不法になる平均的雇用条件・処遇の基準が国外の人道団体ではふさわしいものと考えられている。ソマリア人医師シュレイマン・ドゥアレが経験したことは、例外ではない。「私は援助計画の中では二番目の人間だった。ボスはイギリス人で、私が思うに、一番開放的な外国人の一人だった。私たちはジャナールに診療所を開設するために出発した。一緒に出発したのは、ボスと彼のガールフレンドの医者それに二人のヨーロッパ人の看護婦だった。私たちが到着した時、寝室が4部屋ある家がとっておいてあった。彼らは3部屋を寝室にして、最後の部屋を物置にした。私は屋外で、運転手や護衛と一緒に車の下で寝るものだと思われていた。私が文句を言うと、彼らは客室になる部屋が必要だと言い、訪ねてきた外国人が私と一緒の部屋にならないようにと気にしていた。」
 もう一例。モガディシオでもバイドアでも毎朝、保安状況に関するミーティングが開かれている。そこには、救援団体、国連、米軍その他の現在ソマリアにいる多国籍軍の代表が出席する。一月中旬まで、実質的に一人のソマリア人も出席していなかった。ソマリア人は歓迎されないと感じさせられていた。犠牲者あるいは標的とされたのが外国人か外国の機関である襲撃事件だけが報告される。毎週起きている数十人のソマリア人市民の死傷には注意が払われなかった。援助団体の「地元の機関と一緒に働く」ということばにもかかわらず、ソマリア人の奉仕機関に代表を出すように働きかけたのは、援助機関ではなく、困惑したアメリカ大使館だった。
 バイドアのミーティングでは、時折出席する唯一のソマリア人は、ユニセフで働く医者である。しかし、バイドアにいる外国の救援活動家たちは、彼が出席するときには安全に関する注意を討論しないという暗黙の取り決めがあると証言している。あるアイルランド人の看護婦はこのことを、ソマリア人であるということでその医者が危険を象徴しているという一般的な感情がある、というふうに考えている。外国人ボランティアたちは反感のきざしを恩知らずと見、現地のスタッフが信頼できないという新たな証拠と考えたが、地元の活動家たちの憤懣はたやすく想像できる。

責任と過去からの学習

 飢饉のような災害にどう対処するのかについては、非常にたくさんの技術的専門知識がこの100年の間に蓄積されてきた。早くも1880年代のインドで、飢饉における主要な生命への危険は飢えではなく、コレラや天然痘、マラリアといった伝染病であることが確認されている。また、無償の食べ物配給は、食用穀物市場を不景気にしないよう飢饉後最初の収穫の前に打ち切られなくてはならないことも確認されている。ごく最近、難民の中で、他の疫学的、栄養学的、技術的そして輸送上の教訓に加えて微量栄養素欠乏症が問題とされるようになっている。だが、一世紀に渡って積み上げられてきた経験はいつも無駄になっている。いつだって世界は次の災害に備えていないようだ。
 災害救援はいつも不適切であるだけでなく、ほとんどかわりばえなく遅く、そしてしばしば調整のつかないよろよろ歩きだ。地元の人々との十分な相談がないことは腹立たしいだけではなく、誤った方針に導く。最近のソマリアでは、救援計画に責任を持つ人々は、飢饉後の穀物を刈り取っている地域へ食糧を輸入することを主張し続けた。1992年12月、訪問者たちは、農民は主として目の前にある飢餓ではなくどうやってトウモロコシやモロコシの余剰を売るのかに関心を持っていることを伝えている。輸入された無料の食糧と競争できなかったので、多くの農民の作物は腐ってしまった。
 しかし、(援助団体の)本国での宣伝に役に立つので、食糧配給センターは増殖していった。ソマリアの専門家たちは、新参者の多くがソマリア人の悲劇を利用して資金を集め、メディアに登場し自分の重要性をひらけかすことを告発している。いくつかの地区では、食糧配給センター同士が競って注目を浴びようとしている。その中でも、アイリッシュ・ゴールは、「お客さん」を引きつけるためTシャツを無料で配ることまでやっている。
 一方、経験豊かな医者や疫学者たちなら予測できたように、今、生命を脅かしているのは主として伝染性の発疹性疾病、赤痢そしてマラリアであり、それらへ対処は食糧の無償配布が救援活動の中で優先されている中で非常に進み方が遅い。ソマリアでは、飢餓で死ぬ子どもよりもはしかで死ぬ子どもの方が多いのだ。ソマリアの保健専門家たちは保健の問題を後回しにした食糧配給センターの増殖に強い不満を抱いている。はしかは別にしても、結核、マラリアそして精神的な健康が優先事項となっている。
 どんな援助機関であれ間違いを犯す、これは避けられないことだ。国連機関が責任を取らないことが、時期遅れになって国際的な関心を呼んでいる。しかし、奉仕団体もまた、災害の犠牲者へも援助の提供者へも責任を果たしていない。ある意味では、支援を行うにあたって選ぶ分だけそれらは国連より責任が軽いかもしれない。彼らへの指令は、全ての災害の苦しみを助けるべきだとは規定していない。むしろ、もし広く知られたことや政策決定過程の内部で決まったことであれば、援助団体がいるというのは、犠牲者にとって望ましいことかもしれない。そんなふうにして、オックファムやCAREが1991年から1992年初めにかけてソマリアで活動を展開した時、何の社会的なプレッシャーもなかった。そのころ、ユニセフがいないのは問題だという明確な社会的意識があった一方で、どちらの団体も現地には大した数の活動家はいなかった。

症状には対処するが病気の治療はしない

 奉仕団体を分析する出発点は、それらの団体が明らかに望んでいるような、世界の貧困の問題といったところにはない。そうではなくて、先進諸国における慈善の社会学から出発しなくてはならない。富める者、力ある者は常に、貧しき者に援助を与えて、彼らが基本的に変えたくない政治的、経済的システムの最も極端な現れを和らげようとしてきた。物質的な援助は眼鏡に適った貧しい者に流れて行くが、権力はしっかりと援助者の手に留められてきたのだ。援助機関で働く人々は、資金集めを担当する人々も含めて、彼らの「援助対象者」を貶めようなどとは考えていないし、またそんなことをしていると認識することさえないだろう。しかし、宣伝や資金集めのために使われた材料を見ていくと事実として貶めているのだ。
 資金集めでは普通、写真が主役になる。そして最小限のことだけが書き添えられている。写真には、たいてい飢えているか病気に苦しんでいる子ども(ほとんどが黒人)が写されており、その子どもに(いつも白人の)援助活動家が食べ物や薬を配ったり手当をしていたりする。紹介ビデオでは、白人の援助活動家が案内し解説しており、援助を受ける人々はいつもその他大勢の扱いでたいてい名前も紹介されない。これはもちろん真実とはかけ離れている。飢饉犠牲者のほとんどは外国からの援助など受けていない、援助の多くは地元の人々からなされている。意味をこじつけるような写真が、現地の人々の勇気と自発性に対する侮辱に他ならない、なんとはない無力感を蔓延させているのだ。ソマリア人たちの活動と政治的な判断がなければ、国際的な救済活動は失敗してしまっただろう。活動のほとんどを行いそして継続しているのはソマリア人の専門家たちなのだ。あの国のモガディシオであれどこであれ、主要な病院の全てを中心になって運営しているのはソマリア人であり、時には外からの援助の無いままソマリア人だけで運営しているのだ。1991年11月に勃発した全面的な内戦の後、全ての戦傷者はソマリア人医師たちの手で治療を受けた、それも多くは急造の病院で。最悪の戦闘が発生してから10週間あまりもたってやっと最初の外国人による病院が活動を開始した。ソマリア人医師そして看護婦たちは、無給で、赤十字の配給する日に一度の食事だけで、そして家族、友人、家を戦争で失いながら、しかも銃の標的にされやすい中で、出身氏族に関係なく病人たちの治療のために長時間働いたのだ。
 BBCの特派員ジョージ・アラギアは、ソマリアから帰国して、インデペンデント日曜版にどうやって災害の映像を撮ったのかを語った。「救援団体は映像を得るために私たちに頼り、私たちはどこで取材すればいいのかを教えてもらうために彼らが必要なのです。私たちと彼らの間にはある種の取り決めといえる暗黙の共通認識があります。私たちは『どこへ行けば一番飢えに苦しむ赤ん坊を撮れるのか』とあまりあからさまには聞かない、そして彼らもけっしてはっきりとは答えない、というものです。それでも映像は撮れるのです。」
 資金集め競争の中で、人の尊厳を奪うイメージはますます映像的になり「災害ポルノグラフィー」とでもいうべき状態にある。ほとんど知られてはいないが、こうした尊厳を貶められるようなやり方で描かれた人々は強く憤っている。こうした描き方は困惑をもたらし、人々の自発性を損なってしまう。ソマリアの救援活動家たちは、自分自身も飢えで弱っていながらも死にかけた子どもたちを西側のジャーナリストたちの騒々しい押しかけ取材から守ろうとする親たちの努力を語っている。
 飢饉を慈善事業の対象であるような人道上の危機と規定することは、政治的背景に無頓着であるだけなく、奉仕団体が考慮しうる選択の幅をきわめて狭くしている。背景にある権力関係や人権に関わる状況を考えに入れずに、物質的援助に力点を置けば、結果として人々の苦しみを長引かせるだけである。奉仕団体は症状を病気と取り違えている。彼らは病的な政治経済システムではなく飢餓を治療しようとする。多くの援助団体は、人々を力づける努力をする中で、よく言われる次のような言葉に安心を抱いている。「人に魚をあげたら一度の食事にしかならない。魚を捕ることを教えたらずっと食べていける。」現実の世界では、問題は誰が普通の人では得られない漁獲許可の代償にわいろを要求する力を持っているかであり、川岸が地雷で爆破されていないかどうかなのだ。
 民間奉仕団体は、政治問題を避ける理由として、しばしば救援ではなく開発を強調してきた。それ以前にはそうでなかったとしても、1970年代以来、「長い目で見た開発」が多くの救援団体のスローガンだった。開発の成果が目に見えるには長期間かかる。そこで小規模の開発計画が、他のどこででも「繰り返すことのできる」ものとして「先駆的」とか「パイロット・プロジェクト」と描かれる。救援活動はある種の不愉快さを持って受けとめられた。資金集めには好都合だが、通常、災害は、「開発」というより重要な仕事から関心をそらすものと見られてきた。
 ソマリアでは、現在の悲劇の根っ子は、シアード・バーレ大統領支配下での大きな腐敗と暴力にある。1970年代終わりから1980年代にかけてソマリアは一人当たりで言えばアフリカのどの国よりも大きな外国からの援助を受けていた。この時期はまた数万人ものソマリア人が、政府への現実のあるいは想像上の反対者であるということで、殺され投獄され拷問された日々でもある。この政府は積極的に国を荒廃させソマリアを敵だらけの国にする政策を追い求めたのだった。奉仕団体のリーダーたちは事態を告発することは彼らの開発活動を危うくすると主張した。しかし、地雷が耕作を難しくし、家畜が殺され、人々が住んでいる土地から追われ、ビジネスが政治の都合で足枷をはめられる、そんな時期にソマリアの経済的開発などというものが可能だったろうか?教育を受けた人々、経験豊かな人々、若者たちが安全を求めて大量に国外へ出ていく中で、どうやって国を前進させることができただろうか?必要とする人々に援助を行うべきか、人権を守るために政府に申し立てを行うべきかと考えれば、簡単には答えられない道義的なジレンマに陥る。しかし、援助団体はたやすい道を選びがちで、基本的な政治状況が彼らの活動にどのように影響するのかを無視しがちだった。
 例外はほとんどない。ソマリアでは、たった一つの奉仕団体が告発した。オーストラリアの小さな団体である海外共同体援助(CAA)は、1989年の終わりに保健事業を打ち切り国外へ出た。その団体は、政府が国民に対して戦争をしかけている時に経済的開発はあり得ないとして政府の人権無視の政策への痛烈な非難を発表した。CAAのレポートは、ソマリアの破滅的な状況が国際的に知られるのに、決定的な役割を果たした。もしほかの援助団体が同じような行動を起こす準備をしていたら、今日の悲惨さを防げるほどの国際的な非難と関心が生まれていたかもしれない。
 救援団体は、災害から最も「利益」を受けるという教訓を得てきた。1960年代後半から1970年代初めにかけて、オックファムほかのイギリスの進歩的な援助団体は、飢饉が政治的問題であることが明らかな世界で、表面的には政治と関わりなく慈善事業をどのようにして行うのかというジレンマに直面した。彼らは、世界開発運動を設立しややこしい政治的問題についてキャンペーンすることで問題をひょいとかわした。そして彼ら自身は物を送り込む援助に努力を集中した。当然のことながら、そうやって彼らは表面的な政治と切り放した飢饉認識に戻ってしまったのだ。
 一世紀にわたる国際的な飢饉救援の努力がたいてい効果がなかったことに驚くほどのことはない。全ての事業がまちがった動機に、根本的に遥か遠くにいる名もない人々を「救う」ことで良心を満たすことができるという西側社会の政治的な意識に、基づいて運営されているのだ。この結果、数千の援助専門家たちの技術的専門性、運営の経験そして個人的な統合能力そのものがたいして活用されないのである。これは、民間奉仕団体にも国連機関(状況はもっとひどい)にもあてはまる。飢饉救済が国際的な慈善事業にゆだねられているかぎり、飢饉はなくならないのだ。
 今日のソマリアで、明らかに外国の占領軍の翼の下で活動することの意味に無頓着に、救援団体は再びほかの全てのことを除外して緊急の物的援助を強調している。援助活動家たちは彼らの博愛(主義)の帝国主義に呼びかける次の拠点のことを考えているのだろう。次は南スーダン、ザイール、あるいはアンゴラだろうか?

(Current History 1993 Africa)


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