斉藤 龍一郎 近況:2016年

2016年12月26日 月曜日午後3時44分。

明日の朝、退院できる。

今回は、19日に入院し、20日に塞栓術という患部まで挿入したカテーテルを通して投薬を行い患部に栓をするという治療を受けた。

今年2度目の入院だった。

担当した医師によると、前回よりも投薬量が多くなったとのことで、副作用が長引き、土曜まで点滴が続いたため、病棟のベッド周辺に行動半径が制限されていた。

土曜日の午後、点滴なしで入浴できて、やっとからだがゆったりした気分になった。

日曜日の昼食前、お腹の中に溜まっていたものの一部が出てグッと身が軽くなり、昼食を全てたいらげた。

その後、まる一日の間に3回トイレで座り込み、一通り出るものが出たようで、気分もすっきりしている。

病棟内は暖かく、持ち込んだ防寒衣料は場所塞ぎの荷物に終わってしまった。

前回入院時にまとめておいた入院セットのうち、治療室に入る際に使った浴衣、今回は病院が用意した手術着にかわっていた。

浴室内の着替えスペースの扉、外されていた。



2016年12月4日 日曜日午前9時11分。

熊本の親の家で朝を迎えた。外は雨。

お昼の飛行機で東京へ戻る。

4月の大地震の後、初めての熊本は、まだあちこちに地震の跡が残っている。

昨夜、友達と待ち合わせた店が、Googleマップの該当地になかった。あわてて電話をしたら、地震被害があって移転したとのこと。徒歩3分くらいのところへの移転だったが、通りの名前を聞いても見当がつかず、15分ほど近くをグルグル巡りしてしまった。

親の家でも、床の間に飾ってあった写真がおろされているのでよく見たら、床の間にヒビが入っていた。古い蔵の壁も割れ目がめだつ。半壊認定とのこと。

僕が小学生の時、初めてテレビを見た近所の家が更地になっていた。中学生の頃、レコードを聴きに行っていた。7歳違い2歳違いのお姉さんと1歳下の弟分がいて、中学生の時、何度か一緒に英語の教科書を開いた覚えがある。高校生の時、雨の日はおじさん・お姉さんが通勤で使っていた車に乗せてもらっていた。そんなことを思い出した。

地震被害も重なって、親が酪農をやめたあとも使いたいという人がいて利用されていた牛舎が空き家になっていた。

庭先から見える、幼友達の実家の屋根はブルーシートで覆われていた。地震で壊れた車庫跡に新しい家を建てて移り、ブルーシートで覆った家は取り壊すのだそうだ。あの家の2階で、友達のお姉さんと一緒に中学生3人の受験勉強の相手をした時のことを思い出した。



2016年11月15日 火曜日午前7時47分。

パンをもらったので食べている。取り合わせに玉ねぎを焼き、その後で豚バラを焼き、目玉焼きを作って、今、パンを温めている。

先週金曜日、ハローワークの「55歳以上の就労相談」窓口で、これまでの経歴を活かした就職の可能性について話を聞いた。

65歳までの雇用促進の仕組みがあるので、これまで勤めていた人が再雇用されるケースは増えているが、新たに企業に就職するのはほぼ無理、とのこと。

そうなのかもしれないと思ってはいたが、相談担当者がハッキリ言うのを聞いて、ちょっとがっかり。

そうした状況を踏まえて可能な就職、収入確保の手段を考えなければならない。



2016年11月8日 火曜日午前11時58分。

日曜日、障害学会で、僕が呼びかけたことがきっかけとなって補聴器ユーザーの友人が発表した。一昨年書いた修士論文をもとに、特に補聴器ユーザーに独特の体験をもとに感じていること考えていることを発表していた。

彼が訪問したフィリピンの高校では「聴覚障害者への情報保障=手話通訳」という状況だったそうだ。日本でも、聴覚障害者への情報保障として手話通訳を真っ先に思い浮かべる人は多いように思う。

補聴器を利用しているからといって、その場で発せられたことばが必ずしも理解できるわけではないことを示す、最初のアクションが興味深かった。参加者にどれだけ伝わったのか、と気になる。

「僕は補聴器を利用し始めて11年。常時着用しているわけではない。いつも補聴器を着けていると、何かいやな思い、つらいことがあるか?」と質問したら、発表者は「今の補聴器は合っていると感じている。補聴器の技術者が、指向性なども調整してくれている。技術者によってずいぶん違う」と語っていた。

会場にいた別の補聴器ユーザーから「常時装着ではないのですか?」と質問された。補聴器に関わる経験にもいろんな違いがあることを改めて感じた。



2016年11月5日 土曜日午後1時28分。

僕が「歩いていた頃」という区切りで捉えている時期は、山さんの千里道場のウォークに参加していた頃のことだ。友達の職場の同僚の連れ合いが、近しい人々へ呼びかけて始めたこの道場は、週末や夏休みなどを活用して、子どもの参加者を中心とした佐渡島、淡路島の一周ウォーク始め、房総半島周回ウォークを皮切りとした日本列島外周ウォーク、本州島を太平洋側から日本海側へ、次いで日本海側から太平洋側へとつないで歩く横断ウォークなどを行っていた。

僕は、4泊5日の佐渡島一周ウォークに参加したのを皮切りに、房総半島周回ウォークの最後の2泊3日、当時は常時運行していた大垣行き夜行列車に乗って行った淡路島一周ウォーク、北浦一周ウォーク、霞ヶ浦一周ウォークなどに参加した。当時、話題になった映画にちなんだ廃線ウォーク、友達の家を目的地とした短時間の探索ウォークといった企画にも参加した。

山さんの誘いで、朝日新聞社主催の東松山スリーデーマーチの50キロコースを歩いたことも覚えている。

30歳になった頃から5〜6年間のことだった。

同じ頃、友達が勤務する小学校の企画に参加する機会もあったことも思い出した。



2016年11月4日 金曜日午前9時24分。

歩いていた頃のことが頭に浮かんだ。

佐渡島一周ウォークに、友達が教え子だったえっちゃんと一緒にやってきた。養護学校(今は「特別支援学校」と呼ばれる)中等部の2年生だったように覚えている。

丘の頂上にあるユースホステルをめざして、地図を頼りに山道を歩いていたら道が途絶え、林の中を薮漕ぎしながら歩くことになってしまった。

えっちゃんは、山道がつらいのと薮漕ぎで手や足が痛いのとで何度も足を止めてしまった。で、友達と二人で引っぱったり押したりしながら歩いた。

小一時間薮漕ぎして林を抜けたら目指すユースホステルだった。うれしかったことを覚えている。

翌日から海岸沿いの道を歩いた。民宿に3泊し、一部区間をバスで移動した以外は歩いて一周した。

この時、初めて一緒にあるいた友達の娘達と、その後、淡路島一周ウォーク、房総半島ウォーク、越谷ウォークといった機会を一緒した。

出会った時は中学1年と小学校4年だった娘達とは、上の娘が最初に勤めた職場を腰痛などがあって辞め専門学校でCADを学んで仕事を受け始めた頃まで10年以上、折々連絡を取り合っていた。

てなことを思い浮かべていたら、大学1年目の夏、山中湖にあった大学の寮で寮委員をやっていた時、合宿にきた附属中高の演劇部の部員の中学生から合宿後連絡をもらい、この子のお姉さんの家庭教師になった時のことを思い出した。安心感のあるお兄さんと感じたのだろう。


7月に起きた津久井やまゆり園での障害者大量殺害・傷害事件の記事まとめを作っていて、養護学校高等部を卒業後、遠隔地の障害者施設に入所したえっちゃんのことが何度も頭に浮かぶ。どうしているのだろうか?


【追記】大学1年生の夏、山中湖近くの寮での出会い、振り返ってみると、出会った場所、背景の意味が大きい。大学の寮で、大学に関わりある仕事をしている大学生と附属中高生の出会いという状況が大きな「安心感」につながったのだろう。その意味では、さらに遡って高校2年生の夏、奨学生の集い、クラス委員会合宿と続いた時に、別の高校の女子生徒、同じ高校の1学年上の女子生徒と仲良くなったのも、場面の力ということになるな、やっぱり・・・



2016年10月25日 火曜日午前11時27分。

相模原事件を特集した雑誌「現代思想」10月号を手に取る機会があったので、目次を見て、いくつかの掲載稿を読みました。
市野川君の「反ニーチェ」の最後に、30年ほどつきあいのあるCP者のところへ介助に行って事件のことを話した時、そのCP者が「施設にまとまっているから事件が起きたんだ」という趣旨のことを言っていたと記されているのを読み、かつて暮らした施設のことが頭に浮かんでそういったことばが口から出てきたのだろうな、と思いました。

生存学ウェブサイトで公開している相模原事件のニュースまとめの中で、やまゆり園で暮らしていた人たちの姿が垣間見える記事を集めてみました。

結束バンドで拘束された職員、入所者が救出 相模原殺傷
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2016年8月3日12時00分
 相模原市緑区の障害者施設「津久井やまゆり園」で入所者19人が死亡した事件で、元職員、植松聖(さとし)容疑者(26)=殺人などの容疑で送検=に拘束された職員を、入所者が助け出していたことが捜査関係者への取材で分かった。拘束に使われた結束バンドを、入所者がはさみで切ったという。
 捜査関係者によると、植松容疑者は7月26日午前2時ごろ、園内に侵入し、当時勤務していた職員8人のうち、5人の職員の指や腕を結束バンドで拘束。外部に通報させないようにして、重度の障害がある入所者らを襲っていたとされる。
 西側居住棟の1階では、物音を聞いて起きてきた入所者に対し、手すりに拘束されていた職員が助けを求めた。職員が仕事をする「支援室」にはさみを取りに行ってもらい、結束バンドを切ってもらったという。解放された職員は午前3時前に110番通報した。植松容疑者は同じ建物の2階で職員を拘束しようとして失敗し、「通報される」と思って逃走したという。

相模原殺傷で納涼祭中止 施設「交流減ると寂しい」
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桜井健至、遠藤雄司2016年8月4日11時07分
 相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」で入所者19人が殺害された事件の影響で、園は6日に予定していた納涼祭の中止を決めた。園を一般開放する恒例行事で、楽しみにしていた住民も多い。
 「積み上げてきたものを壊された」。園に約40年勤めた甘利ミツ子さん(74)は憤る。事件が起きた7月26日の1週間ほど前、盆踊りの練習を手伝いに園を訪れたばかりだった。
 園では毎夏、納涼祭として盆踊り大会を開き、地域住民にも開放してきた。打ち上げ花火や模擬店も出てにぎわうという。「地元には楽しみにしていたお年寄りもいるのに残念」
 園の開設は1964年。甘利さんは「最初から全部うまくいっていたわけじゃない」と振り返る。当初は障害者の施設に対し、不安の声もあったという。しかし、職員らが清掃活動をしたり、入所者が地域の祭りに参加したりして、地域になじんでいった。元職員の石井明光さん(86)は職員の地元採用が多かったことに触れ、「雇用にもつながっていた」と話す。
 近くに住む60代男性は「地元の神社の子どもみこしが園を訪れたり、子どもたちが入所者からお菓子をもらったりすることもあった。今後交流が減るようなことがあれば寂しい」。地元に住む元職員の男性(82)はこう願う。「事件が落ち着いたら、また元のように交流してほしいし、それはできると思う」(桜井健至、遠藤雄司)

ダウン症の書家、被害者思う筆 相模原殺傷事件
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志村英司2016年8月5日14時38分
 19人が死亡した事件が起きた相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」の入所者を、2年前に訪ねたダウン症の書家がいる。東京都大田区の金澤翔子さん(31)。当時、「感謝」と大書し、入所者とふれ合った。事件を受け、筆をとった。
 翔子さんは、母親で書家の泰子さん(72)の手ほどきで5歳から書道を始めた。NHK大河ドラマ「平清盛」の題字を担当するなど、若手書家として頭角を現している。
 2014年3月、相模原市内のホールであった津久井やまゆり園主催のイベントに親子で招かれた。泰子さんによると、翔子さんが太い筆で「感謝」と書く様子を、入所者たちはじっと見つめていた。書き終えると、みんな手をたたいて喜び、足を引きずりながら翔子さんに駆けよって抱きつく女性もいたという。
 泰子さんは「障害者同士、心が通い合っていた。とても穏やかな時間だった」と振り返る。
 泰子さんは事件を翔子さんにどう伝えるか悩んだ。怖がりな翔子さんを混乱させたくない。「ちょっと悲しいことがあった」と伝えた。弔意を示すため、泰子さんがフェイスブックに翔子さんの以前の書「涙」を投稿すると、800人以上から反応があった。
 泰子さんは被害者の家族を気にかける。障害のある子が生まれ、自分がそうだったように何度も自責の念にさいなまれた人がいるのでは、と想像する。「園での我が子の生活ぶりを見て、安心できた高齢の親も多かったはず。事件でその思いが引き裂かれてしまい、お悔やみの言葉が見つからない」。障害者への偏見をなくすため、翔子さんが市民と触れ合うイベントには今後も参加したいという。
 泰子さんから「悲しいことがあった」と聞いた翔子さんは、幅4メートルの紙に「共に生きる」と書いた。「みんなで共に生きようねと思って書きました」(志村英司)

笑い声あふれていたのに 相模原事件、施設に通った歌手
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永田大2016年8月24日18時44分
 穏やかな、優しい時間の流れる場所でした−−。相模原市の「津久井やまゆり園」で入所者19人が死亡する事件が起きて1カ月。ここで毎年コンサートを開き、入所者と交流のあった童謡歌手、雨宮(あめみや)知子さんは今、知ってほしいことがある。そこには人と人のぬくもりが、そして笑い声があふれていたということを。
 事件後、コンサートの録音を聞き直した。「ドレスすてきよ」「今日もあれ、歌ってくれるのかしら」。入所者の拍手と温かい声援が飛ぶ。一緒に歌う入所者の声に、雨宮さんの声がかき消されるほどだ。「私、マイク要りますか」。雨宮さんは笑いながらそうこぼしていた。
 差し出されたマイクに向かって大きな声で歌う人。雨宮さんの横にピタッとくっついてうれしそうに髪をなでる人。ピアノの伴奏に合わせて動き回る人……。入所者一人ひとりのはじけるような、柔和な笑顔が心に次々と浮かんできた。
 園では今も94人の入所者が、体育館などでの生活を余儀なくされている。職員が懸命にケアにあたる状況で、聞くわけにもいかないとわかっている。ただ、知りたい。「あの人は、あの人は無事ですか」
 初めて園を訪れたのは、7年ほど前。外部で雨宮さんのコンサートを見た入所者が、職員に園での開催を持ちかけた。以来、15回以上、園で歌ってきた。
 園は特別な場所だという。子どもを産んで半年のブランクの後、初めてのコンサートだったとき。「うまく歌わないと」。そんな「見え」は、奏でられる音を純粋に楽しむ入所者の姿を見て、消えた。「自分を初心にリセットさせてくれる場所なんです」
 入所者と職員が織りなす空気も好きだった。「握手してもらいなよ」。職員に連れられてきたが、そっぽを向いたままの男性。雨宮さんが「握手してもらえますか」と言うと、男性は恥ずかしそうに手を差し出した。「やったじゃん」と大喜びの職員。我が子をみるように付き添っている職員の姿に、見えない、太い絆を感じた。
 コンサートには、近くの老人ホームの入所者や地域の人も訪れ、300人近くになることもあった。園の内外に境界を感じたことはなかったから、捜査のための規制線を報道で見たとき、耐えられなかった。
 今後も入所者を前に歌を歌えるか、わからない。でもその日がきたら、再会を喜びかみしめるような曲を選ぶつもりだ。季節感のある、そして、生を感じられる、そんな曲を。(永田大)
■改修か建て替え 9月に方針決定
 事件現場となった園については、改修か建て替えか、9月中旬をめどに方向性が示される見通しだ。
 事件当日、157人いた入所者のうち、他施設に移動した人、帰宅した人もいるが、まだ94人が体育館や、植松聖(さとし)容疑者(26)が立ち入らなかったエリアに定員超過の状態で暮らしている。神奈川県はまず、体育館で生活している入所者に、月内にも他施設へ移ってもらうことにしている。
 11日に施設を視察した黒岩祐治知事は「衝撃的な現場だったから、フラッシュバックすることもある」と語った。クリーニングだけでは園の機能が回復できないと判断しているという。
 改修や建て替えの場合、工期はそれぞれ1〜2年、4〜5年と試算。財源は県の補正予算も視野に入れるほか、国にも補助などを要望していきたいという。
 「工事の間、入所者をどこでケアするのかという課題もある」と県幹部。重度の障害をもつ人が多く、職員の態勢が十分な施設を希望する家族が多いという。

相模原殺傷あす1カ月 「一矢は私たちの宝」
東京新聞
2016年8月25日 朝刊
 相模原市緑区の障害者施設「津久井やまゆり園」で入所者十九人が刺殺され、二十七人が重軽傷を負った事件から二十六日で一カ月となる。事件で息子が重傷を負った父親は、殺人容疑で再逮捕された植松聖(さとし)容疑者(26)への憎しみは今も消えないとしつつ、「知的障害者は生きる価値がないという考えが間違い。一緒に過ごすことができて幸せだ」と訴えている。 (加藤益丈)
 事件の四日後、神奈川県座間市の尾野剛志(たかし)さん(72)が病室に入ると、息子の一矢(かずや)さん(43)はベッドで満面の笑みを浮かべた。一矢さんは、西棟二階で、植松容疑者に首やのどなどを切られたが意識を取り戻し、初めて面会が許された。
 「お父さん、お父さん」と何度も呼ぶ。その姿に剛志さんは思わず抱きしめた。「この子のお父さんになって良かった」
 一矢さんは、妻チキ子さん(74)と死別した前夫の間に生まれた子どもだ。剛志さんが、一矢さんと初めて会ったのは三十八年前。四歳の一矢さんは、ひどく髪の毛が汚れていた。自閉症のため水にぬれるのが大嫌いで、チキ子さん一人では頭を洗えなかった。
 剛志さんは、泣いて暴れる一矢さんを抱いて風呂場に連れていき、頭を洗った。何度も繰り返すうちに、何とか我慢をしてくれるようになった。
 小学校時代は、ボタンのある服が着られなかった。剛志さんが「パチンとやるんだよ」と身ぶりで示しても「パチン」と口で言うだけ。だが一年ほど教えると、卒業のころにはできるようになった。剛志さんは「最初は自分の顔を見るだけで泣いていたのに、次第に心を許し、成長してくれた。自分の中で少しずつ父親になるんだという気持ちが固まっていった」と話す。
 一矢さんは、嫌なことがあると顔や腕をかきむしるなどの自傷行為があるため、自宅で暮らすのは難しく、二十年前からやまゆり園で暮らす。剛志さんはその後も園の家族会会長を十七年間務めるなど、できるだけ近くで息子を見守ってきた。ただ、一矢さんが自分のことをどう思っているか分からないまま。そんな中で事件が起きたが「病室で『お父さん』と呼んでくれて、一矢の心の中に自分がいたことを初めて実感した」と明かす。
 剛志さんは事件後、植松容疑者に「八つ裂きにしても足りない」と感情をあらわにしていた。だが、最近は「そればかり考えていては植松(容疑者)に負けるから」と憎しみの言葉をあえて封印している。
 代わりに「障害者は不幸をつくることしかできない」という容疑者の一方的な考えは間違いだと積極的に訴える。神奈川県警は事件の死傷者について、「遺族のプライバシー配慮」などを理由に名前を公表していないが、あえて実名で取材に応じる。障害者への差別的感情をなくしたいと強く願うからだ。
 剛志さんは言う。「一矢は障害という特性を持った普通の子ども。一緒にいて不幸と思ったことは一度もない。私たちの宝です」

やまゆり園でお別れ会、犠牲者の死悼む 相模原殺傷
asahi.com
2016年10月16日21時26分
 入所者19人が死亡した相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」で16日、犠牲者を追悼する「お別れ会」が開かれた。報道陣には非公開で、園の入所者と家族らが出席、犠牲者の死を悼んだ。
 出席者によると、会場となった体育館の舞台の上に犠牲者の遺影がろうそくとともに置かれ、参加者全員が黙禱(もくとう)。家族会の大月和真会長が「なすすべもなく命を奪われ傷つけられた方々の無念さを思うと、今でも、体が震えます。あなたたちのことを決して忘れません」と述べた。涙を流しながら遺影の前に置かれた献花台に花を手向ける人もいた。
 神奈川県の黒岩祐治知事の「亡くなった方や遺族の気持ちを肝に銘じ、ともに生きる社会の実現に向けて断固とした決意を持って取り組んでいきます」とするメッセージも読み上げられた。出席した入所者の家族の男性は「しっかりとしたお別れ会ができてよかった。これからも園の力になりたい」と話していた。

「拘束に使われた結束バンドを、入所者がはさみで切ったという。」
「外部で雨宮さんのコンサートを見た入所者が、職員に園での開催を持ちかけた。以来、15回以上、園で歌ってきた。」
「差し出されたマイクに向かって大きな声で歌う人。雨宮さんの横にピタッとくっついてうれしそうに髪をなでる人。ピアノの伴奏に合わせて動き回る人……。」
こういった証言、もっと出てきて欲しい、と思います。



2016年10月22日 土曜日午後4時54分。

授業でエッセイを書くというアイデア、友達の娘のAO出願時の小論文を見たことがヒントだったことに気付いた。あの時、自分の体験をもとに文章を書くことが重要と感じたことが強く印象に残っていたのだった。

先週の授業時に提出された75のエッセイのうち、12が授業レジュメでの公開可だった。授業に出席している履修者は、チャンスと思って、公開可にしたようだ。

その場で書くエッセイなので、「保証期間」が「補償期間」になっていたりする。戻ったエッセイを見て、次への参考にしてくれればいいなと思う。



2016年10月20日 木曜日午前11時1分。

突然、外付けHDとの接続が外れ、つなぎ直しても接続しなかったので、今朝の作業が全部飛んだかと思って焦ってしまった。本体を再起動しポートを変えて接続し直したら大丈夫だった。で、今朝の作業をサーバーに送って一安心。

9月から部屋にいる時間が長くなったので、携帯電話と同じ会社の光回線を入れた。YoutubeでJosh Grobanを聴きながら作業している。カウンター・タグの付け直しだ。



2016年10月10日 月曜日午後3時34分。

今日は曇り。自転車でしばらく走っても汗をかかない。

これから自転車に乗って帰る。



2016年9月20日 火曜日午前8時10分。

台風が日本列島に沿って太平洋を東上している。で、また雨。

昨夜は早く寝たので、今朝はいつにもまして早起きして、長靴をはき傘を持って雨の中を少し歩いた。

ローソンのイートインで、free-wifiを使って作業したら、学会のサイト、AJFのサイトは大丈夫なのに肝心のFTPサイトに入れない。

この後、区民健診を受けに行くので、まだ朝食を摂っていない。お腹が空いた。

今夜は、来月から長崎で暮らす友達の送別会。明日は秋学期最初の授業。そして久しぶりに夜行バスに乗ることになっている。

6月から8月までかけて部屋を整理し、台所の床と畳・襖をきれいにしてもらった部屋に段ボールを開け切れないまま積んでいる。

3箱ほど開けて整理し始めたところで出てきた本につかまって読み始めてしまった。

佐藤賢一『英仏百年戦争』、氷室冴子『多恵子ガール』、柴田よしき『残響』と読んで、昨日から阿部謹也『ハーメルンの笛吹き男』を手に取っている。



2016年7月19日 火曜日午後7時42分。

今日が締め切りの支払い請求書類、休日返上でまとめてくれたスタッフのおかげで、提出できた。

控えのコピーをとるのがたいへんだった。


20年あまり前のスクラップを整理し、ボチボチとウェブ化している。村山富市首相の辞任の記事、思わず読んでしまった。



2016年7月4日 月曜日午後2時10分。

部屋の改修作業が可能になるように、部屋を片付けている。

古いアルバムが出てきた。ずいぶん昔に読みかけてそのままになっていた本も出てきた。

ゴミも粗大ごみもまだある。



2016年6月14日 火曜日午前9時21分。

日曜日の朝、留守電に、一歳違いの脳性マヒ(CP)者の友人の死を伝える伝言が残っていた。僕の母親と同年代の彼の母親からの伝言だった。

4年ほど前、友達2人と一緒に訪ねた時に会ったのが最後になってしまった。

去年のいつだったか、どうしてるのかなと電話をかけたら、「この電話番号は使われていません」との応答があり、様子を見に行かなきゃと思いつつ、そのままになってしまっていた。

折り返し電話をかけたところ、死んでしまった友人の母親が出て、状況を説明してくれた。

最近、三多摩にある療護施設に短期間の予定で入所した。
風邪から肺炎になってしまった。
目の前の国立病院へ緊急搬送された。
病状が急激に悪化して、先週木曜日の夜、還らぬ人となってしまった。
急なできごとにあたふたしていたので、連絡が遅くなってしまった。
家族だけで見送る。

とのことだった。 近いうちに、お悔やみにうかがうことを伝えて、電話を終えた。

いくつもの場面が、頭に浮かんだ。

1980年春の大学祭で教育学部自治会が主催した養護学校義務化をめぐるシンポジウムに、友人達に誘われてやってきた彼は挙手して発言した。

大学近くに住むようになり、ほぼ毎日、大学内の学生ホールやその真下にあった生協食堂の前で、車いすに座って通りがかりの学生、教職員に声をかけていた。で、部屋まで送っていった学生や教職員、生協職員が何人もいたはずだ。

住んだ部屋の近くで、美味しい店を見つけると通っていた。お店も、車いすではいりやすいように自動ドアのスイッチを切ったり、彼の分の豚カツを一口サイズに切り分けて出したりしてくれていた。

以前、通っていた通所施設で働いていた人が熊本へかえった。その人と会いたいというので、年末、一緒に僕の親の家へ行ったことがある。免許を取ったもののあまり車を運転していなかった僕の運転では心もとないので、弟の運転する車で、連絡をつけた相手に会いに行った。

終電を逃すと、よく夜中に彼の部屋に押しかけて泊めてもらった。

彼の弟の結婚式に介助者として同席した。直前までベッドに横になっていた彼の頭がくしゃくしゃだったので、披露宴に向かう途中、公園のトイレで整髪スプレーで頭を固めた。

朝早く、僕の職場の前にいたことがあった。前夜、電動車いすの電池に不安があるというので、近くの銭湯の車庫(屋根の下)で一晩過ごしたというのだった。寒い夜だったので、通りがかった人が見かねてコートをかけてくれたと暖かそうなコートをまとっていたのに驚いたことを覚えている。



2016年6月9日 木曜日午前9時27分。

先週金曜日、粗大ごみを出し、少しずつ掃除をしている。まだスチール製の学習机とけっこう大きなスピーカーが残っている。なんとか月内に片付けて、部屋の改修が可能な状態にしたい。

一昨日の授業時に、読み進めていたオープン・アクセス・パブリッシングに関するレポートを読み終わった。インターネットを利用した情報アクセスに関わる課題が具体的な事例を参照しながらまとめられているよいレポートなので、学生達にも参考になったと思う。

先週学生達が書いたエッセイの多くがインターネットを利用した情報アクセスに触れたものだったので、上記レポートも参照しながら、「誰かがインターネット上で公開した情報にしかアクセスできない」「公開されていていても有料記事だったり、年間契約をしないと読めなかったりする情報もある」「インターネット上でアクセスできる情報を提供している人、団体、機関、企業の情報公開の目的、意図を考慮する必要がある」ことを話した。

ゼミ論文、卒業論文を書く際に、図書館司書や先輩から検索サイトや検索方法を教わった経験、目次や索引を参照して本を活用した経験を書いたエッセイもあった。



2016年5月30日 月曜日午前8時20分。

本をそこそこ片付けたので、次は粗大ごみ。来月半ばまでには、一部屋をすっかりクリアにできる状態にもっていきたい。

6月最後の土曜日に開催する会員総会に向け、議案書・選挙公報を印刷した。これから組み立て、封入、発送。これが終わるとちょっと一息。

会員総会のサポート、3人確定で、ホッと一安心。



2016年5月25日 水曜日午前5時1分。

部屋を片付けていたら出てきた『いろは8号』の「寮生インタビュー 牧野祥久(1997年5月9日)」が目に入った。

牧野君はFB友達で、今、沖縄で医者をやっている。インタビューが「将来の野望は、暖かい島でノホノホンと暮らしたいな、野望と言えるのかどうか分からないけど。まっ、あんまり働きたくないな、と。」で終わっているのを読んで、野望の少なくとも半分は達成してるじゃん、と思ってしまった。

「高校はあまり行っていなかったけれど、ギリギリ留年せずに卒業しました。その後フリーターをしながら小金を貯め込み、突然勉強する気になって、1992年、晴れて(東大教養学部)理科2類に合格、入学しました。」「最初、大学に入りたくなかった。というより、働きたかった。兄貴もそうだった(高校→フリーター→東大)。ああこんなんもありなんだ、と。」と話しているのを読むと、身近にどんな人がいるのか、どんな行動モデルがあるのか、で動き方って違ってくるんだよな、と改めて思った。



2016年5月22日 日曜日午前11時26分。

長年住んでいる部屋のあちこちが傷んでいるので改修してもらうことになった。で、片付けている。

扱いやすい大きさの段ボール箱を、と思って、近くのスーパーの「買い上げ品入れにお使いください」コーナーに行ったら、2lのお茶ペットボトル6本入りの箱が目に入った。

持ち帰って梱包に使ったところ、四六判ハードカバーを2冊並べて入れるとちょうどぴったりというサイズだった。一緒に持ち帰ったコカコーラの2lペットボトル6本入りの箱の方は一回りちょっと大きくA4サイズの報告書を入れると少し余裕がある。ということで、この何日か、朝起きてすぐに箱を調達に行き、箪笥の前、テーブルの上に平積みにしたままだった本、雑誌、報告書類を箱詰めしている。

もう少し片づいたら、地デジに対応していないのでそのまま放置しているTVや25年前、最初のMacを買った時にセットで買ったスキャナー、買い替えて4年くらい使った古いMac、これまた古いプリンターなどを粗大ごみに出さなくてはならない。

もうしばらく目がシパシパ、鼻がグジュグジュの日が続く。



2016年5月16日 月曜日午後3時29分。

週末、テーブルの上に積み上げたままだった本を箱詰めした。一部を近くの古本屋に持って行ったが、半分しか買ってもらえなかった。ハードカバーの文芸書は全くダメだった(もともと古本ばかりだが・・・)

『風の谷のナウシカ』の第7巻(最終巻)が出てきたので読みふけってしまった。駅の反対側にある古本屋には全巻揃っていたので、まとめて買ってしまおうかと思ったが、今、部屋の中に物を増やすのはまずいと踏みとどまった。

さそうあきら『コドモのコドモ』、2冊で終わりかと思ったらまだ続く・・・。もう1冊出てくるようにと願っている。

以前、購読していた雑誌を捨てきれない。幸い、ちょうど収まる箱をゲットできたので、端から詰めている。まだまだ終わらない、先は長い・・・



2016年5月2日 月曜日午前1時5分。

病院の早い夕食を食べた後、横になっていたらそのまま眠ってしまっていた。

日付が変わる前に目が開き、トイレに行って戻ってきた後、1時間余り布団の中でボーッとしている。

あと9時間ほどで退院。事務局へ行って、先月の給与振り込みをしなくてはならない。

今回の入院・治療、薬の副作用が去年の入院時に比べるとかなり緩和されたように感じた。塞栓術を受けた火曜日が、朝食・昼食抜きになり、胃カメラ検査を受けた木曜日が朝食抜きだったのがちょっとつらかった、という程度ですんだ。

去年は、胃が重くて食欲がなくなった日が丸一日あったが、今回は病院で出た食事、全てを完食した。

2012年9月に検査入院した時から数えると、この病院へ入院するのは6度目になる。去年までの5回の入院は病棟の同じブロックで、同じ診療科の入院患者ばかりだった。今回は、同じフロアだが違うブロックへの入院となり、違う診療科の患者もいる病室に入った。

8人部屋のベッドが、今、2つ空いている。片方は、僕の入院中に2人利用者が入れ替わった。僕が入院した時点で空いていたもう一方のベッドには、3日ほど入っていた人がいたが、今は空いている。



2016年4月21日 木曜日午後6時45分。

昨日の授業で、授業資料の杉田敦「国境と人権」を読んだ。前回の振り返りに思ったよりも時間がかけてしまったので、全文を読むことができなかった。

この数年、この時期に、同じ文章を音読している。今年は、音読に関する反応がいくつもあった。

  • 久々に音読して手に汗をいっぱいかいてしまいました。
  • 久しぶりに声を出して読みました。楽しかったです。
  • 久々に音読をしてたのしかったです。
  • 音読がたのしかったです!!また、読みたいです!!
  • のどが痛くて、読むのがたいへんでした。
  • テキストを丁寧に読む授業は、大学にはなかなかないので、とても楽しかったです。

この16年、打ち合わせの多い仕事のせいか、レジュメや資料を読み上げる場面が増えた。「レジュメにあるので、読んでおいてください」ではすまない場面をよくある。そんなことも伝える必要がある、と改めて思った。



2016年4月18日 月曜日午前6時26分。

4月14日夜に始まった熊本の群発地震、震源地が阿蘇、大分方面へ、八代方面へと広がっているとのこと。死傷者、避難者の数も大きく、たいへん気になる。

14日夜、最初の地震のニュースを知って、震源地の北30キロ弱のところに住む両親と妹一家と連絡を取った。みんな無事とのことでホッとした。

15日朝には、電話で父親、妹の声を聞き、かなり安心した。

16日朝、妹からのメールに「昨夜の揺れは一昨日よりも大きくて怖かった」とあった。父親は、ブロック塀が崩れた、お墓も動いた、自分達は無事だと電話をくれた。

何年も連絡をとっていなかった友達に電話、メールで連絡をとった。無事とのことでうれしかった。



2016年4月7日 木曜日午後5時23分。

朝起きた時は暖かかった。

午前5時半ぐらいから降り始めた雨が強くなるにつれてひんやりとしてきて、お昼過ぎまではもう一枚来てくればよかったかな、と感じるほどだった。

外を見ると、雨が上がって日が差している。2〜3時間前に比べると暖かい。

今日、『アフリカの老人 老いの制度と力をめぐる民族誌』が届いた。一仕事区切りがついたので、しばらく前に届いた『アフリカの女性とリプロダクション 国際社会の開発言説をたおやかに超えて』にもやっと手をのばせすことができる。



2016年3月24日 木曜日午後2時5分。

しばらく前から、左上の歯が冷たい水、暖かい汁をあたると痛むので、昨日、歯医者で診てもらったところ、詰め物の下が虫歯になっていた。2カ月ほど前、詰め物がとれた時は、そのまま詰め直してもらえたが、今回は、型取りをして新しい詰め物を作らなくてはならない。

1989年からかけてきた年金保険、今年が最後の保険料振り込みとなる。この保険の災害特約・疾病特約の部分を継続する終身保険加入が可能と連絡があった。すでに、4度疾病特約による保険金支払いを受けているが、加入できるとのこと。今年も入院・治療を受けることになっているので加入することにした。



2016年3月10日 木曜日午前11時51分。

僕よりちょっと年下のFB友達が、「入眠剤を飲んで寝てトイレに行った帰り」に階段から落ちて病院へ行ったとTLに書いているのを見て、15年ほど前、10歳ほど年上の知人が「布団に入る前に催眠薬を服薬する」と口にしていたことを思い出した。

昨夜は、雨に濡れた足が冷たかったこともあって、お風呂に入って暖まったところで布団に入ったら気持ちよく眠っていた。今朝、4時ごろ一度目が覚めたのでトイレに行き、まだ早いなと思って布団に入ったらそのまままた眠っていた。

気持ちよく眠ることができる、というのはかなり幸せなことのようだ、と感じてしまった。



2016年3月4日 金曜日午前6時33分。

先週末に読んだ『アフリカの「障害と開発」−SDGsに向けて』の128-129pp(第4章 ケニアにおける障害者の法的権利と当事者運動)の以下の記述が気になって調べてみた。

障害者自身が社会参加を求めるものとしておこなわれた運動のなかで特筆すべき出来事が1964年におこった。障害者のグループがナイロビのステートハウス(現在の大統領官邸)の前で夜を徹してのデモを行い、当時の大統領ジョモ・ケニヤッタに対して、障害者が社会参画から阻害されている状況を改善してほしいと求めたのである(AFUP 2007, 32)

AFUP (African Union of the Blind) 2007. State of Disabled Peoples Rights in Kenya (2007) Report, Nairobi: African Union of the Blind

ググったところ、「Undying struggle for the disabled people in Kenya」にあたった。

冒頭に上記に関連する記述があり、特筆すべき出来事が起きた日が1964年7月23日であることがわかった。

On July 23, 1964, a group of people with disabilities went to State House, Nairobi, to seek audience with Kenya’s first Prime Minister, Jomo Kenyatta, who later became President.
They wanted him to intervene for what they termed as extreme exclusion from society. The group ended up spending the whole night outside State House, but they never got a chance to see him.

興味深い。



2016年2月16日 火曜日午前11時57分。

先日のエドワード・W・サイード著『遠い場所の記憶 自伝』に続き、長いこと部屋の片隅に眠らせていた高木仁三郎著『原発事故はなぜくりかえすのか』(岩波新書)を読んだ。

著者の話を一度だけ聴いたことがある。僕が学生だったころまだあった「ゲバラの部屋」で開いた反原発ゼミの学習会でのことだ。

高木仁三郎基金設立の集まりがあるというので、日比谷公会堂へ行った時のことも覚えている。

アマゾンの書評に、152pの表に注目、とタイトルを付したものがあった。発覚した「主な隠蔽・改ざん・捏造(1991年〜)」をまとめた表だ。半分は「内部告発」によって明らかになった。

2011年3月の東電福島原発事故の後、地震研究者が津波に直撃される可能性があると警告を発していたことが広く知られるようになった。

知らせるという取り組みの重要性、必要な情報は伝わっているのかとくり返し問い返さなければならない状況の中で暮らしているという自覚、再度確認した。



2016年2月9日 火曜日午後6時16分。

飼い主が部屋に戻ったので、猫の相手が終わった。

4月から始まる新学期の授業のシラバスを大学のウェブにアップして、こちらも一区切り。

最後の授業で受け取ったエッセイと期末レポートに一言ずつくらいはコメントしたいと思い、読み直しながらメールを送っている。企業情報がもっと必要、就活支援のプロが必要、というような内容のエッセイがけっこうある。で、

大学入試と違い、一つ一つの企業や事業所の採用数は多くて数十人、少なければ数人という状況で、大学入試であれば毎年作られている「傾向と対策」を作るのはほぼ不可能です。
そういった状況をきちんと捉え考えることができることが、仕事をするようになってから最も求められる能力です。

というようなコメントを書いている。

中には、自身の体験をもとに「高齢者の人生の最後を楽しく過ごす手助けがしたい、と医療系・福祉系の仕事に興味を持った」と書いている学生もいた。

僕も運営委員である立命館大学生存学研究センターは「障老病異と共に暮らす世界」について考える人たちの集まりです。
生存学ウェブサイト http://www.arsvi.com/ も見てください。

と書くことができて、良かった。



2016年1月13日 水曜日午後7時14分。

最後の授業、エッセイを書くために80人近くの履修者がやってきた。これで、エッセイ、抜き書き、期末レポートのチェックと来年度のシラバス書きの作業に入ることができる。

今年度、初めて3回の抜き書き提出とそれをもとにした期末レポート作成という課題を出した。来年度は、「抜き書きをもとにまとめる」という点についてはもう少し説明した方がいいようだ。



2016年1月12日 火曜日午前5時50分。

午前3時に目が開いたので、猫の世話に行ってきた。

帰り道、冷たい小さな粒が顔に当たると思ったら、ほんの少しだが雪が降っていた。

部屋へ戻って、年末からやっているチラシ入れに行った。竹の塚第二団地の手前二区画は終わり。最後の区画の10号棟、11号棟、道路をはさんで小学校との間の一角に入れて200枚弱だった。



2016年1月5日 火曜日午前9時10分。

午前4時30分に起き出して、猫の世話に行ってきた。

部屋へ戻り、体を温めるために入浴し、朝食に餅と豚汁を食べて出てきた。

事務局に、年末に摘んだみかんが届いていた。分配して、美味しく食べたい。




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by 斉藤龍一郎
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