斉藤 龍一郎 近況:2015年

2015年12月31日 木曜日午前7時14分。

2015年最後の日。昨日、家賃を納めた。年越しの宿題が2つ。

今日、親が送り出してくれた餅が届く。納豆と海苔を用意した。

これから洗濯。破けたシーツの替わりを洗濯しなくてはいけない。



2015年12月11日、金曜日午後1時30分。

立命館大学衣笠キャンパスで生存学研究センター・セミナー「目の前のアフリカ第13回 「銃を鍬に」−平和構築プロジェクトが果たした役割とESD−」に参加するために、京都へ向かっている。

今年度3回目にあたる今回が、今年度最後のセミナー開催になりそうだ。

今日のスピーカーの竹内さんは、AJF会報「アフリカNOW」第103号に取り組みの報告と今後の展望をまとめて寄稿してくれた。

朝、職場に向かうために部屋を出た時は大雨だった。名古屋に近づくにつれて雲が増えてきたが、すっかり晴れ上がっている。


先週の授業で、補聴器ユーザーの友人に話してもらった際、「あなたはどうでした?」と聞かれて、難聴者としての体験を振り返った。

5歳の時、家族そろって遊びに行った池でこけた後、肺炎、肋膜炎、中耳炎を発症し、なんとか生きのびたが、その際に処方されたストレプトマイシン(副作用として難聴を引き起こす)の影響、慢性中耳炎の治療の影響で難聴になった。
10歳の時、両耳の患部切除・鼓膜再生を受けたことは難聴からの回復につながらず、切除部位の大きかった左耳は耳腔も大きく広がり難聴がさらに進んだと思われる。
小学校の低学年の頃、中耳炎治療とそのために病院通いをすることは、縄跳びや水泳をしない・できないことと結びついており、健康に不安を抱える子どもだった。
学校では、聞こうとすると教員の話も、クラスメイトの声も聞くことができた(と思う)。
教科書を読むことが苦でなかったこともあって、授業中の態度は「優等生」ではなかったが、成績は良かった(体育、音楽、図工、技術家庭などはよくない)。
小学校で児童会役員、中学校で生徒会長、高校でも生徒会役員に立候補して当選し務めた。
難聴であることで困ったのは、病院などで呼び出しを待っている時だった。
大学でゼミに参加し始めてから、議論に参加するためには聞かないといけないと思うようになった(それまでも、生徒会活動やサークル活動の中では懸命に聞いていたのだろう)。
大学時代の仲間に、結核治療のためにストレプトマイシン投与を受けて難聴になった同年の男がいた(今も仲間)。
とある会議の場で、彼に「よく聞こえてもいないのにわかったような顔をしてフンフンとうなずくんじゃない」と言われ、それ以来、彼には頭が上がらない(彼は何度も聞き返す人)。
大学を出て、最初しばらく従事したアルバイト、1年近く従事した生命保険セールス、20年務めた運動体の職場では、難聴者であることで特段困った覚えはない。
アルバイトは書類整理の仕事だったし連絡事項も限られており重要な連絡事項は文書によっていたし、一緒に働いていた人たちとあまり話す機会もなかったので、特に困らなかったのだろう(声をかけたのに返事もしないと思った人はいたかもしれない)。
生命保険セールスの仕事は、相対での話の場を作るまでがたいへんだったが、持って歩いていた「団体の推薦書」や保険の内容(当時の主力商品は年金保険)に関心を持って話を聞いてくれる人とやり取りして何件かの契約も獲得した。
20年務めた運動体の職場は、3人で作業する部署だったこともあり、僕の聞こえに合わせて声を大きくして話してくれていた。
大きな会場での集まりに参加する機会が多くあるなか、聞きたい報告、講演の際には、最前列、スピーカーの近くなど聞き取りができそうな位置を選んで参加した。
職場に時折、やってきていたつながりの深い組織のメンバーが僕の席のそばを通るたびに声をかけてくれていたのに、そのことに僕が気がつかなかったため、職場の他のメンバーに「あの人は私のこと無視しているのかしら」と話したと後で聞いた。
現在の職場では、事務局長として会議を主催したり、会員、協力者と話をする機会が多いことから、就任した時に聞き取り補助のために録音機能付きMDプレーヤーを購入し、会議等の際にはイヤホンを通して音声を拡大していた。
10年前、録音したMDのディスクが増えていくばかりなのと、録音が適切でない場で録音機を作動させていることはまずいのではないかと思ったことから、補聴器を購入し着用することにした。
障害者手帳を取得して福祉機器に関する支援を得ようと考え、10数年ぶりに聴力検査を受検し判定を受けた。
左は中等度難聴、右は軽度難聴と判定されたが、手帳取得の規準には合致していないとのことだった。
自費で補聴器を購入した:病院に紹介された補聴器販売店で説明を聞いて、扱い商品の中でもっとも高機能なデジタル補聴器を購入した。両耳用セットで41万円だった(消費税は免除される)。
今の職場でも、普段は補聴器を着用していないので、同じ職場内の人の声が大きくなりがちで、隣のオフィスから「静かにしてください」と言われることもある。
近年、電話でのやり取りがたいへんになっている:必ず、耳が悪いのでもう少し大きな声でと言っているが、機械的に大きくならないこともあれば、どうしても相手の声が小さいこともある。


2015年11月26日、木曜日午前6時26分。

昨日、教室に行ったら誰もいなかった。

授業レジュメを並べ、教室でも入るようになった大学のWifiを使って作業をしていたら一人やってきた。

先週のエッセイを返し、エッセイタイトル一覧を見ながら話していたら、もう一人やってきた。

予定していた「情報保障の論点整理」の講読はやめて、エッセイのタイトル一覧を見ながら、印象に残ったこと、気づいたことを話した。

情報アクセスの課題:日本語の情報だけでは不十分という趣旨のエッセイ多かった。情報源の選択が重要と論じるエッセイもあった。

個人情報開示問題:特売情報、割引券提供といった「ちょっとお得な」情報にアクセスするために個人情報開示を求められるのが当たり前になっている中で、どこまで個人情報を開示しても良いのか迷う場面があることを書いたエッセイがいくつもあった。就活支援サイトやエントリーシートへの個人情報書き込みに関する不安を訴えるエッセイも多かった。マイナンバー導入によって「便利になるらしい」という印象を持っていることがうかがえるエッセイがあった。
 → 大学のキャリアセンターでも配布している東京都産業労働局作成のブックレット「就活必携・労働法」を紹介した。以前の仕事を通して知っていた白石孝さんの講演録(法学館憲法研究所「マイナンバー(共通番号)制度の仕組みとその危険性」)を参考資料として配布した。

10年先を考えるための情報に関する情報保障:就職を考えている企業の10年後のイメージを知ることのできる考えることのできる資料が公開されることを望むというエッセイがあった。

履修者は法学部の学生たちなので、労働法の教員、個人情報保護について詳しそうな教員に、授業時質問するといいよと話した。また、キャリアセンターのスタッフに折々相談することを勧めた。



2015年11月8日、日曜日午前6時29分。

昨夜、早い時間に布団に入ったので、早くに目が開いた。で、夜明け前の薄明かりの中、散歩に出た。

僕が小学生になった時、祖父が廃校になった小学校の校舎を貸与されて始めた保育園の脇を抜け、古くから集落の中の道を歩いていたら拡幅工事の現場に出た。ちょうど集落が終わり、畑の中の一本道になるところだった。

ちょっと歩くと道が二手に分かれていた。左の道を選んで進むと見覚えのある光景に出会した。右の道は集落の外側を抜けるバイパス道路なのだろう。

次の分岐で再度左を選んで歩を進めると、下り坂を下りきったところで別のバイパス道路とクロスした。坂を上り高校生の頃の通学路だった道路に出て帰ってきた。

1時間20分、5.3km。午前6時の空はまだ暗かった。

ウォーカー、サイクル・ツーリスト、車いすやセニアカーの使用者向けの休憩所、史跡説明などあると散歩コースになりそうだ。

今朝の地元紙によると、昨日、合志市制10周年記念のウォーキング大会が開かれたとのこと。5km、10km、20kmのコースが設定され、1,100人が歩いたと報じられている。

こうしたイベントを機に、休憩所の設置、コース紹介ページ開設など、ウォーキングがさらに広がる工夫があればと思う。



2015年11月7日、土曜日午後7時50分。

今日も暖かかった。朝、起きた時は曇り空で、あまり気温が上がらないのかと思っていたら、晴れ間が広まり、ずいぶんと暖かくなった。

今日は甥の結婚式だった。

1年半くらい、一緒に暮らしてきた人との結婚式だったので、相手とも何度か会ったことがある。

二人で考えたという人前結婚式で「誓いのことば」を読み上げる姿を見ていたら、10年ちょっと前、「親に家を出なさいと急き立てられた」とその頃都内の大学に通っていた兄弟のところへやってきたころの甥のちょっと頼りなかったようすを思い出した。

明日、新婚旅行で大阪・京都へ向かうと言うのを聞いて、40年近く前に鞍馬山へ行ったことを思い出した。見るところ、訪ねる先がいっぱいある京都の中でも、たまの旅行だと計画にあまり計画に上らないだろう鞍馬山散策、勧めたく思った。

2012年12月に歩いた、嵐山から仁和寺を抜けて立命館大学へ向かう道筋のことも思い出した。立命館大学のすぐ近くに金閣寺がある。1時間半ほど歩いて金閣寺というコース、街中にも近くてお薦めだ。



2015年11月6日、金曜日午後7時26分。

今日は暖かかった。夕食後、小一時間散歩して汗ばんだので、一枚脱いで半袖Tシャツで、これを書いている。

昨日、福島ゼミで『障害学のリハビリテーション』第1章「社会モデルの分岐点」をもとに社会モデルについて議論をしながら、二つのことを思った。

一つ目は、フェミニズム、女性学によって使われ広まったことばを実数においてもまた女性全体に占める割合においても多くの女性が知っているし活用しているのに対し、障害学の主要概念である社会モデルを多くの障害者は知らない、活用できていないということだ。星加さんが「社会モデルの分岐点」の中で触れている旧来の障害者に関わる専門家、生姜医学の研究者にとどまらず、多くの障害者がそれぞれに社会モデルを知り、それぞれの直面している状況に対して社会モデルに基づくアプローチ、ことばで迫っていくという実践が広がっていくというプロセスを経て、初めて「社会モデルの分岐点」が明確になるのではないか、と考える。

もう一つは、部落解放運動が、オールロマンス事件、同対審答申を経て獲得し確立した同和行政論と社会モデルの類似性だ。社会モデルの実践性に関わる議論の中で論じられている論点は同和行政論をめぐる議論の論点とかなり重なって見える。



2015年10月27日、火曜日午後1時31分。

先週末、世界各地からやってきたエイズ・アクティビストたちを迎えてのワークショップ、ロビイング活動のため、事務局スタッフは総出。僕は事務所番だが、この後、意見交換会に参加するために外出する。

先週半ばに送り出したAJF会報「アフリカNOW」への反応があった。会費納入1件。会費を払ったはずだがという連絡1件。退会連絡1件。この記事が良かった、との賛辞1件。

送付用封筒作成時に部屋番号記入を忘れていたばかりに返送されてきた会報もあった。宛て名を書き直して再発送。

この後、DLmarketへのアップロード、一部の会員向けのPDF送出作業を行う。

次号の原稿催促もやる必要がありそうだ。



2015年10月11日、日曜日午後6時7分。

昨日、3時間余り散歩して15kmほど歩いた。さすがに夜はバタンキューで眠ってしまった。

一緒に歩いた二人は、まだまだ元気そうだった。歩き方が足りないせいか、お腹も出てきた。反省。

線路に沿って歩き、駅の近くでお茶するというコースだったので、途中、個別指導塾をたくさん見た。高齢者向けケア付きマンション、高齢者施設が増えているのも実感した。

で、大江正章著『地域に希望あり−−まち・人・仕事を創る』(岩波新書、2015年)の以下の記述を思い浮かべた。

159p
 安藝奈穂子(1958年生まれ)はA街区のマンションの完成と同時に、6階に入居した。彼女は先天的に骨が弱い。思春期までは、くしゃみをしても骨折するほどだった。病名は骨形成不全症、ずっと車椅子生活だ。両親と一緒の予定だったが、ともに亡くなり、単身生活である。以前の家では一人で外出できなかった。いまは、エレベーターに乗って、いつでも外出できる。
 「自分の意思で、車椅子に乗ってコーヒー飲みに行ったり買い物に行ったりできる。新鮮でした。小さなことだけど、とてもうれしかった。お茶を買ってきてもらうのと、自分で買いに行くのでは、全然意味が違います」
 高齢者が暮らしやすい住居やまちは、障がい者も暮らしやすい。5階にも9階にも、車椅子利用者が暮らしているという。彼女はほぼ毎日、外出する。買い物に行くスーパーの店員とは顔なじみ。高いところに置かれた商品は届かないが、取ってもらえる。「みんなが大事にしてくれる」と笑顔で語った。
 「落ち込んだとき、下へ降りていくとにぎやかですから、気持ちが晴れます。演奏会とか楽しいし、年末には餅つきもある。別の世界が広がっていて、気分転換になります。最近は体力が落ちて不安もあるけれど、ずっとここで暮らしたい」
 奈穂子が生まれたころは、障がい者を隠そうとする時代だった。同年代のぼくには、実感としてよくわかる。彼女はいま、他人に見えるところで生活するのが大切だと考えている。


2015年10月8日、木曜日午前9時47分。

昨日の授業で「必要なこと、重要なことが知らされているのか?」を問いかける材料として選んだ資料を読んだ。伝えてくれる人がいなければ伝わるないことがある、伝える位置にいる人が理解できていないことは伝わらない、と感じてもらえたらうれしい。

「契約に基づいてAVに出演しろ。でなければ、契約違反の賠償金2,400万円を払え。」と迫られた女性が、裁判を起こし契約無効を勝ち取ったことの報告には、度肝を抜かれていたようだ。こうした報告を通して、「意に染まないAV出演を迫られたら契約無効と一方的に通告してもいい」ということが広く知られる必要がある。そうした必要に応じる「情報保障」のあり方をさらに考えてみたい。



2015年10月6日、火曜日午後2時10分。

先週の授業、かろうじて二桁出席だった。ビデオ上映のアナウンスをしたのが遅かったからかな?

明日は「必要なこと、重要なことが知らされているのか?」を問いかける材料として選んだ資料を読む。



2015年9月29日、火曜日午後6時48分。

明日、授業でDVDを上映する。どのくらい出席者があるかな?

障害者への「情報保障」を入り口に、みんな情報を保障されているのかな?と問いかける授業にしていきたいと思っているが、まだイメージが固まらない。


このニュース、忘れてはいけないので、こちらに記録しておく。

Ex-hedge funder buys rights to AIDS drug and raises price from $13.50 to $750 per pill

A former hedge fund manager turned pharmaceutical businessman has purchased the rights to a 62-year-old drug used for treating life-threatening parasitic infections and raised the price overnight from $13.50 per tablet to $750.

According to the New York Times, Martin Shkreli, 32, the founder and chief executive of Turing Pharmaceuticals, purchased the rights to Daraprim for $55 million on the same day that Turing announced it had raised $90 million from Shkreli and other investors in its first round of financing.

Daraprim is used for treating toxoplasmosis ― an opportunistic parasitic infection that can cause serious or even life-threatening problems in babies and for people with compromised immune systems like AIDS patients and certain cancer patients ― that sold for slightly over $1 a tablet several years ago. Prices have increased as the rights to the drug have been passed from one pharmaceutical company to the next, but nothing like the almost 5,500 percent increase since Shkreli acquired it.

Worrying that the cost of treatment could devastate some patients, Dr. Judith Aberg, the chief of the division of infectious diseases at the Icahn School of Medicine at Mount Sinai asked, “What is it that they are doing differently that has led to this dramatic increase?”
According to Shkreli, Turing will use the money it earns to develop better treatments for toxoplasmosis, with fewer side effects.

“This isn’t the greedy drug company trying to gouge patients, it is us trying to stay in business,” Shkreli explained, saying that many patients use the drug for far less than a year and that the new price is similar to other drugs used for rare diseases.

Shrkeli also defended his small pharmaceutical company saying, “It really doesn’t make sense to get any criticism for this.”

This is not the first time the fledgling pharmaceutical executive has come under scrutiny.

He started the hedge fund MSMB Capital while in his 20’s and was accused of urging the FDA to not approve certain drugs made by companies whose stock he was shorting.

In 2011, Shkreli helped form Retrophin, which also acquired old drugs and immediately raised their prices. Retrophin’s board fired Shkreli a year ago and has filed a complaint in Federal District Court, accusing him of using Retrophin as a personal fund to pay back angry investors in his hedge fund.

As for Shrkeli’s claim that he will put the excess profits back into research, doctors say that isn’t needed in this case.

“I certainly don’t think this is one of those diseases where we have been clamoring for better therapies,” said Dr. Wendy Armstrong, professor of infectious diseases at Emory University in Atlanta.

Tweet from Martin Shkreli’s Twitter account below:

$VTL #GDFR pic.twitter.com/FlZu2N68sy

― Martin Shkreli (@MartinShkreli) August 12, 2015

時間を見つけて、翻訳するつもりだ。



2015年9月27日、日曜日午前7時17分。

今年は9月10日に福島ゼミが始まった。10日は参加できなかったが、17日のゼミで受講者の多くと顔を合わせた。年々、法科大学院生の参加が増えているように感じる。今年は工学部の学生も参加している。全学ゼミ「障害者のリアル」のコーディネーターをやったことが参加のきっかけとのこと。

24日、今年も最初のレポーターをやった。僕のレポートの前に、11月末までに読む文献の分担がほぼ決まった。一人手を上げて希望を出すと、出遅れてはいけないという感じでバタバタと決まるところがゼミなんだなと、感じた。

僕のレポートの対象は、この春に出たばかりの『ぼくの命は言葉とともにある』。以下がレジュメ。

『ぼくの命は言葉とともにある』を読む

1.印象に残ることば
宇宙空間に一人だけ漂っている
 16p
 宇宙空間を実感したことがある。それも、地球の「夜の側」の空間のような、ほとんど光のささない真空の世界を。
 「光」と「音」を失った高校生のころ、私はいきなり自分が地球上から引きはがされ、この空間に投げ込まれたように感じた。自分一人が空間のすべてを覆い尽くしてしまうような、狭くて暗く静かな「世界」。
 109p
 その後このインタビュー記録を読み返して、私は有名な次の詩を連想したのでした。
 人類は小さな球の上で
 眠り起きそして働き
 ときどき火星に仲間を欲しがったりする
 (中略)
 万有引力とは
 ひき合う孤独の力である

 宇宙はひずんでいる
 それ故みんなはもとめ合う
 (後略)
*9月24日付記:谷川俊太郎(たにかわ しゅんたろう;読みの確認)

使命
 20p
 私は自分の力で生きているわけではない。人間の理解の及ばない何ものかが命の種をもたらし、今、ここに私が生きているとしたら、この苦悩、つまり、目が見えなくなり、耳が聞こえなくなったというこの苦悩に満ちた状況にも何かしらの意味があるのではないか。

コミュニケーションの復活と再生
 26p
 第一に、私に手を触れている人が、自分と別の人との会話を私に伝えたということ。つまり、私に話しかけるためではなく、また、私と他の人の話を取り持ったのでもない、私以外の人間同士のやり取りを伝えた、ということです。第二は、自分と相手との発言をはっきり区別し、しかも「直接話法」で伝えたということです。

いのちの美しい関係性
 139p
 クラスメートの女子学生が一つの詩を点字に訳して、私に手渡してくれたのです。彼女は、少し前に私がクラスメート対象に行った点字と指点字のミニ・講習会に参加したので、点字の練習を兼ねて点訳してくれたのでした。
 「生命は/自分自身だけでは完結できないように/つくられているらしい」

小松左京のSF的発想
 150p
 「僕は・・・、こういうふうに僕の作品を読んでくれている人が、たった一人でもいた、とわかっただけで、これまでSFを書いてきた甲斐があったよ・・・、僕は・・・」
 その後は、涙もろい小松さんは泣いておられるようすでした。

北方謙三の小説に支えられて
 170p
 盲ろうになることで、見えない聞こえないということの他にも、私はいろんなしんどさを経験してきました。体が弱かったり、薬を飲んで副作用が出たり、人間関係で苦しんだり、「前例がない」という目に見えない社会の壁にあちこちでぶつかったりします。そういうときに、「死んでもいい」と思いながら戦ったり、ある目標に向かって全力でぶつかっていく北方作品の登場人物たちに、私は感情移入していく。それがある種の癒しになってきました。

 僕自身は、極限状況に直面するどころか、大きな悩みを抱えることなくここまで生きてきた。学生生活6年目に金井康治君の転校実現運動に参加し、大人になった障害者と健常者が一緒にいる姿を見せないままに、障害児と健常児は一緒にやれるはずだなんて言えないと考える機会を持たなかったら、もっと狭量な人間になってしまっていただろうなと感じる。
 1999年、障害学研究会で福島さんが「駆け落ちに踏み切れなかったヘレン・ケラー」を語るのを聞くことができ、電車の中で指点字通訳者をはさんで会話をしたことをきっかけに親しくなれただけでなく、福島さんの学生の卒論執筆の相手をする機会をもらえたことは、僕にとってたいへん大きなことだった。
 現在、明治学院大学で教えている「NGO論」で、今年は「情報保障」に焦点をあてている。春学期には、先進国主導でWTO(世界貿易機関)、WIPO(世界知的財産権機関)によって進められている知的財産権制度の強化が、途上国の人々の教育ツールや先端学術研究へのアクセスを制限し、知的財産権所有者がコントロールする範囲でしか学ぶ機会・研究する機会をもてないという状況を紹介した。今週から始まる秋学期には、阪神大震災、東日本大震災時に情報アクセスに困難のあった人々、特に障害者、高齢者、子どもたちが災害の犠牲となったこと、支援を受けられない状況があったことを紹介して、そこにおける課題を考えていく予定。

2.福島さんが対話した人たちに関する僕自身の体験
小松左京さん
 高校入学祝いにもらった図書券で買った本の中に、小松左京の作品集があった。
 ハイライトならぬライハイトを販売する第二専売公社が登場する作品が印象に残っている。
 高校2年生の時、文化祭実行委員会で一緒になって仲良くなった友人が、『日本沈没』『果てしなき時の流れの果に』などを貸してくれたので読んだ。

北方謙三さん
 1990年代から、断続的に作品を読んできた。
 南北朝の日本を舞台にした『武王の門』『破軍の星』に強烈なインパクトを受けた。『楊家将』『水滸伝』『楊令伝』『岳飛伝』と読み進めてきた。

3.北方謙三さんとの対談から生まれた本
 259p
北方さんとの出会いについて本文で触れられなかったことを、以下、少し紹介します。
 (略)
 そして、対談が終わってお別れする直前に、北方さんは次のようにおっしゃったのです。
 「(福島)先生の言葉は、鼓動ですよ」 その言葉を指点字通訳者の指から読み取った時、私は一瞬、心と体が震えました。「言葉は、鼓動」・・・。
 「鼓動」とは、すなわち命の証です。それも、抽象的な生命ではなく、今まさに、ここで具体的に生きている肉体と精神の存在を表す言葉だと感じました。これほど私の実存に鋭く切り込む、そして端的に美しい表現に私はこれまでの人生でめぐり合ったことがありません。
* 9月24日 福島さん:本になったインタビューは、対談以前から進められていた。そのインタビューの合間の雑談の時、「北方さんに会いたい」と言ったことが対談につながった。対談した以上は完成させなくてはと思って、インタビュー記録を見直し、ほぼ全面的に書き直す形で本にした。

4.「意味があるからこそ生きられる」と「ともかく生きている、それだけで人生のテストで九十点を取れている」の間
 福島さんの「使命感」、ハードボイルド小説などに感じる「癒し」と、「意味があるからこそ生きられる」「絶望=苦悩−意味」といったことばは対応している。
 なのに「「ともかく生きている、それだけで人生のテストで九十点を取れている」ということばが出てくることに違和感を感じる。
 「生命は/自分自身だけでは完結できないように/つくられているらしい」という認識とつながる他者の存在の無条件の肯定(cf. 立岩真也著『私的所有論』)と「「ともかく生きている、それだけで人生のテストで九十点を取れている」は照応している。
 ここで語られていないことについて聞いてみたい。
* 9月24日 福島さん:重要な指摘。整理がついていない、ことばになっていないところ。

参加者の一人が、「駆け落ちに踏み切れなかったヘレン・ケラー」について聞きたいと質問したので、福島さんが最新の研究を反映させた伝記に記されていることを紹介してくれた。
36歳の時、工夫を凝らして連絡を取り合い、駆け落ちするつもりで住んでいた妹の家のポーチで荷物を脇に迎えを待っていたヘレンのところに、迎えは来なかった。彼女が相手ととりかわした暗号を使った手紙は解読されており、駆け落ち決行予定の夜、妹の連れ合いが猟銃を持って家の周りを警戒していたとのこと。著名人になったヘレンは、母親・妹夫妻そして恩師であるサリバン先生によって行動を監視されていた。
サリバン先生にすれば、ヘレンに対して絶対的な存在である自分が、ヘレンの選んだ伴侶にとってかわられることに耐えられなかったのではないか、と福島さんは語っていた。
1999年の障害学研究会関東部会で福島さんが「駆け落ちに踏み切れなかったヘレン・ケラー」について語ったのは、ちょうどその頃朝日新聞が連載していた「20世紀の100人」でヘレン・ケラーも取り上げられ、その記事の中に実らなかった恋に触れた記述があったからとのことだった。

子どもの頃は周囲から存在価値を疑われるような物言いをされたことがなかったこと、そして20代半ばで障害者運動に触れて以降は「耳が全く聴こえなくなっても、体が動かなくなっても、目が見えなくなくなっても何とかなるさ」と思える環境の中にいたので、「あれができなくなったら死ぬしかない」といった思いにとりつかれたことがなかったことを改めて感じた。



2015年9月16日、水曜日午前11時58分。

昨夜、南アでのHIV陽性者、エイズ遺児支援の取り組みの報告を聞いた。

ホーム・ベースド・ケア、ドロップ・イン・センターといったカタカナことばを使うと、遠い国のことのようだが、訪問ケア、学童クラブ・子ども会活動と書いてみれば、日本でもなじみの深い取り組みだ。

日本では、初期の障害者運動を支えたのは、施設職員の個人的な取り組みと障害者とつながることを目指す学生たちの運動だった。障害者運動への連帯というのは、ことばだけではすまず、介助をしながら一緒に出かけたり、日常生活の介助に関わったりすることになる。日常生活の中にまで入れるのは、行った先の親にうとまれず、またバイトや他の用事よりも生活支援を優先できる学生たちだけだった。

そんなことを考えながら聞いていた。



2015年9月15日、火曜日午前6時53分。

昨日、マリとカメルーンからやってきた食料問題に取り組む人々を囲むセミナーに参加した。ディスカッションの時間に、「日本では高齢者家庭、障害者家庭などに食料が届かないという問題が発生している。マリ、カメルーンでは高齢者、障害者の食料アクセスを支援する取り組みはあるのか?」という趣旨の質問をした。カメルーンのAlliance contre faim et malnutritionコーディネーターは、カメルーンでは障害者団体が強力で、各方面への働きかけを行っている、と答えていた。彼女は、レセプションの時にも、その話をしに来てくれて、Allianceにも参加しているんだと語っていた。



2015年9月2日、水曜日午前11時36分。

昨日、新しいインターンが勤務を開始した。狭い上に未整理の古い資料があちこちにある職場をいくらかでも使いやすくするため、机の周りの整理を始めた。今朝、40分ほど作業したら、汗だくになった。

一昨年まで使っていた大きな組文字を、借りた倉庫に眠らせている。もう使う機会はなく、また、かなり傷んでいる。バラしてゴミにするしかない。



2015年9月1日、火曜日午後5時39分。

とあるMLの、「厳しい自然環境と人口増加による食料不足が深刻なエチオピアでは、コメの導入、森林保全、市場開拓、技術研究など、日本の支援が期待される分野がいろいろありそうですね。」という書き込みを見て、何年か前に参加したセミナーで聞いたことばを思い出した。

JAICAF主催のシンポジウムだった。当時、明治学院大学国際学部教授だった勝俣誠さんが「自給率40%の国の農業技術者を誰が信頼するだろうか?誰が期待するだろうか?唯一希望があるとすれば、農業に関心を持って就農する日本の若者たちとアフリカの農業に関わる若者たちの交流だ」と発言したことに呼応するように、JAICAF参与の金田さんが「日本は米に関して技術優位と言うが、日本国内の米農家がこのままどんどん減っていったら、技術を習得する機会を失うだけでなく、期待感も失う」と語っていた。

あれから、6〜7年が経つ。2011年3月の東電福島原発事故によって食べものへの不安が高まる日本の農業技術、食料に関わる技術への期待感、途上国で高まる要素はどれだけあるのだろうか?

「農業支援→農業技術支援に切り縮められる傾向に対して、農業支援→農業者支援・農業者と農業技術者、流通業者や加工業者そして消費者との協力関係構築支援へと転じていくことが重要」とも記していた。


上記のメールのちょっと前に書いたメールも、転記しておく。

ソンガイ代表との対話:自分で育てた種子は誰にでも分けることができる民主的な種子

昨日のJAICAF国際シンポジウム「私たちとアフリカ」の基調報告をしてくれたベナンのNGO・ソンガイのNzamujo代表を囲んで話をしました。
シンポジウムで紹介されたソンガイの活動は、農業支援にとどまらず、農産品加工・農業廃棄物や生活廃棄物を活用したナマズの養殖・研修受け入れ・ホテル運営と他分野に及んでいます。
今日の対話の中で、Nzamujoさんは、作ったものを活かすことをやっていたら複合的・総合的になった、と話していました。
対話では、参加者がそれぞれに自己紹介と聞いてみたいことを出し合いました。
次いで、ソンガイの活動紹介ビデオを見て、Nzamujoさんのメッセージを聞きました。
参加者の自己紹介を聞いて、同じ方向性の人ばかりだからどこから話せばいいかな、と言いながら、Nzamujoさんは、ソンガイはコピー機じゃない、モデルじゃない、同じことをしなさいとは言わないと語り始めました。
卵が孵ってヒヨコがうまれるためには、有精卵と雌鳥によるふ化が必要であることを例に引きながら、自分の問題が何だかわかっている人を支援して初めて成果がある、と語っていました。
Nzamujoさんが、技術が必要、企業との協力が必要と語るのに対して、遺伝子組み換え作物の導入をどう考えるかとの質問も出ました。
彼は、自分で育てた種子は誰にでも分けることができる民主的な種子(democratic seeds)、モンサントの遺伝子組み換え種子はそうはいかない、民主的な種子を使ってうまくやっていく、食料増産を実現していけば、遺伝子組み換え種子を導入する必要はない、と答えてくれました。
そのためにも、アフリカ人自身が、NGO自身がもっと調査・研究能力を持たなければとも語っていました。
来週、IFAD(国際農業開発基金)の資金で、アフリカの農業研究者50人を招いてフォーラムを開催するとのことでした。
アフリカにおけるNGO、研究者の連携の動きも、連続公開セミナー「飢餓を考えるヒント」に反映させていきたいと考えています。


2015年8月31日、月曜日午後5時45分。

昨日、最寄り駅のホームで国会前へ向かう前の職場の皆さんと会った。一緒に電車に乗り永田町駅で下車して前の職場関係者が集まるという参議院議員会館前へ行った。

ここ数年は、年に1回、11月初めに会う顔ぶれと参議院議員会館前で会った。新年の旗開きで見かける顔もあった。

歩道に並んで、共産党志位委員長のスピーチを聞いていたら、複雑な気分だった。一緒に行った顔ぶれ、どんな顔して聞いているのかとも思った。

その後、生活の党と山本太郎となかまたちの小沢一郎共同代表が「こんな集まりに参加するのは初めてだが、今回だけはなんとかして、いい加減でバカげた法案を阻止して、安倍政権を退陣に追い込みたい」と語っているのを耳にして、これまでこんなところには来なかった、むしろ抗議の声を向けられる側にいた小沢一郎という人が、僕らに向かってアピールしているという事態に、ちょっと興奮した。

午後3時30分すぎに、せっかく来たので正門前へと思って移動を開始した。正門前の信号が見えるところまでは移動できたが、そこから先には行けなかった。

そうがかり行動としての取り組みが終わった後、正門前を抜けて霞が関に向かったら、国会を正面に見る車道に人が溢れているに気がついた。Facebookにあげられていた写真・動画を見ると、午後2時の集会開始前後に、歩道におさまりきれなくなって車道へ溢れ出したようだ。幅30mぐらいある道路を200mぐらい人が埋め尽くしていたのだから、正門前だけでも相当の人がいたのだと改めて実感した。



2015年8月24日、月曜日午前6時56分。

昨夜も涼しくて、良く眠れた。

一昨日、DPI日本会議・JICA共催アフリカ・日本障害者交流セミナーで「アフリカにおける障害と開発」と題して講演した。

来月、ニューヨークで開かれる国連特別総会で採択されるSustainable Development Goals(SDGs)のスローガン「Leave nobody behind」を運動の中で活用すること、来年、ケニアで開かれる第6回アフリカ開発会議(TICAD VI)に向けさまざまな場面に登場することが重要と呼びかけた。

午後の分科会でさまざまなサービスへのアクセス状況について報告を聞いていたら、南アでは全ての学校で手話の授業を行っているとのことだった。マンデラ元大統領の追悼式で「でたらめな手話通訳」が行われたと問題になったが、そうした問題もバネにして取り組みが進んでいるのだろうか?

補聴器も支援の対象との報告を聞きながら、どのレベルの補聴器が提供されるのかと気になった。

僕が小学生だった50年前の補聴器はたばこの箱くらいの大きさの本体にイヤホンをつないで使うものだった。そうした補聴器が手元にあったと覚えがあるが、使ったことに関わる記憶がほとんどない。30年近く前、耳鼻科に勧められて試用した補聴器はコンパクトな耳かけ型だった。2時間ほど試用していたら船酔いしたような感じで気持ちが悪くなってしまった。あまりに頭がクラクラしたので、近くの病院へ行った記憶もある。そんな経験をしたこともあってずっと補聴器を敬遠していた。

10年前、AJFの仕事に専念するようになった時に、それまで以上に多くの人と団体を代表して会い、会合を持つことになったので、観念して補聴器を使うことにした。

その時、障害者認定されると福祉機器としての補聴器を入手することができるというので検査を受けた。左耳は高度難聴だったが、右耳は障害者認定の対象にならない軽度の難聴だった。

その結果、病院で教えられた補聴器屋に行って、自費でデジタル補聴器を購入した。両耳に装着するセットで41万円だった。

当時、デジタル補聴器は福祉機器として認定されておらず、障害者認定を受けて提供されるのはアナログ補聴器だった。

現在、デジタル補聴器だから半日装着していても気持ちが悪くなったりしない、というので補聴器を使っている。そのことを思うと、どういった補聴器が福祉機器として提供されるのか、気になってしまう。



2015年8月18日、火曜日午前8時47分。

昨夜も早い時間に横になったら眠っていた。その分、朝早く起きて、ネコの世話に行った。

春学期の期末レポート提出者に、一言ずつコメントを付してメールを送った。

今学期は、「引用」につながることを願って、毎月「抜き書き」提出を求め、その「抜き書き」をまとめて期末レポートに仕立ててもらった。

すでに提出したからなのか、抜き書きを転記していない期末レポートが何通かあった。残念。



2015年8月3日、月曜日午後7時25分。

今年のお泊まり会も無事に終わった。ホッとしたので、今日はちょっとボーッとしている。

今学期の成績評価、ほぼ終わった。明日中にもう一つやってくるかもしれない。



2015年7月6日、月曜日午前8時36分。

昨日午前中、宿題を片付けるために近くの図書館へ行った。パソコン使用者用と指定された席が埋まっていたので、大きなテーブルの一角で作業をしていたら、職員が移ってください、とやってきた。で、移り先が埋まっているのを確認して立ち去った。と思ったら、パソコン用席で問題集を広げていた中学生(多分)を探してきて、隣の席に置いていたカバンを持たせて席を移らせてしまった。あれは一体、どういうことなんだろうか?

お昼まで図書館で作業をし、昼食後、自室で続け、午後の服薬を終えたところで、駅前のインターネット・カフェへ行って作業を終え、作業したファイルを送信した。



2015年7月2日、木曜日午前7時30分。

先週の授業で課したエッセイ、予想以上に多くの履修者が「聞かれて答えることと自分から質問することの違いを感じた体験」をテーマに書いていた。アルバイト先での体験、サークル・部活の中で感じたことを書いたものが多かった。

中には、高校時代に通った塾には聞かれて答える生徒と自分から質問する生徒がいて、後者は成績が良かった、という体験紹介から始まるエッセイもあった。

「インターネット、PC等IT機器利用に関わる経験」をもとに書かれたエッセイも多かった。今の20歳・21歳の学生だと、PCもスマホもあるのが前提ということがよくわかった。

インターネットを利用していて怪しいポップ広告に不安を覚えて、そのポップ広告が宣伝するアンチ・ウイルス・ソフトを購入しそうになったという経験を書いたエッセイが2本あった。どちらも、購入する前に友達に聞いて定評のあるアンチ・ウイルス・ソフトを購入しことなきを得たという内容だった。相談できる仲間がいることが、インターネット、PCを利用する上でもきわめて重要と改めて感じた。



2015年7月1日、水曜日午後2時41分。

昨日、5月の入院・治療の効果に関する検査結果が出た。治療がうまくいったので、3カ月毎に定期検査を受ければOKということだった。次の検査は9月半ば。

病院から職場へ行く途中に予約を入れ、昨日の夕方、久しぶりに鍼をうってもらった。日曜の明け方、両足がつってたいへんだったので、早く鍼治療を受けたかったのだが、日曜・月曜と休みだったので、昨日になった。

足が少し楽になったら、腰が疲れてこわばっていることに気がついた。



2015年6月14日、日曜日午前10時。

コイン・ランドリーで洗濯が終わるのを待っている。

今もいる部屋に住み始めた30年ちょっと前、最寄りのコイン・ランドリーまで徒歩5分だった。20年ぐらい前にコイン・ランドリーを付設していた銭湯がなくなり、跡地は駐車場になった。

もう一軒の少し離れた場所にあった銭湯とコイン・ランドリーも、アレッと思った時にはなくなっていた。こちらはミニ開発の対象となって小さな家が何軒かできたので、しばらく銭湯がなくなったことに気がつかなかった。

今日も使っているコイン・ランドリーに通い始めて10年余りになる。もっと近いところにもコイン・ランドリーがあるのだが、洗剤自動投入型の洗濯機しか置かれていないため、合成洗剤を避けたい身としては使えない。

ということで、自転車を5分ほど漕いで、コイン・ランドリーにやってきている。今日はシーツとタオルケットを洗って乾燥させるのに、あと1時間ほど時間がかかる。



2015年6月13日、土曜日午前10時52分。

うどんの薬味用に生姜、茗荷、大葉を買おうと思って、近くのスーパーへ行ったら、日数の経った里芋を安く売っていた。で、目当ての品に加え、里芋とイカを買ってきて鍋にかけている。

スーパーから戻って食べるつもりだった朝食は、用があると呼ばれて行った友達のところでご馳走になった。パンとアスパラ、それに肉ジャガだった。

今朝、高校2年生の時にたまたま参加したできごとと、高校3年生最後の試験が終わった時にやった汁粉パーティがつながりがあることに気がついた。

高2の夏休み、学校で開講されていた受験向け講習に参加した後、同じく夏季講習に参加するために学校へ来ていた1年上の知り合いたちに声をかけられてついて行ったことがある。道々聞いたところでは、他校の生徒が市バスの中で弁当を食べたと話題になっているから、俺らは市電の中でラーメンを食ってみせるんだ、ということだった。

どんぶりとインスタントラーメンを購入して市電乗り場へ行くと、近くに住んでいる同じ高校の生徒がお湯を入れたポットを持って来た。学校から街中の市電乗り場へ向けて動き出す際に、メンバーの一人が電話でお湯の手配を依頼していたのだった。

市電に乗り、一人が持ったどんぶりにインスタントラーメンを入れお湯を注いで蓋をして3分、まだ、周囲の注意は集まっていなかったように覚えている。

蓋を開けて食べ始めたら、市電のお客さん達が食べている3年生を見ていたように思う。

1974年1月、高校で受ける最後の定期テスト終了の日、仲間達5〜6人で汁粉パーティを開くことになった(誰が発案者だったのか思い出せない)。会場は、高校から歩いて5分の英語教員の家。誰が頼みに行ったのか覚えがないが、OKが出て、家を空けてくれた。OKをくれた教員は仕事中、同じ高校の1年下に在学していた上の息子は授業中、で、連れ合いさんが「皆さんがいる間、出かけてます」ということになったのだった。

汁粉に入れる餅は、みんなでそれぞれに持って来たような気がする。養護教員にお願いして保健室で小豆を炊かせてもらことになった。じゃ、小豆を炊き汁粉を作る鍋をどうするのか、参加メンバーは電車やバスで通っているので大きな鍋を満員の電車・バスに持ち込むのはちょっと、というような話になった。その時、僕がダメモトで学校近くに住んでいるパーティ参加メンバーではない1年下の生徒に頼んでみたところ、持って来てくれることになった。

あの時、近くの人に頼んでしまえ、と発想したのは学校の雰囲気もあったのだろうし、高2の夏、近くにいるからと詳しい説明もなしにお湯を入れたポットを頼んだ場面に居合わせたことが、そんな風にことは動く、という感覚を育んでいたからだったろう、と思うのだ。

在学した高校が、古い学校でOB・OGが多かったということもあってか、体育祭、文化祭にあたっては、多くの人の協力を得ていろんな物を使わせてもらっていたことも記憶に残っている。

今、授業で出会っている学生たちの振る舞いを見ていると、そういった高校に在学したことも、後々、「言っちゃっていいんだ」「やりたいことはやった方がいい」とあまり躊躇せずに発言し行動するという立ち居振る舞いにつながったのかなと思わずにいられない。



2015年6月11日、木曜日午後0時8分。

先々週の授業で履修者に課したエッセイのテーマの一つを「将来の自分について考えるための情報に関して」とした。「図書館に関わる体験をもとに」というテーマと並んで、多くの学生がこのテーマを選び、エッセイを書いた。

読むと、ほとんどのエッセイは間近なものとなった就活に関する不安を書いたものだった。

なので、二つのことを話した。

一つ目は、今、希望している職種、職務が10年先、20年先にあるのかどうかを考えてみることが必要ということについて。

昔読んだ干刈あがた『ウォークinチャコールグレイ』の主人公、1960年代前半の女子大生は、ガリ版きりのアルバイトをしていた。30年前、僕の一回りくらい上の世代には写植仕事をしている人が何人もいた。ワープロが普及し、PCで事務作業をすることが普通になって、決められた時間内にどれだけの字数を正確に打つことができるかを競っていたワープロ・コンテストがなくなってしまった。というような、僕にとって一番実感のある職種がなくなるという話は、今の学生にしてもピンと来ないだろうから、しなかった。

二つ目は、「みんなと同じ」を気にしてこれまでやってきたのに、就活では「人とは違うをアピールしろ」と言われるということについて。

「違いを見せなくては」ということだけを意識すると、「違いをアピールすること」がうまくいかなかった途端にパニクっちゃうことが多い。だから、まずは明らかに人とは違うことを意識することになれた方が良いことを話した。具体的には、同じになりっこない「それぞれの個人的体験」、個人的体験とも重なる「今の時間を過ごしている環境の独自性」を、文章として書き留めることで意識し、場面に応じて語ることができるようにすることだ。で、授業で課しているエッセイにドンドン自分のことを書きなさい、と勧めている。

「大学で教えるようになってうれしいのは、図書館が使えること。この大学の図書館は、卒業生や関係者の本をまとめたコーナーもあって行くと楽しい。一緒に仕事している人が、大学を卒業しちゃうと、出身大学の図書館は利用できるけれど、在学中は活用できていた他の大学の本を借りる仕組みが利用できなくなって残念と言ってる。」という話もした。「今の時間を過ごしている大学という環境の利点」を強調したわけだ。

大学に在学することは、質問できる相手がいることや豊富なデータベースが伝えることであり、とても恵まれているのだとわかりました。

というコメントを読んで、大学生には、大学生であることのありがたみ、よく分からないんだな、と思ってしまった。

それとも、そんなこと知っているよ、知ってるけどもっとやりたいことがあるんだ、大学の図書館や教員じゃどうにもならないんだ、と思っていても書かないのかな?



2015年6月2日、火曜日午後3時25分。

昨日、研究会会場に着いた後で、補聴器を忘れたことに気がついた。幸いに用意されていたICレコーダーがイヤーホーンをセットし録音しながら聴くことができた。最後の質疑のところで電池切れになってしまったのが残念だ。

2000年、AJF事務局長になって、幹事会の準備・運営を担うことになった時、録音できるMDプレーヤーを買ったことを思い出した。MDの録音時間が最長74分だったので、途中でメディアを交換しながら使った。

その頃、再生機能のみのプレーヤーであれば1万3,000円ぐらいで買えたが、録音機能が付加されるとほぼ倍の値段になった。価格コムの最安値ショップが事務局から歩いても行けるところだったので、電話をして在庫を確認した上で購入しに行った。通販ショップなので商品ディスプレーはなく、事務所の人に言って製品の箱を受け取って帰った記憶がある。

AJFの会議では、参加者周知のことなので、このMDを使うやり方で良かったが、場面によってはイヤーホーンを装着しているというのがはばかられることもあって、2005年に補聴器を購入した。MDプレーヤーと比較すると17倍位の値段だった。



2015年5月30日、土曜日午前7時21分。

今週の授業で、エッセイを書いてもらった。内容は以下のいずれかに関わって考えたこととした。

図書館に関わる経験
情報アクセスの課題を感じた経験
自分の将来を考えるために必要な情報
授業レジュメ、資料、参考図書を読んで印象に残ったことば、記述

真偽定かでない情報が溢れているから情報規制が必要という趣旨の「情報のルール」とタイトルされたエッセイがあり、来週、どんな形で触れようか、と考えた。他のエッセイを読んでいたら、有川浩『図書館戦争』に触れて検閲に問題があるのではと問いかけるものがあった。規制を誰がどうやってするのか、真偽定かでない情報発信に対しては規制が有効なのか、流布されている情報の信憑性を担保するものは何なのか、一緒に考えるべきことがたくさんあると、改めて感じた。



2015年5月29日、金曜日午後1時48分。

FacebookのTLに、印鑰君が以下の書き込みをしていた。

あまりに多くの貢献をされた吉川さんだけど、実はパソコンを市民運動に持ち込んだ先覚者でもあった。80年代、市民運動にはパソコンを使うことに警戒感が存在していた。「あれは管理のための道具だ。それを市民運動が使うなんて」などという人もいた。
吉川さんはおかまいなく、さっそうとEpsonの98互換ラップトップを会合にもちこんでいた。いや、あれ、とっても重かった。何キロあっただろう。そんな吉川さんの後押しを受けながら、僕もパソコンの活用に取り組み始めたのを覚えている。

シェアしたところ、僕の同年代とちょっと上の肢体不自由の知り合いが、「PCの発達が無ければぼくの社会参加はかなり違っていたと思う。」「ワープロ専用機を背負って持ち歩いていたことがあったんですよね。」とコメントしていた。それを見て、パソコン通信が始まった頃、学生時代の仲間の集まりで、「アスキーネットの参加者にはろう者が多いんだ。これまで接点のなかった人たちとつながることができるから、お前も入れよ」と言われたことを思い出した。



2015年5月19日、火曜日午前7時6分。

昨夜、午後8時30分ごろ、ベッドの上で横になったら眠っていた。日付が変わる頃に目が開いてトイレに行った。

退院が決まったから興奮していたのか、それとも入院中によく眠ったのでからだがもういいやと思ったのか、寝付きそうもないので、しばらく生存学ウェブサイトのページ更新作業に没頭した。

気分転換にゲームをやった後、横になった。2時間ほど眠っていた。

4時40分に目が開いたので、読みかけの牧野淳一郎著『被曝評価と科学的方法』を引っぱり出した。対象、要因ごとに分離できるものは分離して考察し、全体像を導く際に確率論の手助けを借りるというやり方、たいへん重要と感じた。



2015年5月18日、月曜日午後7時18分。

夕方、看護師が退院療養計画書を持って来た。明日、退院。6月23日CTスキャン・採血、6月30日診察。食事も運動も普段通り。という内容。

明日、請求書を受け取り、清算を済ませたら退院。去年11月の入院期間のほぼ半分。

今回の治療は効果が出てくるまで時間がかかるそうで、来月の検査も退院して1カ月余り後に設定されている。

今回の入院では、ずっと点滴の針が入っていたおかげで動くとのできる範囲がかなり限られ、窮屈な思いをした。強い副作用がなく、体調は通常通りだったからというのもある。



2015年5月17日、日曜日午後2時3分。

昨日の夕食、おいしく半分くらいを食べた。今朝からは、出る食事、全部おいしく食べている。

朝一番に採血。お昼前に、担当医がやって来て、退院は火曜日、明日の外出はOKとのこと。

昼食前に、点滴が終わった。で、階段を使って、地下1階まで行って戻ってきた。

昼食後、前回の入院時に活用したWifiポイントへ行ったら、僕が契約している回線が使えなくなっていた。残念。



2015年5月16日、土曜日午前6時52分。

木曜日(14日)午後から、胃が重たいと感じ、食欲がなくなった。夕食はおおかた食べたのだが、メインのおかずをずいぶん残した。

昨日は、朝、ヨーグルトとパンを少し、お昼、お汁一椀をすすりながらご飯を四分の一ぐらい食べたが、夜は、ご飯一口分ほどを何度かに分けて食べたところで、もういいという感じだった。

胃の違和感は、動いているかウツラウツラしていると感じない程度なので、結局、食事、入浴、トイレの時以外はずっとベッドの上でウツラウツラしていた。

夜、病棟での担当医がやってきて、「明日は外出。退院は月曜か火曜だけどまだどちらとは決まっていない」と言っていた。

水曜日は教授回診だったので、僕のところは通りすぎただけだった。木曜日は、朝やって来た担当チームに「入浴してもいいか?」と聞いたら「熱がなければいいです」というやり取りだけで、特に診察というのはなかった。水曜、木曜と化学療法薬治療を受けた後に服用という薬が出ていただけで、検温・検圧などによる経過観察という入院だ。

木曜夜、看護師、立ち寄ってくれた主治医に「胃が重い」と訴えたら、塞栓術を受けるとよくある症状だ、すぐに治るとの返答だった。そういう対応がすぐにあるのが重要なんだなと、改めて感じた。



2015年5月13日、水曜日午後3時5分。

一昨日夜から禁食となり、昨日は朝から水だけ飲んで治療室に呼ばれるのを待っていた。

15時30分ごろ、看護師がやってきて、着替えてストレッチャーにのせられて治療室へ連れて行かれた。

カテーテルを入れ、レントゲンを撮りながらの治療なので、ちょっとひんやりする治療室で、何度か「息を吸って、吐いて、しっかりと息を止めて」の指示に従った。

造影剤を入れて患部とカテーテルの位置を確認して薬を投入し、その薬が漏れでないよう患部の近くに栓をするという治療だった。

2時間ぐらいで治療は終わったが、動脈を開けたので4時間は安静とのことで、またまたストレッチャーにのせられて病室へ戻り、病室のベッドに移るのも看護師たちにお任せだった。

横になったままとれるようにと、夕食におにぎりを用意してくれたので、19時ごろ、やっと食べものをお腹に入れることができた。

下半身を動かしてはいけない、というのはなかなかたいへんで、宿直医が来て切ったところを固めてあったテープを剥がし、これで動いてもいい、と言ってくれた時は、ホッとした。

起き上がってトイレに行き、横になったら寝付いた。

今日は、朝、化学療法薬の投与後2日目から服用という副作用に備えた薬を服用し、抗生剤の点滴を受けた。

3時間ごとに検温、検圧に来る看護師に、気分はどうだ、吐き気やだるさを感じるか、と聞かれる。そういう副作用が出てくることがあるようだ。

いざという時に、薬を入れやすいように点滴の針が入っているので、病棟を離れることができない。



2015年5月12日、火曜日午前7時36分。

昨日午後、入院した。2012年10月に入院した時、手術後、退院までを過ごした病室の一番窓際のベッドに案内された。

入院日に行う予定の検査のうちレントゲン撮影と心電図は、入院を決めた先月の診察後に受けたので、昨日は採血のみ。その後、点滴が始まり、畜尿を指示された。

夕方、担当医(昨年11月にも世話になった)がやってきて、「予定が入っていると聞いてる」と言うので、来週月曜日には退院したいと伝えたら、「大丈夫でしょう」とのことだった。

火曜・水曜は入浴できない、とのことだったので、夕食後、点滴を中断し針を入れた腕にシールを貼ってもらってシャワーを浴びた。

点滴スタンドがあるので動ける範囲が限られる。ベッドの脇に座って本を読むか、ベッドの上で本を読むかぐらいしかできることがない。で、事務局に届いていた『女子大生が見たガーナ』、先週から読んでいた『イングランド社会史』、情報保障について考える手がかりにと借りた『1からわかる図書館の障害者サービス』を読んだ。

今朝は禁食なので、何時から治療と連絡があるのを待っている。



2015年5月9日、土曜日午前8時42分。

洗濯が終わるのを待って、ドトールでコーヒーを飲んでいる。

明後日、入院して、今度は塞栓術という治療を受ける。カテーテルを患部近くまで入れて薬を投入し入り口に栓をして塞ぐという治療だ。カテーテルを入れた後、一日は安静にしていなければならない。その後は、薬の副作用がどう出るかしだいとのこと。通常、一週間程度の入院になるとの説明だった。

2012年以来、毎年受けてきた開腹手術に比べるとからだへの負担はかなり軽いようだ。



2015年4月12日、日曜日午後3時14分。

久しぶりにおはぎを作った。もち米の炊き方が良くなくてぼそぼそしていた。あんこも砂糖の量を加減したのであまり甘くないのはよいが、アクが残って少し苦い。

ずいぶん昔、作ったおはぎをお皿にのせてラップで包み、友達の家へ持って行ったことを思い出した。秋田に移って20年近くになるが、どうしているのだろうか?

職場に持って来て、同じビル内の他の団体のインターンだった人にあげたことも思い出した。「あまり甘くないのが、よかった」と言っていた。



2015年4月6日、月曜日午後3時9分。

案内を転記する。

現在私が運営している団体(スーダン障害者支援の会)がREADYFOR(日本で最初のそして最大のクラウドファンディングサービス)を通して、「スーダンの盲学校に入学できない子供たちに点字盤を届ける!」プロジェクトを実施しています。

プロジェクトのホームページを記載いたしますのでご一読いただき、自分のネットワークに宣伝していただければ幸いです。
また自分のFacebookにシェアしていただけると助かります。

スーダンの盲学校に入学できない子供たちに点字盤を届ける!

スーダン障害者教育支援の会(CAPEDS)の取り組みについては、以下を見て欲しい。
スーダンと日本をつなぐ視覚障害者の活動に学ぶ



2015年4月5日、日曜日午後6時。

今日は、電車に乗らなかった。

午前中、コインランドリーへ行きシーツ、タオルケットほかを洗濯し、乾燥機にかけた。午後、駅前のスーパーへシャツとズボンを買いに行った。

お昼は、インスタントラーメン。キャベツと人参を麺と一緒に茹でた。



2015年4月1日、水曜日午後1時11分。

年末に書いた文章が収録された立命館大学生存学研究センター報告23『アフリカの病・医療・障害の現場から――アフリカセミナー『目の前のアフリカ』での活動を通じて』が発刊された。

目次は以下の通り。
報告書刊行によせて  西 成彦 5-6
第1部 開催報告 アフリカセミナー『目の前のアフリカ』開催報告
 第1回 もうひとつの使い捨て文化:古着のゆくえ/日本の若者はなぜアフリカを目指すのか? 10-12
 第2回 病と共にあるつながり:エイズ・人権・社会運動 13-15
 第3回 個人の生と歴史の脈絡:『ルムンバの叫び』上映会 16-18
 第4回 アフリカ文学の彩り:Black, White & Others 19-20
 第5回 アフリカの大地から日本の大地へ:ブルキナファソ Kaba-ko 演奏 21
 第6回 身体に宿る共同性:視覚・聴覚障害者の身振りとリズム 22-24
 第7回 モザンビークに向けられる関心:日本向け食料・エネルギー供給地としての期待? 25-26
 第8回 誰のための公衆衛生か? 27-28
 第9回 越境する障害者/村を創るハンセン病者 29-31
 第10回 紛争後社会の和解政策を再考する ポストアパルトヘイト後の南アフリカを中心に 32-34
第2部 報告・レポート アフリカの「病・医療・障害」
 同じ世界を生きぬこうとする人々とつなが――アフリカに関わる取り組みと生存学のクロスオーバーから  斉藤龍一郎 36-50
 故郷に出会うまで――ザンビアのハンセン病回復者のライフストーリー  姜 明江 51-67
 アフリカ医療・感染症レポート――三大感染症・顧みられない熱帯病・エボラ出血熱を知る  新山智基 68-97
第3部 論文
 ナイジェリアのプライマリー・ヘルス・ケア対策に潜む特有の政治的問題  マリー・ラスト(近藤 宏 訳) 100-124
 アフリカの都市に暮らす障害者の生計とケア――カメルーン共和国の首都ヤウンデを例に  戸田美佳子 125-147
あとがきにかえて  小川さやか 148-149
基本資料
【資料1】アフリカ各国の基本情報 152-159
【資料2】アフリカ各国の保健・医療に関する基本情報  160-163

生存学研究センターのアナウンスを転記する。
――
ご希望の方は生存学研究センターにご連絡ください。送料実費でお送りできます。連絡先は以下です。
  生存学研究センター事務局 E-mail: ars-vive@st.ritsumei.ac.jp
  TEL: 075-465-8475 内線: 2393(9:00〜17:30) FAX: 075-465-8342
  〒603-8577 京都市北区等持院北町56-1 立命館大学



2015年3月15日、日曜日午後0時15分。

1月に受け取ったレポートへのコメントを書いている。90通近くあったので、まだ20通ほど残っている。

何度かレポートを読んでいて、切実な課題をかかえている人が書いていることにドキッとした。書いたこと、書けたことを通して、適切な制度の活用や支援の仕組みにつながってほしいと願っている。



2015年2月22日、日曜日午後3時59分。

両親のダイヤモンド婚を祝う家族旅行を終えて帰ってきた。

参加したのは、両親、妹夫婦、妹の2番目の息子。計6人。

甥がすでに同居している婚約者に教えられたという阿蘇の宿で、美味しいものを食べ、宿が用意してくれたお祝い(横断幕、記念写真)を楽しみ、温泉に何度もつかって帰ってきた。

甥の婚約者も同行したいとのことだったが、どうしても仕事を抜けることができず、一泊して帰ってきた両親の家へ夕飯を食べに来てくれた。

仕事に区切りがついて休みの今日、二人で婚姻届を出しに行くとのこと。昨夜、おめでとうと伝えた。

84歳になった父親は、カラオケ三昧でよく出かけ声を出しているおかげか至極元気だった。80歳になったばかりの母親の腰が曲がり縮んで見えたのが、心に痛かった。


戻ってきてメールを開いたら、スーダン障害者教育支援の会(CAPEDS)の代表理事になったヒシャム君から「21日にコメントさせていただきます」との連絡。

3年前の秋に開かれたCAPEDSの会合で会って以来だから、直接会うのは3年ぶりになる。先日、AJF代表理事の津山が持っている大学の授業で話をしてくれた。その時のことが、毎日新聞の連載コラム「幸せの学び:<その119> 悠久のナイルから」で紹介されている。

3月21日に開催する(特活)アフリカ日本協議会(AJF)20周年記念特別企画「Non Super Global !?:斉藤事務局長が語るアフリカと世界と自分がつながる仕組み」のコメンテーター・話題提供者が、これで福島智さん、バヤキッサ・アンドレさん、浅井徹子さん、玉井隆君、ヒシャム・エルサー君となった。興味深いコメント・話題を聞くことができそうで、楽しみだ。



2015年1月27日、火曜日午前9時28分。

先週木曜日の福島ゼミで、安積宇宙(うみ)さんの話を聞いた。

親子は3人だが、いつも誰かしら同居しているのでたくさんの人に囲まれて育った、という話を聞きながら、「家族の枠を超えていく/いかざるをえない」のが障害者運動の魅力とずっと考えてきたことを改めて思い起こした。

参加者の質問に「日本では、目を向けると、それまで私を見ていたのに目をそらす人がいるんです。ニュージーランド、デンマークで暮らしていると、ニコッと微笑んでくれます」と答えていたので、反射的に「35年前、このキャンパス内の生協食堂の前で、通りがかりの人が自分を見てくれるのをじっと待っていた脳性マヒ者(CP者)がいたよ」と口が動いてしまった。彼は、目が合った人にニコッと笑いかけ、そのころ住んでいた歩いて20分位のところにあるアパートまで車いすを押してもらっていたのだった。

18歳の宇宙さんは、「最後に骨折したのは11歳の時だった。それ以来骨折していない。」「14歳の時、尊敬する人から、右足が曲がっているから正しい姿勢をとれない、と言われてショックを受け、曲がっている右足のくるぶしから先をマッサージしたりしてまっすぐにした。今は足の裏を踏んでまっすぐ立てる。」「(骨形成不全症で)8度も手術を受けさせられ、そのことをたいへんなことだったと思っている母が、それでも3度手術を受けさせようと思った。1度は日程まで決まるところだったが、私がいやだと言ってやらないことになった。」と話していた。

骨形成不全症ということばの前で怯んではいられない、という彼女の意思を感じた。僕らも、医者の判断、ことばのみに左右されてはいけない、と改めて思った。

ニュージーランドの高校で受けた生物の授業で出た「適者生存」ということばでショックを受けたという宇宙さんに向かって、福島さんが語ったことばもすごく良かった。

  • 先端研に福島さんを招いた生物学者が、「適者生存ということばは、ある生物種の中の個体の適否について語っていることばではない。生物種が環境に適応して種として存続するかどうかというレベルのことを論じることば」と言っているのを聞いた、その場にいただれもその発言に異議を唱えることができなかった。
  • 突然変異がなければ種が環境に適応して「進化」することができない。突然変異の結果として「障害者」が出現するのは人間という種がまだまだ「進化」しているという証拠だ。

宇宙さんは、「白人男性を最上位とした人間のヒエラルキーの中で自分は最下位の存在なんだと暗に言われているような気分を味わったこともある」と話していた。

米国で1970年代末そして1990年代半ばに、「統計データ」を使って人種ごとのIQによる「格付け」を主張し「教育投資の効率化」を提言する言説が広がった時に、スティーヴン・J. グールドが書いた『人間の測りまちがい』を紹介すればよかった。


土曜日、川口市芝公民館で開かれた「「養護学校はあかんねん!」上映会&29歳で小学校に通った八木下浩一・一問一答」に参加した。

八木下さんが久しぶりに登場するというので、120人が参加するけっこう大きな集まりになった。

インタビュアーの想定した流れから外れていく八木下さんインタビュー、面白かった。

「あのしょうもない和田医師にひっぱられて、(一緒に地域での生活を追求していた障害者)2人が病院に入ってしまったのはどうしようもなかった」 という和田博雄医師批判もっと聞きたかったのですが、インタビュアーの想定になくてそのままになってしまった。

インタビュアーが、「せっかく通い始めた芝小学校の5年生の時に不登校になってしまった」と水を向けたところ、「全障連の活動が忙しくなって、 あちこち行って帰ってくると疲れて学校へ行かないということになったんだ」とのことだった。1970年から芝小学校に通い始めて5〜6年目、1974〜1975年ぐらいから全障連発足に向けた動きに関わるのと並行して小学校へボチボチと通っていたのだったんだ、とこれまで別々にとらえていたことが一つにまとまった。

上映会後、ストローでビールを飲む八木下さんの姿を久しぶりに見た後、20年ぶりくらいに会った友人と駅へ向かった。一人で歩いて上映会会場へ向かった時には感じなかった歩道の不備が、電動車いすで移動する友人と一緒だとよくわかった。

駅へ向かう道路の左側の歩道は狭くて電動車いすで通ることができず、ギリギリ2車線の車道を通るのは無謀という感じ。で通った右側の歩道は、幅は問題ないが道路に面した住宅から車道へ向かって車の出口を掘り下げているため、デコボコしていた。

高齢化が進んでいる町なのに、こんな道路でどうするんだと思いながら歩いた。



2015年1月17日、土曜日午前10時54分。

昨夜煮た赤エンドウと水煮にして常備している大豆に、玉ねぎ、生姜、大根を刻んで合わせ、少し塩して豆のサラダを作って食べた。もう一種類豆がほしいので、出がけに大福豆を水につけてきた。

近くのスーパーで買った大福豆、200gで470円。アメ横の乾物屋で1lの袋(900gぐらい)を買えば800〜900円。豆は日持ちがするのから、アメ横で買おう、と思いを新たにした。

御徒町駅前の吉池で、丸餅を30個324円で売っていた。今朝は、その餅を焼いて食べた。美味しかった。まだ、あるようだからもう一袋ぐらい買っておこう。



2015年1月6日、火曜日午後0時56分。

部屋の冷蔵庫に餅が入っているので、今年になってまだごはんを炊いていない。ということで、今日もごはんだけ買ってきて、持ってきたおかずと一緒に食べた。昨日、昼食に食べた身欠きにしんと昆布煮付けの方が、弁当のおかずにはいいようだ。

朝、電車に乗っていて、来年のシラバスっていつまでに書くのだっけと気になった。職場で調べてみたら、今日から来月半ばまで期間が設定されていた。

明日、今期の期末レポートを受け取る。どのくらい提出されるのかな。最後の授業で、書くことの意義について改めて話そうと思っていたら、ちょうど参考になりそうな記述が朝日新聞のインタビュー記事にあった。

憧れの彼と東大に行きたい 元準ミス東大、不合格で奮起
聞き手・佐々木洋輔2015年1月5日12時20分

 モチベーションの維持が最大の課題でした。特に現役の時は、そこで失敗したので。もともと妄想癖があるのですが、妄想することで気持ちをコントロールしました。例えば、東大に合格した自分の姿をノートの半分に書いてみる。たくさんの友人に囲まれて、勉強したり遊んだり。オシャレで華やかな大学生活を妄想します。
 一方、もう半分のページには不合格の時の妄想を書き出します。「早稲田には全然行っていないからもう居場所がないし、友だちもいないし。1人で授業を受けて暗い大学生活を送って、就職にも失敗して、ニートになって……」といったように負の妄想を書き殴りました。
 そうすると自分が不安に思っていることを、客観的に捉えることができます。不安の正体がはっきりすると、もやもやした気持ちが晴れて、また勉強に集中できます。
 もやもやして集中力が切れたとき、気持ちを書き出してみることがオススメです。文字にしてみると自分のモチベーションを阻害しているものが何かわかりますよ。

それなりにタフでないとここまではできないような気もするが、書くことで「自分が不安に思っていることを、客観的に捉えることができます。不安の正体がはっきりすると、もやもやした気持ちが晴れて、また勉強に集中できます。」というふうにやっていけるといいなと思う。



2015年1月3日、土曜日午前10時15分。

冬季休業は明日まで。新年明けてから時間が経つのが速いような気がしている。

年末の宿題を一つ終えたら、6月後半に開く会員総会の会場を早く確保してもらう必要があることに気がついた。記録を見たら、去年6月の総会会場、一昨年の12月末には確保してもらっていた。

2月の理事会前に煮詰める必要がある課題も多い。一番大きいのは、次期事務局長確保。財政的に安定してない小さなNGOの運営は気苦労が多い。それでもAJFだったら面白いことやれそうと思える人がいればうれしい。

AJFは、今年3月に誕生して21周年を迎える。アフリカに関わる動きが大きく変わっている中、担うべき役割、できることはますます増える。もっと柔らかい頭をした、体力もある人にやって欲しい。

AJF事務局長をやっておもしろい、よかったと感じたこと
・アフリカのHIV陽性者運動を紹介し、つながる場にいれた
 - 2001年、当時の代表だった吉田さんと相談して、林達雄さんを代表に迎えた
 - 2002年、稲場雅紀さんの「求職」メールを受け取り、AJFのスタッフとして迎えた
・アフリカ障害者の10年に関わる活動を、DPI日本会議、生存学と一緒に進めてきた
 - 2005年、DPI日本会議が実施主体となっていた「南部アフリカ障害者の地位向上コース」と関わるようになった
 - 2007年、スーダン障害者教育支援の会とつながりができ座談会やワークショップを一緒に行い、立岩研究室から資料集も発行した
 - 2009年、DPI日本会議・生存学と一緒に「アフリカ障害者の10年」学習会を開始。最初の講師に亀井伸孝さん、次の講師に戸田美佳子さんを迎えた
・アフリカ子ども学立ち上げに関わった
 - 2010年、亀井伸孝さんの『森の小さな〈ハンター〉たち』に関する公開インタビューがきっかけとなってアフリカ子ども学が立ちあがった
 - 2011年名古屋、2012年岐阜、2013年京都と研究会が開催される
 - 関心を持つAJF会員が増え、この取り組みがきっかけでAJFに入会した人も
・事務局長になった翌年の2001年から日本アフリカ学会にほぼ毎年参加していることもあってアフリカ研究者との接点が増えた
 - 2004年、学会設立40周年記念誌にメールマガジン「AFRICA ON LINE」紹介ページができた。担当していた峯さんと熊本で会って一緒に夕食を食べた
 - 2011年、学会研究誌「アフリカ研究」に『アフリカ学入門』の紹介原稿が掲載された
・食料安全保障研究会に関わって、生まれ育った家、地域について改めて考え始めた
 - 2002年5月にこんなことを書いた
  「農村で生まれ育ったことを振り返った一年
 - 2008年2月に『アフリカの食料安全保障を考える』を出した
  AJFウェブサイト「アフリカの食料安全保障を考える
・いろんなNGOの活動を知り、活動している人たちと一緒にできることが増えた
* 上記の一部については、3月に発行予定の生存学研究センター報告に書きました。


2015年1月2日、金曜日午後2時28分。

冬休みの宿題の一部を片付けた。

窓の外は晴れている。風もなさそうなので、少し歩くつもり。

大晦日に実家から届いた荷物の中に、大きな白菜が半分入っていた。今夜は、アジア学院の豚肉とこの白菜で鍋を仕立てる予定。



2015年1月1日、木曜日午後8時2分。

40年前、2年間住んだ町で、当時歩いたことのなかった通りを歩いた。駅前から出ているバスの通る道筋の一本北にある通りが、メインストリートだということに初めて気付いた。

その通りを西へ向かうと突き当たる大学のキャンパスに、40年ぶりに入った。ウォーキングをしている人と自転車で回ってくる警備員以外には誰も見かけなかった。

歩いていて、大学正門前に住んでいた中学の後輩を訪ねたことを思い出した。

帰り道に途中下車して、11月に生まれた友達の子どもに会ってきた。といっても、肝心の赤ちゃんはズッと気持ち良さそうに眠っていた。秋になると、一家そろってしばらく日本を離れるとのことなので、春から夏にかけてまた機会を作らなくては、と思った。



2015年1月1日、木曜日午前10時16分。

新年を自分の部屋で迎えた。

起き抜けに近所を一回りしたら、風が冷たかった。

親が送ってくれた餅を雑煮にして食べた。するめの出汁、大根、人参、里芋、白菜と母親が作る雑煮に入っているものを入れたが、できあがりはずいぶんと違った(もっと薄い色だったような気がする)。で、年末にまとめて買っておいた納豆で餅を食べた。

大晦日に『ハイスコアガール』のバックナンバーを見つけた。ラッキーだった。

そろそろ第6巻が出てもいいはずだが・・・




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by 斉藤龍一郎
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