斉藤 龍一郎 近況です。2013年


2013年12月31日、火曜日午後7時26分。

1時間ほど前に年越しそばを食べ、食後の散歩をしてきた。

親の家を出ると街灯がないので足下は真っ暗だったが、空はまだぼんやりと明るかった。で、星を見るにはまだ早い、という感じだった。

中学の時、掃除をするために毎朝通った牛舎だった建物の脇を通って小一時間ほど歩いてきた。

両親が15年ほど前まで使っていた牛舎は、まだ借りて使っている人がいる。

この牛舎を作る時に、少し手伝ったとばかり思っていたが、僕が大学生の頃に建てられた牛舎は台風で屋根が飛んでしまったと聞いたことを思い出した。




2013年12月28日、土曜日午前10時3分。

この数日、吉池で買った黒豆に付いていたレシピで黒豆を煮て食べている。一緒に買って、やはり付いてきたレシピで茹でた秘伝豆の方は、サラダに入れて食べていたら3日間ほどでなくなった。

黒豆を食べながら、子どもの頃、好きだった座禅豆のことを思い出した。今回のレシピで普通の大豆を煮ると、座禅豆風になりそうだ。新年明けたら試してみようと思う。

昨日までに年内の会計整理を終わらせ、会費納入のお願いも出したが、MLの移行作業を終わらせることができなかったので、午後、ちょっと事務局に行く。

1999年に起ち上げたMLの運営会社がMLサービスを止めるというので、他のサービスに移行する。これまでのMLに登録されていたアドレスを、新しいMLに登録するのに、一日に100件までとの制限があるために、4日間かけないと移行作業が完了しないのだ。

新しいMLは、なんとか新年のあいさつから始められそうだ。




2013年12月14日、土曜日午後9時21分。

午後、職場で伝票整理をした。明日、もう少し整理したら記帳できる。

1960年代の香りを漂わせるPaul Peter and Mary(PPM)のヒット曲を聴きながら作業したので、煮詰まらずに作業できた。

今朝、コインランドリーに行った時の気温が6度だった。今、事務局周辺の気温も6度。明日もあんまり気温は上がらないようだ。



2013年11月18日、月曜日午後1時42分。

昨日、読み終わった小説に、有能な息子を後継者として選ばなかった父親が、あいつに継がせれば一代で家を大きく育てるかもしれないが次の世代が萎縮して結局家は潰れるだろう、というようなことを言ったと書かれていたせいか、起き抜けに、「小学校のクラスが自由だったので中学に行ってからつらかった」と村田栄一さんを偲ぶ会で聞いたことを思い出してしまった。もう40代になった人が中学生の頃を思い出すとほんとに辛そうな感じで話していたので強く印象に残っている。

初任校が盲学校だった友達が教員になって20年目に初めて担任した普通校の小学校1年生のクラスが、2年生になってクラス替えがあった時のことも思い浮かんでしまった。友達が受け持つクラスにならなかった子のうち一人は登校拒否、一人は毎日机を持って友達のクラスにやってきていたので、学年の担任たちの間で大問題になったそうだ。

良い先生にめぐり合えてメデタシとばかりにはいかないのかな・・・



2013年11月16日、土曜日午後2時18分。

昨夕、立命館大学で開催した生存学研究センター・セミナー「目の前のアフリカ」第6回に参加し京都で一泊して帰る途中の新幹線の中で書いている。

「身体に宿る共同性:視覚・聴覚障害者の身振りとリズム」とタイトルしたセミナーで、久しぶりに会ったアブディン君が、ブラインド・サッカーについて話してくれた。

質疑の中で、韓国には立派なブラインド・サッカー専用の競技場があると紹介されて、びっくりした。金属片が入ったボールを使うブラインド・サッカーにとって騒音は大敵で、セミの鳴き声があまりに大きかったため大会を中止せざるをえなかったこともあると言う。ボールの音を頼りにゲームを行うブラインド・サッカーでは、デフェンスの選手のリズムを崩しながらドリブルで攻め込んでいくそうだ。

彼がスピーカーだったからか、セミナー終了後の懇親会は、いつもの小料理屋ではなく、大学内の施設での開催となった。先端研所属の院生が何人も参加して、興味深いやり取りの続く懇親会だった。


今朝、ホテルの前でアブディン君と分かれ、京都駅まで30分ほどかけて歩いた。京都駅から東海道線の新快速・普通列車を乗り継いで名古屋駅まで行き、ホームの立ち食いでかき揚げきしめんを食べて、新幹線に乗った。



2013年11月5日、火曜日午前4時13分。

昨夜、早い時間に布団に入ったので、朝早くから起き出している。

アフリカにおけるBOPビジネスについて話をしてほしいと要請を受けて、いくつかのことが頭に浮かんだ。

まず思い浮かんだのは、勝俣誠著『新・現代アフリカ入門――人々が変える大陸』(岩波新書、2013年)にある以下の記述。

4 二つのアフリカ、二つの道

消費者主権か、人民主権か
 二一世紀に入り、世界もアフリカも大きな地殻変動に見舞われている。
 冷戦が終わり、一時は世界の秩序を取り仕切ろうとした米国の独走態勢のシナリオも次々とほころびだし、二〇か国で形成される先進国と新興国の協議の場も、国際政治経済秩序の形成においてはもはや無視できないほど存在感を強めている。こうした中で、ここ数年、アフリカ諸国からの資源輸入ビジネスに加えて、アフリカでの消費財市場に、「北」や新興国の企業が注目してきている。
 とりわけ、伸び率はやや減速したものの確実に増大するアフリカ大陸の人口を「九億人(ここ数年「一〇億人」とも言う)の市場」と表現し、その購買力に新たな商機を見出そうとする「BOPビジネス」と名づけられるマーケティングが活発化している。その直訳は「経済的ピラミッドの底辺(Bottom of Pyramid、後にBottomはBaseに変更)」である。富裕国「北」の高性能・高価格の消費財市場が世界不況で低迷していることから、全世界で年間所得が三〇〇〇ドル以下で生活する低所得層四〇億人(そのうちアフリカは九億人)という数に着目し、「南」の低所得層向け消費財市場で単価を下げて、きめ細かく開拓しようとする試みである。
 たしかに、アフリカ諸社会を構成する人々をひたすら海外援助の対象としての受益者として捉えるのではなく、自らのお金による決定を通して、市場に参加する購買者の側面に着目しようする「北」と新興国の動きは、援助を前提とする“チャリティーのアフリカ”ではなく、製品を買ってくれる“お客様のアフリカ”というポジティブなイメージを醸し出す。
 しかしながら、これはあくまでも、売り手側のマーケティング理論からの「九億人のアフリカ人」からなるアフリカ諸社会の位置づけである。現代アフリカ諸社会側が直面する著しい貧困や格差問題を、展望を持って解決する道筋につながる論理ではない。
 そもそも消費財生産基盤さえ自国で育成できなかったアフリカ諸国において、BOP市場に参加するアフリカ人側が手にするこれらの輸入品購買力はどこから来るかという疑問を抱く。
 多くの場合、自国の鉱物資源、木材、漁業資源などの一次産品の輸出ないし自国の富野取り崩しないし海外への運び出しによる収入によるものであり、高校の教科書にさえ出てくる古典的南北間貿易の図式を出ていない。自国の富の持ち出し対価として受け取った収入が、買い手の資源輸入国などからなる「北」や新興国の製造する消費財の売り込み校正によって回収される仕組みである。

植民地期商法の復活
 もっともこの仕組みは植民地期のアフリカ経済史では、宗主国の商社がアフリカ側の農産物の買い付けと輸入製品の売り込みを同時に実施する取引形態として存在してきた。ナイジェリアなどの英国領アフリカでは、トゥーウェイ・トレード(two-way trade 往復取引)、フランス領西アフリカでは、トレット商法(economie de traite)などと呼ばれ、いわば「現地人」を対象とした貧困ビジネスの歴史版と言うことができる。
 今から半世紀前、アフリカ史の歴史学者、D・J・フェージュは、植民地期に先立つギニア湾での大西洋奴隷貿易に関して、以下のような記述をしている。
 「この異常な交易が人びとの経済上の支配行為となった。農業、興業、その他の建設的な仕事の全部が退化した。道具、衣服、その他の物品は、自分たちで作るより、ヨーロッパから買う方が安くなった。彼らの持っていた一切の技術−−鉄、陶器、衣服、真鍮、銅の生産と加工は衰え、さらに消失した。」(クワメ・エンクルマ『わが祖国への自伝』野間寛二郎訳、理論社、一九六〇年)
 歴史的に常に先進工業国によって拒否されてきたアフリカでの消費財生産から始める地場産業の育成によって、生産者と消費者が同じアフリカ地域内に育つという内発的内需拡大案が、今日採られなければならない。すなわち、地球上最後のフロンティアとして「北」と新興国にもっぱら資源と消費財市場を提供するアフリカを拒否するシナリオであろう。
 このBOPビジネスの持つもう一つのより深刻な危うさは、消費者のアフリカは、何よりもアフリカ人が自らの未来を自分たちのアイデアで決めるという政治的主体としての市民像を見えなくしてしまうことである。(236-239p)

以下、列挙。

  • 昨年2月、5月に行ったセミナーで検討した南アフリカでのローカル・マーケットの現状。
  • 昨年12月、横浜で聞いたベナンのキャッサバ加工グループの課題である適切な値段での販売と販売先の確保。
  • Ngugi wa Thiong'o "Petals of Blood"に登場するケニアの農村の雑貨店。
  • いくつかの論文や報告で触れた農村そして都市で暮らす女性たちの酒作りと販売による稼ぎ。
  • マーケット・マミーを対象としたマイクロファイナンスや講に関するレポート cf. アフリカ女性の銀行活用が広がる
  • 和田奈月さんブログ「同じくUVIKIUTAで出会ったP君も、ダル大在籍時代、普段は寮に住みながらも週末はダル内の親戚の所へ帰っては鶏を増やし小遣い稼ぎをしていたことを思い出した。」
  • ウィリー・トコ君「子どもの頃、お母さんがヒヨコやウサギなど小動物を飼っていて、売っては稼ぎにしていた。僕ら兄弟はバゲット売りをしていた。お母さんにほめられるのが嬉しかった」

翻って考えるに、普段必要とする食べもの・油・調味料などをアフリカの人びとはどうやって入手しているのだろうか?昨年、勝俣さんが、セネガルに住んだこともある何度も行っているのに、農村でホームステイした時初めて朝炒っているコーヒーが南部の国境を超えて来たものであることを知った、と言っていたことも思い出した。



2013年10月20日、日曜日午後4時54分。

昨夜遅くから降り始めた雨がまだやまない。ちょっと前まで半袖だったと思うせいか、気温の変化が強く感じられて寒い。

冷蔵庫の中身が乏しくなってきたので、朝食後、近くのスーパーへ行って、泥里芋、冬瓜、小松菜、大根、トマト、ピーマン、インゲン、ミョウガ、新生姜、油揚げ、手羽元、ハム、ブリ切り身、バターを買ってきた。

戻って、まずインゲンと小松菜をゆで、里芋を洗ってタジン鍋で蒸した。新生姜を酢漬けにし、部屋にあったタマネギ、人参、そして買ってきたピーマンとミョウガをサラダ用に刻んでジップした。

で、お昼に、冷蔵庫に入れたままだったカボチャ煮に味付けし、ゆでたジャガイモとゆで卵、そしてタッパーに残っている野菜酢漬けを食べながら、冬瓜と手羽元を炊いた。

午後、雨の中、コインランドリーまで行ってきた。この後は、お風呂に入り、夕食に冬瓜と手羽元煮、サラダなどを食べるつもりだ。


昨日、参加した緊急シンポジウム「エイズ・結核・マラリアは克服できる=世界基金と日本の貢献=」で、20代のフィリピン人女性、30代の日本人男性、30代のソマリア人男性が、結核との闘病を報告するのを聞きながら、高校の時に結核で2年間休学して復帰した同級生がいたこと、大学の時、半年かけてアルジェリアからナイロビまで旅したと話していたクラスメイトがその後結核で入院したこと、そして幼なじみが30代の頃結核で入院していたこと、が頭に浮かんだ。

つい先日会った大学の時からの友人も、高校生の時に結核治療を受け、その時使った薬の副作用で難聴になったということも思い出した。

僕の世代だと結核はかなり身近にあるものだが、昨日闘病体験を語ってくれた30代の日本人男性は、医師から結核と言われて、「結核って何ですか?」と聞き返したとのことだった。

フィリピン人女性が、「母からどうせ治療しても助からない。ムダなことはしなくてもいい」と言われたのが辛かったと語っていたのを聞いて、胸が痛くなった。



2013年10月16日、水曜日午後7時1分。

長時間かかったデータ・サーバー・バックアップが終わり、昨日から随時バックアップをとるようにしたら、ファイル引き合わせチェックに少し時間がかかるものの1回あたりの時間は10分もかからなくなった。

昨夜、台風接近にもかかわらず、予定していた理事会を強行開催。終わった頃、風は少し強まっていたもののあまり雨が降っておらず、助かった。

今朝、起き抜けに近所を歩いた時には傘が飛びそうになる強風だったが、9時ごろには雨もおさまったので、晴れ空用の身なりで出勤した。



2013年10月15日、火曜日午前8時25分。

昨日の夕方開始した職場のデータ・サーバー・バックアップがまだ終わっていない。670ギガのデータ保全、それなりに手をかける必要があることを実感する。

3連休で普段の仕事を休んだので、その間に、翻訳の宿題をすませ、今週の授業で使うレジュメと福島ゼミ用のレジュメを書いた。

合間の気分転換にと読み始めた天野純希著『 青嵐の譜』(集英社)、面白くて一気に読んでしまった。おかげでもう一つ書こうと思っていたブックガイドまで行きつかなかった。

土曜日は暑くてボーッとして昼寝をし、日曜日は起き出して朝ごはんを食べてすぐにまた横になってしまったが、昨日は一日、テーブルに向かって書いたり読んだりしていた。

大型台風が関東に向かって接近中で午後から雨になるとのこと、今のうちに少し歩いてこよう。



2013年10月6日、日曜日午前7時14分。

今日は、昨日より暖かくなるとの天気予報だったが、外のようすはまだそんな感じではない。

昨日は、一日雨との予報で、長いこと靴箱の中で眠っていたトレッキング・シューズを引っぱり出して、日比谷公園へ履いていった。だが、じわじわっと雨水が滲みてきて、そんなに時間も経たないうちに足はびしょびしょになっていた。

時々、雨は止んだが気温は上がらず、持って行ったジャンパーがおおいに役立った。

そんな中でも、ブース・サポートに入ったメンバー、元インターン、インターンの友達が足を運んでくれた。この数年、AJFブースの一番の取り組みになっているアフリカン髪結いのお客さんも、夕方になって増えて、最後の1時間ぐらいは入れ替わりが続いて席が埋まっていた。

1994年に荒川区の区民会館で七三一部隊展を開く準備会合で仲良くなった友人もすぐ近くのブースに詰めていた。数年前、同じ会場で隣り合わせのブースになった時にユズをもらったことを思い出した。

ともあれ、風邪を引いたりせずに昨日を終えることができてよかった。帰り道、ちょっと飲んで食べたら、電車の座席で寝付いてしまい、乗り過ごしそうになった。

今朝最初のブース当番とは、6月に会員総会と組み合わせて開催したフォーラム以来、久しぶりの再会となる。12時〜15時の当番とは2年近く会っていないような気がする。そんなメンバーとの再会の機会、重要だ。



2013年10月4日、金曜日午前9時16分。

今朝も7時1分発の始発に乗った。雨でなければ自転車にしようと思っていたが、今にも降り出しそうな天気なのでやめた。

昨日、福島智さんが3年ぶりに開講するゼミの初回に参加した。韓国で小学校教員をやっていたという留学生、予防接種による被害で知的障害者になった家族を持ち被害者支援の活動に携わっているという社会人院生、理学部数学科の学部生、法科大学院生が2人、中国から最近やって来て今日本語を学んでいるという留学生、昨日は5コマの授業をこなした今日はさぼってこのゼミに参加したという大学教員、そして『ゆびさきの宇宙〜福島智・盲ろうを生きて』の著者で自称「福島さんの追っかけ」の生井さんと、教育学研究科の院生よりも他のコース、学外者が多いといういつもの福島ゼミだった。来週からは、また別のおなじみさんが教室にやってくる。

現在、法科大学院に在籍しているという出席者の一人が、大検で資格を取った後しばらくゲーム会社で働き、その後大学に入学したと話すのを聞きながら、今年初めに急逝した昔の仲間、今は郷里で学習塾をやっている友人、そして高校卒業後何年間かフリーターをやった後大学入学、一つ目の大学では寮闘争に関わったこともあって年限切れになり次に行った大学で医者になった20歳ぐらい年下の仲間のことが頭に浮かんできた。つい先日読んだ『難民高校生 絶望社会を生き抜く「私たち」のリアル』の著者も高認試験で資格を取って大学に進学している。

普通の経歴ではない人たちと間近に接する機会があったことは、すごく大きい。障害者運動に惹かれたのも、「今の自分ではない別の自分」を考える手がかりがあると感じたからだ、と改めて思う。



2013年9月21日、土曜日午後5時13分。

近くのスーパーへ行ったら、ボーンチャイナのお皿が半額セール中だった。今日は当たりかなと思い、大皿、中皿、小皿と浅いボールを買った。

この機会にと思い、土鍋も買った。今、初期化中。

下の食品売り場では、小ぶりの梨が4こ入った袋、巨峰一房、枝豆、卵をゲットした。

朝、刻んで塩をしておいた大根と人参に甘酢をかけたので、明日の朝には食べられるだろう。

利根川の渡し舟に乗ろう、という誘いのメールも入っていて、今日も気分がいい。



2013年9月21日、土曜日午後1時58分。

先日、障害学会で発表を聞いた盲ろうの研究者・福田暁子さんとFacebookで友達になった。

Facebookに、届いたばかりのスロープを試してみたくて夜の街を徘徊という書き込みを、彼女がしていたのだ。

コンビニ前の段差、駐車場入り口の段差にスロープをさしかけ車いすで段差を越えている写真が掲載されていた。

このコンビニ、これまで段差があったために入ったことがなかったそうだ。

入り口でほろ酔い機嫌のサラリーマン4人組みが「手伝おうか?」と声をかけてきたのに、「これがあります」とスロープを見せたら、みんな立ち止まって見ていたそうで、段差を越えたら声があがったと書かれていた。

せっかく入ったコンビニというので、ゲットした品々の写真もアップされていた。ホッピー、クマモン・グッズなどなど、必要度の低い細々したものを買うのが好きという人らしい選択(?)の品々だった。

胃ろうをつけていて人工呼吸器を常用しており電動車いすユーザーでもある盲ろう者がどうやって災害時に避難するのかという障害学会の発表について「一番、研究らしくないことを発表するつもりだった」と、福田さんは言う。

「想定外は想定内なんです」との発言含め、たいへん興味深かっただけでなく、これから手をつけなければならないことをたくさん提示した福田さんの発表は、障害学会だから、ではすまない内容だった。

Facebookでのやり取りの中で、東日本大震災の際、避難所に逃れた盲ろう者のおばあさんが、「避難所の方がよかった」と言っていたと教えられた。言われてみると、家族が四六時中ついているわけにはいかない在宅生活よりも、誰かしら側に人がいる避難所の生活は、情報手段が限られ、自力での身動きが困難な盲ろう者にとってはまだしも「安心できる」ところなのだろうと思ってしまう。30年近く前に聞いた、施設を出て自立生活をしている脳性マヒ者が「これから介助者が来るとわかっていて一人でいる時間が一番ホッとできる」と言っていたことを思い出した。



2013年9月16日、月曜日午前11時50分。

台風接近中。起きた時は降っていなかったが、朝食時に風が吹き込んでいると思ったら、ベランダ越しに雨が吹き込んでいて畳の一部がビショビショだった。今は小休止中?

台風情報では午前11時時点で台風は長野県飯田市を通過中とのことだった。関東に影響を及ぼさない所まで行くのにはもうしばらくかかりそうだ。

一昨日、昨日と早稲田大学戸山キャンパスで開かれた障害学会に参加した。

土曜日は午前9時から情報保障室に理事として詰め、発表者と手話通訳が事前打ち合わせを行うのを横目で見ていた。

障害学会では、事前の発表要旨のウェブ掲載、当日の手話通訳と要約筆記で情報保障を行っている。また、電動車いすで会場内に入れるようにスペースを確保している。

今年は、発表数も参加者数も大会史上最高とのことだった。実際、それなりに広い会場の席がまんべんなく埋まっていた。特に土曜日の大会記念シンポジウムは多かったが、昨日の特別セッションも台風接近中という不安定な天候にもかかわらず参加者は多かった。

記念シンポジウムは、民主党政権の下で実現した新しい障害者政策策定プロセスに当事者委員、運動体委員、学識経験者として関わったメンバーからの報告とコメントを聞いて質疑・討議を行うものだった。

結論だけ言えば、障害学の立場からの障害者政策研究がもっと必要というものであった。

昨日の特別セッションは、精神病者・依存症当事者・発達障害者によって取り組まれている当事者研究を手がかりに「当事者学としての障害学」を問い返すことを狙ったものだった。

現障害学会長である堀さん、当事者研究をベースにした共同研究を推進する熊谷さんの報告と提起は、既存の学に対する異議申し立てから始まった障害学と、多様な学とのコラボレーションを追求している当事者研究という一見しての相違以上に共通の課題・方向性を示しているように感じた。

特別セッションの時、会場から出ていた「当事者概念が厳しすぎる」「社会モデルは理解されにくいのではないか」というコメント、問いかけへの堀さんの応答、体験に基づいた原則的なものでよかったとウムウムとうなずきながら聞いた。一方で、ある意味「率直に」これらのコメントや質問を投げかける若い世代が参加していたことに、今後への希望も感じた。

久しぶりに会った福島さんが元気そうで、質問・コメントもたくさん投げていたのに安心した。

10月3日からゼミを開講し、『盲ろう者として生きて:指点字によるコミュニケーションの復活と再生』を読むとのこと。僕が最初のレジュメを出すことになった。



2013年9月2日、月曜日午後2時1分。

昨日の朝、自転車でネコの世話をしに行った。1週間前の日曜日の朝は70分近くかけたコースを57分で行けた。

ネコは人恋しいらしくて、行って水を換えたりトイレの掃除をしたりしているとまとわりついて足にすりすりしてくる。

入院中に何度か世話をしに行ってもらった友達にもそうやってまとわりついたようだ。

と言う感じでからだを動かしたおかげで、夜9時にパタッと寝て、午前3時前に目が覚めた。

風呂に腰湯ほどのお湯を張ってしばらくつかったら、また眠くなって、30分ほどウトウトした。

起き出して朝食をとり、お昼に食べるサラダと果物をパックに入れて職場に出て来た。

この後、午後の薬を飲んで、電車でネコの世話をしに行って、帰り道の一部を歩く予定だ。



2013年8月20日、火曜日午前8時。

昨日、ネコの世話をしに行った後、川沿いの道を1時間歩いた。先週水曜日には、休み休み80分かけて歩いたコースを、1時間で歩いてもあまり疲れたようには感じなかった(その後、乗ったバスの中ではウトウトしていたから実際にはけっこう疲れてたのだろう)。

夜、夕食を食べた後、しばらく近所をウロウロして、10時ごろ布団の上で横になったら、スーッと寝てしまっていた。午前2時半に目が開き、トイレに行ったら、すぐには眠れそうにないので、近くのコンビニへ行った。雑誌を眺めて、50円引きで売っていたバナナを買って部屋へ帰り、横になったら眠れた。

5時に起き出して、洗髪し、みそ汁を作って朝食をとった。

最寄り駅に行ったら、ちょうど始発電車が出るところだった。席が空いているのが見えたので、乗り込んで座った。ちょっとウトウトしていたら職場近くの駅だった。

眠れる、歩ける、歩くペースが安定してくる。回復が順調というのを実感した。



2013年8月18日、日曜日午後2時45分。

退院してもうすぐ1週間。

暑い日が続くが、幸い、夜になると風が吹いている。部屋の扉も少し開けて、風通しをよくしているおかげか、病院にいた時とあまり変わらない時間に寝付いている。

今朝、昨日の午後、昼寝をしたせいか、午前2時に起き出したら眠ろうという気になれなかった。暗い中、散歩していたら、風が気持ちよかった。

2時間ほど、途中コンビニに入ったりしながらウロウロして部屋へ戻り、水を浴びたら、眠くなった。

次に目が開いたら7時半だった。

朝食をとり、友達のネコの様子を見に行った。元気にしていた。

手術のあと、まだまだ違和感があるが、眠れるし、歩いているとあまり気にならないのかだから、こんなものなのだろう。去年の10月から11月にかけて、よく歩いたことを思い出した。



2013年8月13日、火曜日午前3時9分。

昨夜、消灯時間になって病室が暗くなったことを覚えている。

一度、トイレに起き出した。日付が変わるちょっと前だった。

さっき、2度目のトイレに起き出した。戻ってきてベッドに横になったが、もう眠くない。

今回の入院・手術が最後とは断言できないのが、残念だ。

感染が判明したのは20数年前で、計5年ほど断続的に経過観測通院を受けたB型肝炎ウイルスによる慢性肝炎の痕がまたガン化する可能性がある。

退院後も、定期的に検査を受けることになる。

入院した病院の教授が書いた本によれば、東アジアは肝炎ウイルス感染の多発地帯だ。つい最近の共同通信配信記事も気になる。

ウイルス性肝炎の死者急増 2010年140万人、WHOが対策

2013/6/7 22:06

 【シンガポール=共同】B型、C型のウイルス性肝炎による死者数がアジアを中心に世界で急増し、2010年の死者は当初の予想を超える140万人以上となったことが7日分かった。世界保健機関(WHO)は同日、シンガポールで記者会見し、エイズウイルス(HIV)と同様に肝炎対策に本格的に取り組む方針を明らかにした。
 WHOは、B型、C型のウイルス性肝炎の感染者は症状の出ていない人も含め世界で5億人以上いるとみており、感染防止や治療に向け各国の政府や研究者と連携する横断的組織「世界肝炎ネットワーク」を同日付で設立した。
 米ワシントン大の保健指標評価研究所が昨年12月に公表した調査によると、10年のウイルス性肝炎による死者は約144万人でHIVとほぼ同数。20年前に比べ46%増加し、結核やマラリアの死者数を上回った。
 WHOによる肝炎への組織的な取り組みが始まったのは07年ごろからで、担当者の数はHIVやマラリアに比べ「20〜30分の1」(関係者)にすぎないのが現状という。
 日本の厚生労働省によると、日本のウイルス性肝炎の年間死者数は最新の11年のデータでB型が517人、C型が4737人。B型肝炎ワクチンについては、昨年5月に厚労省の専門家会議が定期接種化することを提言したのを受け、検討が進められている。
 B型、C型肝炎のウイルスは主に血液を介して感染する。自覚症状がないまま肝硬変や肝がんに進行するケースもある。〔共同〕

現在、B型肝炎ウイルスの感染に対しては、抗ウイルス薬による治療が可能で、僕も一昨年12月から服薬している。6月の検査の際にウイルス量のチェックも行ってもらったところ、ほとんど検出せず、だった。

2006年から保険適用になった、実用化されてまだ7年目という薬だ。空腹時に服用するというものなので、昼食から2時間後を目安に服用している。そのために携帯電話のアラームをセットしている。

昨年末、30年ぶりに会った友人は、血液製剤である止血剤によってC型肝炎ウイルスに感染し、一昨年肝炎を発症してたいへんだったと話していた。しかも、インターフェロン治療の副作用が出て、休職せざるをえなかったという。

インターフェロン治療を開始した医師では対応できず転院し、現在、僕と同じ病院に通っていると言っていた。

幸い肝炎は治癒したが、インターフェロン治療が目的としたウイルス叩きは不十分なので再発の可能性もあり、インターフェロンに替わる新薬開発を待っている、とも話していた。

感染の原因となった止血剤使用に関する裁判を起こす取り組みにも関わっているとのことだった。



2013年8月12日、月曜日午後8時27分。

今、担当医チームがやってきて、開腹手術の縫い目を留めてあるホチキスの針を半分抜いて行った。

明日、残り半分を抜いてもらったら、退院だ。

前回は、手術日から9日目の金曜日に退院だった。今回は、手術日から8日目・9日目が土日にあたってため検査も回診もなく、今朝の採血の検査結果と回診で退院OKがでた。

病室は涼しく、昨日、今日のむちゃくちゃ暑い時間帯には、ベッドの上で本を読み、ゲームをやり、ウトウトしていた。

今夜は、雷をともなう夕立がかなり強く降ったので、窓の外も涼しそうだ。

ともあれ、明日の夜からは自分の布団の上で眠ることができる。うれしい。



2013年8月9日、金曜日午後11時48分。

午後9時に消灯なので、ベッド周りは暗い。こういう時にPCは便利だ。

昼食後、ちょっと横になったらけっこうしっかり眠りに入っていたからか、なかなか寝付けない。

処方されている利尿剤の効果で、普段よりもたびたびトイレに行くのも影響している。

普段の生活であれば、よほど早起きしたとか、相当体力を消耗したとかしなければ、横になっていない時刻にベッドに入っているんだな、と改めて感じた。


来週末に予定しているアフリカンキッズクラブ夏のキャンプのことを考えていると、30年前にやっていた花畑での「子ども会」のことを思い出す。

今も一番関わりが深い仲間は、この時に一緒に「子ども会」をやっていた。

あの時、そしてその後、それぞれに考えたこと、感じたことを聞いてくれる人を探してみようかと思う。

僕らだけで話していると、あの時のことがあるから今もつながっていることを確認して終わり、となってしまいそうだ。



2013年8月9日、金曜日午後5時21分。

病院の建物から出ると暑い。

汗まみれのシャツは気持ちが悪いので、ベッドに戻り、汗を拭いて着替えた。

担当医グループが様子を見にきてくれた。

「あと何日くらい入院するのですか?」と聞いたら、「経過は良いので、来週中には大丈夫でしょう」とのこと。

休み休みでももう少し動けると、もうちょっと気分もいいかな、という感じだ。



2013年8月8日、木曜日午前10時15分。

6月に受けた検査で2カ所患部が特定され、7月前半に入院・手術をという希望を出していたが、8月2日に手術を受けることになった。

病棟には、昨年10月にお世話になった看護師さんが何人もいて、今回もお世話になっている。

担当医のチームは年度替わりの際に再編されたのだろう、昨年10月の担当医グループの長は今年病棟の担当医一覧には名前がない。今回の担当医グループ・メンバーのうち2人は、去年のグループ・メンバーだ。

4日に病棟のベッドへ戻ってきて、レントゲンを撮ったら胸に水があるようだというので、CT、超音波検査、内視鏡を入れての痰取り、点滴の付け替えとあった。無理に水抜きをするほどのことではないと診断だったが、翌日のレントゲン検査の後にも急きょCTを受けることになり、気持ちが疲れた。

それでも経過は順調で、一昨日、お腹に入れてあった管の片方と尿の管、点滴が外され、昨日もう一方の管も外れたので、身体的にも気分的にもすごく身軽になった。

前回に比べよく眠れている。一昨夜も昨夜も、夜中に何度か起き出してトイレに入った。ベッドに戻って、どう横になるのがいいのかな、と思っているうちに眠り込んでいた。

今朝の回診時に、お風呂は大丈夫?と聞いたら、いいですよ、とのことだったので、早速シャワーを浴びた。縫ったところにあててあったガーゼを濡らして外して出てきた後で、腹帯だけで大丈夫と言われて安心した。



2013年6月15日、土曜日午前7時33分。

昨夜、立命館大学生存学研究センター・セミナー「目の前のアフリカ」第2回「病いと共にあるつながり−−エイズ・人権・社会運動−−」を開催した。5月に開催した第1回に比べると、来場者の平均年齢が下がっていた。

僕は、『人権の再問』に書いた「グローバルな人権の課題−途上国におけるHIV陽性者運動が明らかにしたこと」をもとに、南アフリカ共和国の著名なHIV陽性者運動家であるザッキー・アハマットとエドウィン・キャメロンを紹介し、2000年以降、世界的なエイズ対策が明らかに変わったことを報告した。

また、日本のアフリカ研究者、国際関係や国際政治、世界経済の研究者がほとんどこの変化をフォローしていないため、変化の意味が知られていない現状を紹介して問題提起とした。

2008年以来、一緒に「関西からアフリカのエイズ問題を考える」を開催してきた京都大学学際融合教育研究推進センター特定准教授の西君は、「社会的つながりが感染症を治療する−−エチオピアのHIV感染症と釜ヶ崎の結核問題の経験」と題して、アフリカでのエイズ治療における服薬アドヒアランスの高さをもとに作られた「Test and Treat」モデルを根拠とした「HIV新規感染0」というスローガンを出発点に、エチオピアでの調査地におけるエイズ治療薬服薬に関するアドヒアランスの高さを支えるもの、釜ケ崎における結核治療薬服薬に関するアドヒアランスの低さから見える社会的な孤立について問題提起をしてくれた。

会場から、「社会的なつながり」がどのような形で服薬アドヒアランスと関わっているのかをもっと具体的に示して欲しいとの質問があり、西君がエチオピアの農村地帯における伝統的な「社会的つながり」の現在を、僕が南アのHIV陽性者グループが取り組む患者訪問・ケアを通した新しい「社会的つながり」構築の試みを紹介したところで、時間切れだった。

かつての簡易宿泊所が衣替えした単身者向け高層アパートが密集する現在の釜ケ崎の写真を見て、山谷との違いに驚いた。居住人口の数が違うことを改めて感じた。



2013年6月4日、火曜日午前6時9分。

午前3時に目が開きトイレに行ったら、「起きる」と家主から声がかかった。で、起きて作業をしている。

先週金曜日、土曜日から始まる第5回アフリカ開発会議(TICAD V)の前夜祭をうたったイベントを、TICAD会場近くの横浜港開港記念館で開催した。

会場のはじっこで通信社の記者と話しをしてフッと目を向けた先に楠原彰さんがいた。2006年6月に明治学院で開かれた平和学会アフリカ分科会で話を聞いて以来だから7年ぶりの対面だった。

楠原さんは、僕の顔を見て「今日は会うだろうと思ってた」と本の入った封筒を手渡してくれた。開けてみると、今年3月、楠原さんが太郎次郎社エディタスから出した『学ぶ、向きあう、生きる: 大学での「学びほぐし(アンラーン)」−−精神の地動説のほうへ』だった。

去年3月に國學院大學で行っていた授業も全て終わりにして、本を書いているとは聞いていた。その本を持ってきてくれたのだった。

翌日、横浜からの帰り道、電車の中で開いた。楠原さん自身の体験を振り返りながら、大学そしてキャンパス外での学生たちとの触れ合いの中で見聞きし感じたことがビビッドに書き込まれていた。

読書会の時代、ワークショップの時代、「スタディツアー」の時代と並んだ大学での「実践」と学生たちとの触れ合いの記録は、僕自身も大学で教えるようになって感じていることにもつながっていて参考になる点が多々あるが、何といっても、大学を出たものの何をどうすればいいのか迷って新潟から東京へ出て来た時期に、住み込みで家庭教師をしていたその教え子の小学生と住み込み先で殴り合いのけんかをしたことを書き留めた文章が強く記憶に残った。

家庭教師にしかられて反発し殴り合いをやった教え子の方は、この一件を経て、本人も家族も違った見方をするようになり、「家庭教師の成果があがった」という。

2000年代に入って、楠原さんの授業を毎年訪ねてきて、年に1〜2度は授業もやっていた車いすユーザーの福岡青い芝の会の利光さんと一緒にタンザニアに行った時の記録も、公開できるといいなと考えている。



2013年5月6日、月曜日午前6時13分。

昨夜、くまもん飴をお土産に、部屋へ戻った。

いつものお菓子屋のカウンターで、これまで買ったことのないお菓子を買った後で、くまもんのことを思い出した。で、飴を買った。

3日、半年ぶりに親の家へ行ったら、弟が入院していた。急性すい炎だった。

幸い大事には至らず、4日、2週間近くの入院生活を終え、自分で車を運転して戻ってきた。


連続公開セミナー「飢餓を考えるヒント」で話してもらったこともある中田英樹さんが『トウモロコシの先住民とコーヒーの国民 人類学が書きえなかった「未開」社会』(有志舎)で、先住民たちが「村」の境界を超えて広がる「共有地」で自ら食べるトウモロコシだけでなく家畜のための飼い葉を得てきた歴史を紹介しているのを読み、能登の時国家にまつわる「発見」を連想した。

時国家に関しては、回船業者として残した記録が読み解かれたことで実態が見えてきたわけだが、グアテマラの先住民の村に関しては、スペイン語の読み書きができ土地登記の業務にも携わったことのある先住民の「調査協力者」が遺した記録を中田さんが読み解いて僕らの前に提示してくれている。

この「調査協力者」を、『ロビンソン・クルーソー』の中でロビンソンとフライデーの関係が、ロビンソンにとっての「私の従僕フライデー」と描かれたことにならって、「私の従僕」と書き残した「人類学者」に怒りを覚えた。

とはいえ「調査協力者」ロサーレスはシカゴ大学に留学して晴れて「人類学者」に成り上がり、彼を「私の従僕」と呼んだ「人類学者」の論文を始めとするシカゴ大学人類学部の業績を次々とスペイン語に翻訳してグアテマラで紹介していった。

これは果たして過去の物語なのだろうか?



2013年4月23日、火曜日午前5時51分。

冷たい雨が降った土曜日、午前11時から3時間ほどかけてアフリカンキッズクラブの活動振り返りと今年度計画に関する打ち合わせを行い、その後、「越田さん、ありがとう!」の集いに参加した。

記録によれば、越田さんは僕と同じ年の生まれだ。2月に彼が亡くなった後、3月に同年代のちょっとだけ接点のあった人が亡くなった。1月には、30年前に会ったきりだった同じ年の仲間が急逝したところだった。

いつも会っていたという人たちではないからだろうか、それぞれの生き方、活動ぶりについて知れば知るほど、生きたいように生きたんだろうな、と感じる。

それぞれが最後に直面していた病気や障害に関わってもう少しジタバタしていたら、もっと良かったのに、とも思ったりする。

この日、長らく会う機会のなかった人、見かけることはあっても話したことのなかった人と会って話をした。



2013年4月7日、日曜日午前9時15分。

低気圧の影響で、まだ風が強い。

昨夕、駅近くの本屋で、佐藤多佳子著『第二音楽室−School and Music』を見て手に取った。

中学2年生のクラスが、「翼が欲しい」をデュエットするという音楽の課題でざわめくようすを、渦中にいる少女の視点で描いた作品。音楽の教師に誘われてリコーダー四重奏の練習を始めた4人の中学1年生たちの交流と変貌を描く作品。中学2年生でいじめにあって不登校になった少女が、女子高の軽音楽部で自分の居場所を見出すまでの心の動きを追いかけた作品。どれもおもしろい。収録されたもう一つの作品は、後のお楽しみ。

読んでいて、45年前、中学に入った頃の自分のことを思い出してしまった。

何がきっかけだったのか覚えていないが、中学1年の時、剣道部に入部した。夏休み終盤の練習日にお腹が痛くなって病院へ行ったら盲腸だった。そのまま入院して手術を受け、2学期最初の1週間を休んだ。そして、剣道部もやめてしまった。

というようなことを書いていたら、木造校舎の2階だった中一の時のクラスルームから、剣道部も使っていた体育館の横の桜が見えていたことも思い出した。担任が数学の教員だったことは覚えているが、同じクラスに誰がいたのかは、思い出せない。

中二の時、組替えで一緒になったクラスメイトの一人が盲腸になったことも思い出した。発見が早く1週間の入院だけですんだ僕のケースとは違い、彼は腹腔内に溜まっていた膿を出すために長いこと治療を受けていたようだった。

中二のクラス担任だった国語の教員に、「授業を聞いていないのなら廊下に立ってろ」と言われて廊下に出たことを覚えている。授業中に吉川英治『新平家物語』を読んでいることがわかってしまったからだったと記憶している。

大学で留年して障害者運動に関わっていた頃、父親が「中学生の時、家庭訪問に来た担任が、龍一郎君は成績はいいがクラスメイトに冷たいようだ、と言っていたのに、ずいぶんな変わりようだな」と皮肉っぽく言ったことも思い出してしまった。

父親の話を聞いた時、根拠もなく「冷たいようだと言ったのは中二の担任」と感じたことまで記憶の底から浮かび上がってきた。

中学では、生徒会長もやった。この時、役員だった1年下の女の子が、僕が大学2年になった年、その頃住んでいた伯母の家の近くの大学に入学したと聞いて訪ねていったことがあった。小学校か中学校の教員になったのだろうか?

中三のクラス担任は英語の教員だった。1970年11月、中三のクラスルームの並びにあった宿直室でTVを見ていたらしい彼が、「三島由紀夫が死んだ!」と叫んでいたことを覚えている。

僕の行った中学は、テストごとに成績表を貼り出していた。実力テストの時には名前は伏せてあるものの科目ごとの点数を含む成績と偏差値をまとめた一覧を配布してもいた。

高校は、そこまで手をかけていなかった。成績簿に学年内での成績順位が記されていたのは覚えている。実力テストが終わると、平均点を5点ごとに区切った段階表に、それぞれの段階の該当者何名と整理したものが職員室前に貼り出されていたと記憶している。

小学5年生の時、同じクラスになり、好きだったSさんの家で、彼女の妹や兄さんも交えてダイヤモンド・ゲームをやっていたのは、小学生の時だけだったのか、思い出せない。

Sさん宅には、僕も妹・弟と一緒に行ったこともあったような気がするが、こちらも定かではない。



2013年3月20日、水曜日午前10時53分。

今日は春分の日。3月20日が春分の日というのは、めったにないことだそうだ。

昨日、来年度のNGO相談員の応募書類と先日報告書を納品した調査の請求書を出したので、ホッと一息と思っていたら、来週月曜日締め切りの仕事があった。ともあれ思い出してよかった。

以前、何度かウィーンに行った時に世話になった友人と、Facebookの友達になった。最後に会った時、まだ小学生になっていなかった子どもたちも10代半ば、上の子は高校を卒業したところだとのこと。

頼まれて日本で購入したCDのセットを持っていったことも思い出した。

ウィーンへは、アルウィンの墓参りに行った後、行っていないんだと改めて思った。そういえばパスポートを使ったのも、2004年7月に国際エイズ会議が開かれていたバンコクに行った時が最後だ(パスポートの有効期限を確認したら2020年になっていた。たしかに更新手続きに行った覚えがある)。



2013年3月10日、日曜日午前10時28分。

先日参加した、急逝した仲間を偲ぶ会のことを、彼のことを知っているかと思って別の友人に書き送ったところ、「タイムマシンに乗っているような感じで、まだピンときません。」とのメールが返ってきた。

「私たちも50代半ばなんだから、事故や自死以外の訃報もありなんだ。と自分を納得させながら読みました。」とも書かれていた。

進行性の難病をかかえていて折れた骨がギプスで固めただけではつながらないなどといったことはあったものの、関節の変形などによって細くなっていた気管支に何かがつまって急に呼吸困難に陥り、呼んだ救急車の中で呼吸停止になった後、一度は蘇生したものの再度呼吸停止、心臓死という経過をたどったという、偲ぶ会で聞いたことを書き送っていなかったことに気がついた。

とはいえ、たしかに「事故や自死以外の訃報もありなんだ」。



2013年3月3日、日曜日午後11時40分。

Facebookに昨日の記述へのリンクをアップしたところ、「文字化けしてる」と指摘された。

ファイルを確認したところ、タグに余計なクォーテーション・マークが入っていた。

PCだと問題なく見ることができていたので、いくつかのファイルに同じような間違いがあるのに気がつかないままでいた。

指摘してくれたFB友達は、スマホでFacebookを見てるのだろう。



2013年3月2日、土曜日午後0時42分。

昨夜、1976年から1980年まで関わっていた運動の仲間を偲ぶ会に参加した。

1月半ばに急逝したかつての仲間を撮った写真の多くは、電動車いすに乗った写真だった。

学生時代、一緒に行動していた頃は、下肢に補装具を着けていた。すごく暑がりだったことを覚えている。

昨夜、聞いた話で、間接が変形する進行性の病気であったこと、また、首から上に汗腺がないという身体だったために、いつも扇風機を持ち歩いていたことを知った。

同じ年で出身地が隣県だった(そして故郷で死を迎えた)仲間のことで一番印象に残っているのは、大学入学資格検定試験で受験資格を得て大学に入ったということだった(当時の仲間にはもう一人、大検取得者がいた)。

身体の具合が良くないことから高校生活が合わずに中退したのだろう、と漠然と感じていたこと自体は間違いでなかったこともわかった。しかし、小学校・中学校時代の仲間に囲まれ電動車いすに乗っている写真を見て、また、どこへ行っても場に溶け込むのは早かったという話を聞いて、「合わない=孤立」ではなかったことも知った。

対面指導の小さい予備校で生徒たちの指導にあたった後、郷里へ戻ってから働くようになった大手予備校の大教室授業を続けることが困難で、教材編集に携わっていたこと、そうした経験をもとに作った教材が発行した出版社のドル箱になっていることなども初めて知った。

大学から離れるちょっと前から障害児の転校実現運動に関わるようになってから、大学キャンパス内で一緒に泊まった時、彼が補装具を外していたことをくり返し思い起こすようになった。

電動車いすを使用するようになっただけでなく、首の手術をしたり、骨折した上腕部の骨をつなぐ手術を受けたりして、近年は口述筆記で教材編集にあたっていた彼が、肢体不自由者が能力を発揮する機会づくりの構想も語っていたと聞いて、なるほどと思った。

前回会ったのは30年前だったという仲間も参加していた。その頃の印象と全く変わってしまい名前を聞かなければ誰とわからない仲間もいた。顔をあわせた途端に、最後に電話で話したのはいつのことだったかと思い浮かんだ仲間もいた。

死んでしまった仲間とは直接会ったことはないが、つながりがあって参加したというちょっと下の世代の参加者もいた。



2013年1月22日、火曜日午後9時20分。

日曜日に、2時間半の座談会記録を11時間かけて書いた。

部屋に暖房がないので、朝から風呂をわかし、書き始める前、昼食後、書き上げた後と3度、入浴して書いた。

録音を聞いたりキーボードを叩いたりしているだけだと身体がこわばってくるので、厚手の靴下とフリースのひざ掛けも買ってきて使った。

興味深い話がたくさん出た座談会だったので、記録をまとめる作業にも興が乗り、割りにスムーズに書き進めることができたが、さすがに疲れた。

この原稿をまとめたことで、今年6月に横浜で開かれる第5回アフリカ開発会議(TICAD V)に向けて、NGOの集まりでまとめている提言書へインプットすべき点も明確にできた。



2013年1月15日、火曜日午前6時35分。

泊まり先で窓の外を見ると、昨日降った雪がしっかり残っている。

昨日、北からやってきた寒気団と太平洋から北上する雨雲を伴った低気圧が重なり合った地域で大雪が降ったという。

雨、雪の核になる大気中の微小な塵埃の中には放射能を帯びたものも、まだまだ多いことだろう。そのことが改めて気になる(だからどうすればいい、と言えるわけではない)。

先週が今年度最後の授業で、期末レポートを受け取った。

提出されたレポートを読むと、外国人ケアワーカー、ケアワークとワーキングプアーに関わるものが多い。だからだろう、"I am a girl"キャンペーンに触れている学生が2人いたのが印象に残る。



2013年1月9日、水曜日午前6時45分。

今週から泊まりの介助に復帰した。ほぼ3ヶ月、介助者仲間たちが僕の担当分も担ってくれた。

久しぶりの泊まり、からだを動かすのは問題なかったが、起床時刻を意識しすぎたのか、夜中に2度、3度と目が開いてしまった。

2度目に目が開いた時、微妙な時間帯でどうしたものかと思ったりもしたが、暖かい布団の中にいたらウツラウツラとしてハッと気がついたら起床時刻だった。

入院時、利尿剤の処方もあったので、夜も何度か起き出してトイレに行った。同じような処方を受けているからか、あるいは日中もウツラウツラしている時間があるため夜眠くならないのか、夜中に廊下ですれ違う入院者も少なくなかった。そんなことを思い出した。

ともあれ、体調回復を実感できて安心した。



2013年1月3日、木曜日午後6時20分。

冷蔵庫に年末に買ったベーコンブロックがあることに気づき、キャベツ、蕪、ジャガイモを買ってきて煮込んだ。バターとベーコンの塩味だけのシンプルなスープに柚子コショウを入れて食べたらおいしかった。

棚の奥にしまい込んだままだった秘伝豆、年末に母親が送ってくれた小豆を浸しておいたので、これから炊く。秘伝豆はそのまま食べてもサラダに使ってもおいしい。小豆は、一緒に送られてきた餅と一緒にお汁粉にする。

スーパーで目に入った愛知県産のセロリと宮城県産のパプリカを、沖縄県産のボンレスハムと合わせて食べた。シャキシャキした食感とパプリカの甘味がハムの塩味とマッチして、こちらもおいしかった。

これまた棚の奥に眠ったままだったクスクスをベーコン・キャベツ・スープに入れ、クリームチーズを落として食べてみた。味付けに工夫が必要、という感じだった。



2013年1月2日、水曜日午前4時36分。

元旦の朝、外房で初日の出を見た。

雲が出ていたが、真っ赤な太陽が昇っているのがよくわかった。

早くから来ていた人たちは、焚き火をしながら日の出を待っていたようだ。

僕自身は、夜明け直前のボーッと明るい中を歩いていたら、たくさんの車が海岸へ向かうのにつられて、海岸へ行った。で、ちょうどいい時間に着いた。


年末に職場を閉めた日から、毎日、午後9時前に布団に入った分だけ早くに目が開く。今朝は、午前2時半頃、目が開き、布団の中にいても寝つかないのでちょっと歩いてきた。

たくさん着込んで出たからだろうが、そんなに寒くもなく、ひんやりした空気の中を歩くのはけっこう気持ちいい。

去年10月、手術を受けるために入院した後、早寝早起きになって、1カ月くらいは最寄り駅から出ている7時台の始発電車に乗っていた(その分、午後も早くに職場を出ていた)。

12月以降は、8時台に1本だけある始発電車に乗っている。始発が出る駅が近くにあるのはありがたいと改めて感じている。


昨日、新年のあいさつと入院中のお礼を言うために、伯母のところへ行った。

携帯電話のメールを見づらそうにしているので、メール読み上げ機能のある携帯電話に替えたらと勧めたら、そんなものがあるのかと言う。

景気回復はあるのか、という話になったので、生活保護受給者やワーキング・プアーと言われているお金のない人たちにお金を渡せば、お金を使ってくれるから物の動き、お金の動きがいくらか活発になるよ、と話した。普段の生活に困らないほどのお金を持っている人は減税などで支出を減らすことができると、その分投資に回したり貯蓄したりするので消費の伸びにつながらないじゃないの、とも付け加えたところ、なるほどそうだね、とうなずいていた。で、そんな話、初めて聞いたというのでびっくりした。




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アマゾンのアソシエイツになりました。
昨年、亡くなったスティ−ブン・J・グ−ルドの本を買ってもらいたいと思っています。
紹介文をボチボチ書いていくつもりです。まずは机の側にころがっていた「THE MISMEASURE of MAN」のことを書きました。


by 斉藤龍一郎
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